死ぬまでヤングで
2014年 中学2年生だった私は、進学塾でのプレッシャーからか反抗期からか夜更かしを覚えた。
その悪習は今に続く事になるけど、この頃の夜長のお供はもっぱらラジオで、FM/AM毎曜日決まった番組を楽しみに聴いては時たまメールを送ったりもしていて。
その影響でバンドにズブズブ嵌った私が、何の気無しに聴いたオールナイトニッポン0のレギュラー初回、ドラマ主題歌なんかも担当していたへんな名前のバンド。
それが赤い公園との出会い。
『ラジオが大好きだから、ラジオへの感謝の気持ちを歌にした。』そんな事を言ってた気がする。作曲動機のクセ!クセじゃ!と思いながら、そこで流れてきた曲に私は確信めいたものを感じたのを覚えている。
イヤホンを伝って私の耳に流れ込む音、声、言葉に、どうしてか目の奥がチカチカして。聞こえがチープで悔しいけど、本気で心が震えた。
その刹那の体験で、この人たちの音楽、この人の作る音楽が先の人生にどれだけ大きな影響を及ぼすか、予期するにはあまりに容易で。
あの頃の私は不安と焦燥に駆られる毎日で、だからKOIKIをなんべんもなんべんも回した。不安から布団の中で声を殺して泣きながら聴いた夜もあった。
そうして私は無事に志望校に合格した。ツイッターで質問を送ったら動画内で答えてくれる企画に採用されて、高校生活で何を楽しめばいいですか?って聞いたら『教室のベランダから校庭の野球部眺めなさい!』って指南されたな。実はあとからこっそり実行したりもした。
ひかりちゃんに憧れて、高校から軽音部でベースを始めた。赤い公園のコピーもしたりするようになって、難しければ難しいほど余計に4人の凄さが分かってさらに憧れが増して。4人の音楽愛みたいなものに、より近い場所で触れられているような気がした。しろたん必死でコレクションしたりしたな〜。今も大好き。
そして2016年5月にビッキャで初めて赤い公園を観た。マンマンツアー、純情ランドセルというアルバムのリリースツアーだった。確か、私の誕生日の次の日だった。
日頃のラジオのお陰で近所のお姉ちゃん達くらいに思っていた4人が、凛々しくて妖艶で綺麗であまりに魅力的で驚いた。圧巻のライブに、最後まで身体中が火照りっぱなしだった。
結果的に回数としてはそんなに多くはなかったけど、それからは関西に来てくれたライブには通ったなー。
そんな私にとって、やっぱりちーちゃんの存在はあまりに大きくて。
当時すぐには飲み込めなくて。「笑って!!」すぐそばでそう投げ掛けるちーちゃんに向かって、わんわん泣いた。あの夏、ライブが終わってしまってからしばらくは抜け殻だった。
嘘はいけない、本当は未だにずっときちんとは飲み込めてなくて、ちーちゃんにとってラストライブだったダイバーシティでの熱唱祭りを最後に赤い公園のライブを観ることをぱったり辞めてしまった。
ちーちゃんの声で歌われる為に生まれてきた曲を、ちーちゃんの声で聴けないのが私にはあまりに切なかった。
それでも理子ちゃんが加入してからの赤い公園の楽曲も全部もちろん沢山聴いてるし、どれも本当に大好きで。
それでも変な意地を張って新生赤い公園のCDをどうしても手元に置けなくなってしまってたけど、まさかこんなきっかけで無駄な意地を曲げることになるとは。
私はまだまだ音楽を好きなまま生きてゆくのに、まいさの作る音楽との初めましてはこれで最後だと思うとまだ封を切れないでいる。
君の旅が どうか美しくありますように
また見送られる側か。
幕開けにも最終回にも聴こえて、強いけどちょっと脆くて儚くて、優しい歌。止まらない涙もそのままに、ここで初めて、まいさが居ない世界を実感した。まいさが居ない世界を呪った。
寂しさだって食べてみせるから
ちょっとだけ長い目で見てよ
ほんとは知ってる神様も私も
これ以上の幸せが無い事を
ちゃんと願ってる番狂わせな未来
それすらも導かれてるのかな
世界が浮き足立っても
あなたが泣いてたらしょうがない
もしもあなたが
悲しくって俯いてしまった時には
せめて咲いてるタンポポでありたい
冴えない人だなんて手鏡の中を虐めないで
ずっと愛してあげるわ 君に分けてあげられるわ
眩しいぼくらのことがみんな怖いんだ
磨けば光ると触られて
ってか原石のまんまでいさせて
レディオ
居なくならないでね
今夜も東京の街のど真ん中
ひとりぼっちで
NOW ON AIR
最後くらいかっこつけたい 滲んだオレンジ
どうか振り返らないで
天才とかハイセンスとか、こうして紡がれる言葉を形容するのに相応しい言葉はきっと彼女の周りに沢山散らばってた。
でも、そんな簡単な言葉で評価されることにモヤっとしてしまうぐらい、もっと特別でとっておきのものだと思う。
いつだってありのままを肯定して愛してくれる強くて優しい言葉。とんちが効いた言い回しもスパイスのようにあったけど、それはいつだって泥臭いほどに飾り気がなくて真っ直ぐで。
年齢や時代なんかの、人間の誤差みたいなものでピンボケしない力が込もってると思う。難しいことは何一つ言わないのに、それはまいさにしか出来ないこと。だから天才って呼ばれちゃうのは、やっぱり仕方ないのかな。
いつも敬意と愛のたっぷり込もった「お前たち」が大好きだった。「お前たち」のうちの1人で居られることが、嬉しかった。
演奏中、音の鳴るギターやメンバーに向ける母親のような微笑みが大好きだった。いつもその足で刻まれるリズムに合わせて、私も拍を取っていた。
好きなものやカルチャー、人に対する真っ直ぐな眼差しを、尊敬してた。
決して器用ではないのだろうけど、ありとあらゆる愛と誠意に溢れた「真心」の人だと、ずっと勝手にそう思っていた。
そんな人から紡がれた音楽を大事に大事に聴いてきて、救われた日を数え出したらキリがないぐらい。
14歳 夜中3時。
音楽でわるい事も楽しい事も、いっぱい教えてくれたお姉ちゃんです。
あまりに付き合いが長いからさ、いつも勝手にメンバーみたいに友達みたいに呼んじゃってるの、許して。
まいさ ありがとう。
ずっとずっと特別で、
ずっとずっと私の憧れです。
死ぬまでヤングで居ます。
約束!
ここまで書き切るまでに、こんなに時間が掛かってしまいました。
そんな矢先の解散発表は本当に悲しかったけど、何故かスッと受け入れられた。なんだか、3人はきっとそうするんじゃないかなあ、そう思っていたからかなと思います。
5月28日、中野サンプラザでのラストライブ。配信という形にはなってしまったけど、しっかり見届けられて本当に良かった。
私の大好きな曲、まいさが作って3人が演奏してちーちゃんが歌った曲を、赤い公園を、理子ちゃんが今この瞬間も生かしてくれていた。新生赤い公園の曲もたくさん、もっとライブで聴きたかった。
伸びやかに、時にお茶目に身体いっぱい使って歌うその声を聴くだけで幸せな気持ちが溢れて、変わらずホワホワのお姉ちゃん2人を引っ張るみたいに頼もしくて、恰好良かった。痺れっぱなしだった。
小出さんが弾くギターの既視感、Canvasのイントロ一音目、交信を口ずさむキダさん、まいさの愛機トミ子ちゃんとの再会、何度も私を救ったKOIKI、理子ちゃんの挨拶とオレンジの歌詞のシンクロ、涙が溢れて止まらなくてどうしようもない瞬間は何度もあった。出涸らしになるぐらい泣いた。
それでもやっぱり終わった後の多幸感と満足感も、全部赤い公園の音楽がもたらしてくれるもので。
もちろん寂しいし、悲しい。
だけどそれとまったく同じだけ、恰好良くてドキドキして、心底楽しいライブだった!
幸せだ。こんな音楽とライブ体験を傍らにこれからも生きていける私は、こんなにも幸せだ。
電波を伝って、初めてこの世にNOW ON AIRが放たれてからもう7年が経ったなんて、改めて振り返ると不思議な気持ち。
中学生の頃にはもう音楽の好みが形成されてるなんて話があるけど、私の好みが生成されたのはあの瞬間だったのかもしれない。今思うと人生最大にラッキーな出会いだったな〜!
これからも一生まぶしくて新しくて憧れで、どの曲も私の一要素として新鮮なまま私を鼓舞して慰めて励ましてくれる音楽です。
この先もずっと、私の座右の銘みたいに。
赤い公園はこれからもずっと、私がうれしいかなしいとその度に憩う場所、音楽です。
わたしの中にある、わたしだけの赤い公園。
お世話になりました。
そしてこれからもずっとずーーーっと、墓場まで喜怒哀楽の全部がお世話になります。
だからずっと消えないよ!
赤い公園、本当にありがとう!!!
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