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歪む前の願いを抱えて

今年で34歳になりますが
厄年と後厄の凄惨な時期にあっても
私は子どもが駄々をこねるように
『すてるのはいやだ』と泣き喚いていたものがあります。

母の笑顔を願った。
家族の幸せを望んだ。
他者の涙が乾くことを祈った。

それが『私』という個だと、
私は最初から知っていました。
なので、自分がブレる系の心理学論は
額縁の中から見る人間の世界のようで
理解はできても共感はあまりしなかった。

まあ34年も生きてれば色々あります。
あるはずですが、願いとか祈りを何よりも優先した。
それが私のアイデンティティだから。
失えば、『私の形をした別の何か』にしかならない。
だから、願いや祈りの代わりに
自分が歪んでしまった。

簡単に思いつくのはお金でしょうか。
酒、金、女とはよく言ったもので、金で人間は変わるを3回見てきました。
呆気に取られるほど人柄が変わって、横暴になったり、横柄になったり、人間性が変わりますね。
素直で良い子が横柄で傲慢な人間になったのを見た時、人を歪めるものは存在するんだなと実感しました。

私はそんな風にはなりたくなかった。
昔からそうだった。
「自分は悪くない」と言う権利があって、相手を悪様に扱き下ろすことが許される立場にあっても、どうしてもそれが気持ち悪い。


他人を指さす自分が醜くて。


他人を悪様に貶す自分が穢らわしくて。


自分の保身のために他人を蹴落とす構図のそれに吐き気がする。


なぜ
他人を蹴落とす必要がある?


なぜ
私が間違っていないと誇示する必要がある?


なぜ
アイデンティティを捨ててまで、そんな馬鹿なことをやらねばならない?



父からの伝聞ですが
何代か前の天皇陛下は、自らを現御神ではないと宣言し、戦後遺恨の残る地へ赴いたそうですね。
「人殺し!」と罵られながら、石を投げつけられながら、頭を下げに行ったその御心は
保身を考える人には、到底できない価値観を有しています。

だって、自分を悪く言われる。直接なにかしたのは自分じゃないのに。
なのに蔑まれ、石を投げられ、痛い思いをする。
それでも、頭を下げる。
心の底から。謝罪をする。
今の子に出来るんですか?これ。
自己保身の塊ばっかりですけど。


私が陛下であったなら、たぶん同じことをしたでしょう。こころは同じです。
覚悟が同じとまでは言えませんが。
そこは価値観もあるだろうし、何よりわたし若造なのでね。
「人殺し!」と言って石を投げる遺族の方に、涙が浮かばないだろうか。その怒りの底で渦巻く悲しみはどんなものだろうか。
こころが強くないので、そう思ってしまいそうだ。


冒頭に戻りますが。
私の最初に抱いたものは、祈りや願いであった。
間違いないです。
周りにいくら「それは洗脳だ」「親子関係だからそう思ってしまうんだ」と言われても、納得できなかった。
うんまあ並々ならぬ強い縁があるのは当然ですよ。そんな分かりきったこと、論説されても困ります。
されなくても分かるでしょそんな簡単なことはよ。


祈りや願いだったものを
歪めてしまいたくなかった
それらは簡単に歪みます。自分のエゴイズムを乗せればあっという間です。

金で人格が変わった友人のように
捻じ曲がった祈りや願いは
魔女の怪画のように、望まれたこと以外に手を染める。
描かれた意義を喪って。

私の願いは、別の言葉にするなら愛情です。
まあ子どもから親に向けられる、安易で簡単で、何よりも普通な感情です。
それを周りはご高説を垂れては捨てろ諦めろ洗脳されてるんだ目をさませとやかましい。

わたしは最初から微睡んでなどいない。
精神性が育ってないとかはあるけど()

そうやって必死に守ってきたこと
全く後悔するつもりはありませんが
奇しくもその愛情は
親自身から否定されて
私の方が歪んでしまった。こころがもとにもどらない。

なに
だいじにしてたんだっけ。

なに
したかったんだっけ。

つかれた。
つかれたなぁ。
でもこれは捨てたくないんだ。

『私』だから。

つかれたなぁ……

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