『PLAN75』(早川千絵監督)結末の考察

『PLAN75』(早川千絵監督)が素晴らしく、ツイートを連投したもののやはり言い足りなく思い、結末にフォーカスして考察してみます。

※作品の内容および結末など核心に触れる記述が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください。

ラスト、岡部ヒロム(磯村勇斗)は、叔父を救おうと行動し、ミチ(倍賞千恵子)は処理施設から脱出します。これを早川千絵監督は次のように述べています。

──その辺りは短編と長編では意図的に変えたのですか?

早川 そうですね。短編では不安を煽るというか、「こんな世の中で良いのですか?」という問題提起だけで終わってしまいました。長編のシナリオも最初はその方向で書いていたのですが、どんどん加速していき、最後は救いのない話で終わらせていました。そんな時にコロナが始まって現実がフィクションを超えてしまい、世界中が不安に陥る中で、さらに不安を煽るような映画を撮るべきなのか、ずっとそこで迷ってしまいました。何らかの形で希望というか、変化し得る可能性みたいなものを描かないといけないのではないか、と。でも、それをどういう風に描いて良いのかがわからず、かなり時間がかかりました。磯村さんや河合(優実)さんら若い世代の人々の存在をどう描くか、ミチの最後の姿をどうやって映像として撮れば良いのか、そこに答えが出たのは撮影前ギリギリでした。

https://fansvoice.jp/2022/06/20/broker-plan75-directors-interview/

監督自身は「希望、変化しえる可能性みたいなもの」としてラストを描いたようですし、その通りだとは思うのですが、それゆえにと言っていいのか、ラストだけが現実味を欠いているように思われます。
なので極端な話、『ふくろうの河』(ロベール・アンリコ)のように、ミチが死の寸前に見たまぼろしにも受け取れなくもない。
幻覚とまでは言わないにしても、客観性に乏しいのです。
なぜなら、ミチが抜け出すのも、ヒロムがマリア(ステファニー・アリアン)の手を借りて叔父の遺体を運び出すのも、誰の目にも触れずになされるから。本来あるであろう目=客観をないものとして処理しているので、主観的な「希望」の描写にしかなりようがない。
いずれにせよリアリティに欠けるのです。
それはここまで観客の厳しい目に鍛えられてきた架空の制度「PLAN75」のリアリティと対照的です。

私たちは監督の意図に反して、彼らのラストの行動=「希望、変化しえる可能性みたいなもの」をリアリティがない、と冷めた視線で見てしまうのではないでしょうか。

しかし、ここで驚くべき逆転があります。
もし映画が、私たちの冷笑的な視点も折り込み済みだとしたら……

そもそも『PLAN75』は、監督の「こんな世の中で良いのですか?」という問題提起でした。つまり現代の寓話として描かれています。

実際に「こんな世の中」を変えようとする「希望、変化しえる可能性みたいなもの」に、綺麗事だ、理想論だ、現実味がない、リアリティがないと冷笑的な見方をしたことはありませんか。

映画が狙っているのが、「希望、変化しえる可能性みたいなもの」ではなく、「希望、変化しえる可能性みたいなもの」に対するあなたの冷笑的な態度なのだとしたら……

ラストにリアリティがないと思ってしまう、そのことが、何よりもこの映画をリアルにしているのではないでしょうか。


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