『コンパートメントNo.6』(ユホ・クオスマネン)から成瀬巳喜男、そしてA・ヒッチコック
※作品の内容および結末など核心に触れる記述が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください。
『めぐり逢い』
同じコンパートメントに乗り合わせ、ずっといがみ合っていたラウラ(セイディ・ハーラ)とリョーハ(ユーリー・ボリソフ)ですが、途中下車してリョーハの知り合いの老婦人を訪ねると、二人の距離がグッと近づきます。
あぁ、これは豪華客船を寝台列車に変えた『めぐり逢い』(レオ・マッケリー)なんだ、と思ったのですが、そこから先は、たとえ『めぐり逢い』のエンパイアステートビルが『コンパートメントNo.6』のペトログリフなのだと強弁しても、やはり無理があって全くの別物でした。
代わりに、後半の2人を見ていて思い出したのが『脚本通りにはいかない!』(君塚良一)の次の文章です。
心の幅
ここで言及されているのは山田洋次監督の『なつかしい風来坊』なのですが、『コンパートメントNo.6』について書かれたものといっても十分通用するのではないでしょうか。
先ほど述べたように老婦人宅への訪問を終えると二人は急接近するのですが、彼らの「心の幅」は決して一定しません。ラウラの心の羽根が開いたかと思うと、リョーハの心の羽根が閉じ、ラウラの心の羽根が閉じたかと思うと、逆にリョーハの心の羽根が開く、また同時に開くことも閉じることもあります。
成瀬巳喜男
これを成瀬巳喜男のメロドラマに繋げてみましょう。成瀬の演出の要諦は、「心の羽根の開閉」を「視線の合否」つまり「ふりかえり」と「視線を外すこと」にパラフレーズすることにあります。
登場人物がふりかえり相手に正対すると、いずれその差し向かいに耐えられなくなったどちらかが視線を外し、その対峙から逃れます。すると逃げられた方が追いかけ再び対面しようとするか、あるいは逃げた方がどこかでふりかえります。あとはその繰り返しです。
少々乱暴な単純化ですが、そう間違ったものではないと思います。そしてこれを広義の「追いかけ」に繋げてみましょう。
視線が合うから逃げる。逃げるから追いかけて視線を合わせる。また逃げる。視線の追いかけというわけです。
アルフレッド・ヒッチコック
キツネ狩りを男女に置き換えたヴァリエーションが、まさにメロドラマの追いかけで、それを視線の追いかけに形象化させたのが成瀬の天才です。
「用語をかなり拡大解釈すれば、ひょっとしてドラマ形式それ自体が追いかけになってしまうのでは?」という問いに、ヒッチコックはおそらくそうだろうと答えています。
これを読んだときは、さすがに拡大解釈(抽象化)のしすぎで、もっともらしくはあっても、これでは何も言っていないのと同じ(なんでもあり)ではないだろうかと思いもしました。
しかし、心の羽根を開いたり閉じたりさせながら、ドラマを作るのだという君塚氏の証言や、成瀬の演出の具体に触れると、なるほど「追いかけは全映画プロットの六〇パーセントくらいを占めている」のかもしれないと思うのです。
『コンパートメントNo.6』
『コンパートメントNo.6』に話を戻すと、"Haista vittu"と"I love you"を「心の幅」の両端に置き、悪そうに見える人(リョーハ)が実はいい人であったり、あるいは、その逆(ギター弾きのバックパッカー)であったりするというのは、やや図式的に見えなくもありません。
ただし映画が実際に描くのは、スタティックな両端の関係構造(図式)ではなく、「心の幅」をリアルに開閉する羽根のダイナミックな動き、変化なのです。
フロントからの電話を受け、リョーハが訪れたことを知ったラウラが、階段を降りてロビーで待つ彼のところに行くまでが1カットで描かれます。キャメラは階段の途中で待っているリョーハを見つけたであろうラウラの表情を捉えます。
彼からは見られていないからこそ、見え隠れする彼女の笑顔——心の羽根の動き。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?