ホン・サンスの『逃げた女』と『あなた自身とあなたのこと』

 今回は、ホン・サンスの新作『逃げた女』(2020)を『あなた自身とあなたのこと』(2016)と比較して考察してみたいと思います。

※作品の内容および結末など核心に触れる記述が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください。

『逃げた女』

 映画は大まかに3つのパートに分かれています。主人公ガミ(キム・ミニ)が、3人(うち1人は偶然を装って?)の女性の元を訪れるのですが、その都度、登場しない夫との良好な仲を同じセリフで繰り返します。
 その執拗な反復から、タイトルにもあるように、おそらく「逃げた女」とはガミ自身であって、そのセリフは嘘なのだろうと想像できるのですが、決してそれは明らかにされません。

『あなた自身とあなたのこと』

 一方、2016年の『あなた自身とあなたのこと』では、主人公ミンジョン(イ・ユヨン)が、彼女を知る3人の男性に、あなたが誰か知らないし、ミンジョンでもないと明らかな嘘を平然と繰り返します。
 繰り返し嘘をつく理由がわからないので、解離性同一性障害なのではとも思うのですが、登場人物の誰もそのようなことを口にしませんし、疑われることすらありません。

『あなた自身とあなたのこと』では、ヨンス(キム・ジュヒョク)が見る幻想のミンジョンも3度(?)繰り返されます。

1)ミンジョンの家を訪ねたヨンス、彼を呼ぶ彼女の声にキャメラがパンすると、そこにミンジョンがやってきます。キャメラは、再びパンしてヨンスに戻しますが、一向に彼女はやってきません。それで、ヨンスが見た幻だったのだとわかります。

2)再びミンジョンの家を訪ねたヨンスですが、彼女は留守のようです。玄関先に座り込み、前回、彼女の幻がやってきた方を見遣ります。キャメラもパンしますが、当然のことながら、そこに彼女はいません。するとそこに彼女の声が聞こえます。玄関先のヨンスにフレームが戻されると、そこにドアを開けたミンジョンがいて彼を招じ入れます。
 中での仲直りの描写の後、キャメラは玄関先で座り込んでいるヨンスを捉えます。全てヨンスの幻想だったのだと、ここでわかります。

3)ヨンスが歩いていると泣き声が聞こえてきます。キャメラがパンするとミンジョンが泣いています。ヨンスはミンジョンに語りかけますが、ミンジョンではないと彼を遠ざけます。ミンジョンではないことをヨンスが受け入れると、2人は急接近します。彼の部屋のベッドで、ヨンスは彼女と会ったのはこれが初めてだと何度も確認されます。
 時間経過の後、ベッドで1人ヨンスが目覚めます。これもまた彼の幻想だったのかと思わせるような間の後、彼女がフレームインします。

 この彼女は幻ではないのでしょうか。

 あたかもヨンスが彼女をミンジョンだと同定しない限り、彼女は実体として現れるかのようです。

『浜辺の女』

浜辺の女-0001

 これは『浜辺の女』(2006)の劇中、映画監督ジュンネ(キム・スンウ)が図解したもので、次のように説明されます。
 波線で囲まれたものを実体と仮定します。実体は常に変化しながら無限の曲線を描くのですが、仮にその曲線上の3点だけに注目すると、右上のような新しいイメージが生まれます。すると実体は消えて、その三角形のイメージだけが残ることになります。
 しかし、曲線上の6点に注目すれば、右下の六角形のイメージが生まれます。実体とは異なるにせよ、三角形のイメージより実体に近いわけで、この新しい点を繋げれば、固着した三角形のイメージを克服できるというわけです。
 これは、当然のことながら、映画監督ホン・サンス自身の哲学と言っていいでしょう。これをそのまま『逃げた女』と『あなた自身とあなたのこと』にも敷衍できるのではないでしょうか。

n+1、n+2、n+3......

『逃げた女』と『あなた自身とあなたのこと』の主人公は波線で囲まれた実体のようなものです。そして、それぞれ3人の人物と繰り返されるやりとりは、その曲線上の3点としてプロットされます。
 普通の映画であれば、n回反復することで、徐々にそのイメージが明らかになり、最終的にn角形のイメージに結実することで、観客は「そうだったのか」あるいは「そうこなくっちゃ」となり映画が終わりますが、ホン・サンスにあってはそうはなりません。
『逃げた女』と『あなた自身とあなたのこと』のそれぞれ3点を結ぶ三角形のイメージは、映画が終わっても杳として知れないのです。(もちろん三角形のイメージらしきもの、即ち、『逃げた女』であれば、実はガミ自身が夫から「逃げた女」であるというイメージ、『あなた自身とあなたのこと』であれば、ミンジョンは解離性同一性障害だったというイメージはぼんやりと浮かぶのですが)
 私たち観客は、『あなた自身とあなたのこと』のヨンスのようになること、ミンジョンではないと言い続けることが求められます。n角形のイメージを見て、実体を見たつもりになってはいけない。n回の反復に、n角形のイメージを結んで安心するのではなく、n+1、n+2、n+3......と相対化していくことが目指されているのです。
 それができる観客にだけ、彼女=映画は姿をあらわし微笑みかけるのです。映画を固定したイメージで語り消費するのではなく、汲み尽くせないものとして相対化し続けること。これはホン・サンスの映画すべてに言えることでもあるのですが、他作品についてはまた稿を改めて考察したいと思います。

追記

『逃げた女』の監督インタビュー記事がありました。今回の考察を補完する内容かと思われるので引用しておきます。

タイトルとなっている「逃げた女」とは誰のことか尋ねられたホン・サンス。「実は誰かは決めていなかったんです(笑)。決めることもできたんですが。でも決めてしまう前に、考えるのを止めました」と答えると、「むしろそれははっきりさせないほうがいいんです」と続ける。

そして「映画作りにおける私のアプローチは、あらゆる一般化や、あらゆるジャンルのテクニック、特定の効果に対するあらゆる期待を避けようと試みることです」と映画制作における持論を展開。「私が望むのは、どんな意味付けもすることなく、いかに断片を集めてこられるかということなのです。その断片を1つにする過程で、ある具体的なものが生まれて、その具体的なものが、多くの異なる人々にとって、多くの異なる意味をもたらすことができます」と続けた。

映画ナタリー 「逃げた女」は誰か?ホン・サンスが創作論語る「はっきりさせないほうがいい」

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