『PLAN75』(早川千絵監督)結末の考察
『PLAN75』(早川千絵監督)が素晴らしく、ツイートを連投したもののやはり言い足りなく思い、結末にフォーカスして考察してみます。
※作品の内容および結末など核心に触れる記述が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください。
ラスト、岡部ヒロム(磯村勇斗)は、叔父を救おうと行動し、ミチ(倍賞千恵子)は処理施設から脱出します。これを早川千絵監督は次のように述べています。
監督自身は「希望、変化しえる可能性みたいなもの」としてラストを描いたようですし、その通りだとは思うのですが、それゆえにと言っていいのか、ラストだけが現実味を欠いているように思われます。
なので極端な話、『ふくろうの河』(ロベール・アンリコ)のように、ミチが死の寸前に見たまぼろしにも受け取れなくもない。
幻覚とまでは言わないにしても、客観性に乏しいのです。
なぜなら、ミチが抜け出すのも、ヒロムがマリア(ステファニー・アリアン)の手を借りて叔父の遺体を運び出すのも、誰の目にも触れずになされるから。本来あるであろう目=客観をないものとして処理しているので、主観的な「希望」の描写にしかなりようがない。
いずれにせよリアリティに欠けるのです。
それはここまで観客の厳しい目に鍛えられてきた架空の制度「PLAN75」のリアリティと対照的です。
私たちは監督の意図に反して、彼らのラストの行動=「希望、変化しえる可能性みたいなもの」をリアリティがない、と冷めた視線で見てしまうのではないでしょうか。
しかし、ここで驚くべき逆転があります。
もし映画が、私たちの冷笑的な視点も折り込み済みだとしたら……
そもそも『PLAN75』は、監督の「こんな世の中で良いのですか?」という問題提起でした。つまり現代の寓話として描かれています。
実際に「こんな世の中」を変えようとする「希望、変化しえる可能性みたいなもの」に、綺麗事だ、理想論だ、現実味がない、リアリティがないと冷笑的な見方をしたことはありませんか。
映画が狙っているのが、「希望、変化しえる可能性みたいなもの」ではなく、「希望、変化しえる可能性みたいなもの」に対するあなたの冷笑的な態度なのだとしたら……
ラストにリアリティがないと思ってしまう、そのことが、何よりもこの映画をリアルにしているのではないでしょうか。
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