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難解な映画のこと

「難解な映画」についての話が流れてきて、少し考えた。

「難解な映画」というのは、噛み砕いてざっくり言えば「意味が分からない映画」ということだろう。しかし、「映画の意味が分かる」とはどういうことか。

仮に、「意味が分かる」ということを「自分の中の特定の部分に収まり、他の何かと繋がること」だとすると、ある映画が、自分の心の中に居場所を見つけてそこに収まり、自分の記憶や知識などと繋がった時、その「映画の意味が分かった」ということになる。

では「難解な映画」とは何かというと、「自分の中にそれを収める場所が見つからない」もしくは「場所はあっても自分の知識や記憶と繋がらない」ということになる(もしくはその両方)。映画を難解だ、という時、そこには暗黙的に「今は分からないけど、分かりたいとは思う」希望、もしくは「分かった方がいい気がする」というプレッシャーがあると思うんだけど、「何とも繋がらない」タイプの方は、ある意味放っておいていいのかもしれない。その映画は、その場所に置かれて、いつか何かと繋がるかもしれないけれど、その時点では自分にとっては不良在庫みたいなもので、特に価値はない。というか、潜在的な価値しかない種のようなものだ。

一方で、あれこれ色々とチクチクするものはあるのだけど、これをどこに収めればいいのかが分からない、というような映画は、それはその場で取っ組み合いをしてでも収まりをつけておいた方がいいかもしれないと思う。自分の心の縁を引っ掴んで無理に広げてでも、あるいは色々とごちゃごちゃ積み上がってる辺りに無理やり押し込んででも、その異物を取り込むことに「意味」はある気がする。そんな体験、大人になってからは、あるいは残りの人生の中で、そうそうあるものじゃないからね。

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