イエスは最後に何を伝えたかったのか
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2023年4月2日 礼拝
ヨハネによる福音書13:1~20
ヨハネによる福音書13:14
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
はじめに
教会暦では、受難週に入ります。今回は、受難日前日を取り上げます。受難日前日は、伝統的に「洗足木曜日」として礼拝堂からすべての装飾を取り除き、夕礼拝をし、聖餐を執り行いました。
聖木曜日はイエス・キリストと使徒たちの最後の晩餐を記念する日であり、その席でイエスが弟子たちの足を洗ったという記述が福音書に見られるため、西方教会および一部の東方教会には、この日洗足式を行う伝統があります。
足を洗うことを行うことは、字義通りに行うことを意味しているのではなく、「仕える」ことの象徴としてとらえられていますが、主イエスの言葉から、最後の晩餐で伝えたかったことを学んでいきたいと思います。
死を意識したイエス
主イエスは、十字架にかかられ、復活し天に還る時を知っておられました。
1節を見ますと、『この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られた』とありますので、その十字架の死というものは、確かな神のご計画のもとに実行されたということです。公生涯に入られて、今回の過ぎ越しの祭りの中で、自分の生命が絶たれるということを主みずから知っておられました。
弟子たちとの最後の時であることを知っておられた主は何をしようとしていたのかということを知ることは、私たちの信仰のためにとても重要です。
1節の後半を見ていきますと、『世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。』とあります。そこで、『愛を余すところなく示された』のは一体なんであったのかということです。
足を洗うイエス
受難週はこの木曜日を境に大きく動き出します。その原因となったのは、十二弟子のユダの裏切りから始まります。それは、あくまでもきっかけでした。神はそうした人間の心理や行動を通して、御心を達成しようとするものです。
人が救われるためには、裏切りという不幸とも思える出来事を通して実行されたということに、神のご主権を見逃してはなりません。
3節で『イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、』るとすぐに何を始めたのかといいますと、
夕食の席から立ち、奴隷のようになり、足を洗い始めたとあります。
イエスの洗足は、弟子たちを驚かせました。
足を洗うということは、奴隷がする仕事です。舗装もされていない道路はほこりっぽく、雨期にはどろんこ道となりました。一般民衆の履物は、サンダルのようなものでしたので、外を歩くとほこりだらけになります。通常、家の戸口には水がめが用意され、召使が客の足を洗ったそうです。
奴隷が行う洗足を主が行ったということは、弟子たちにとって驚きの行動でした。
ペテロが言った「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」とい書かれています。
そこで、「私の」という言葉を強調語としてとらえる解釈があります。
強調語であると考えますと、驚きの大きさとして解釈されますが、ここで、「私の」という言葉は、驚く意味を持つというよりも、ただ単に、「私の」ととらえたほうが妥当だということです。
なぜなら当時、足を洗うという行為自体はきわめて当たり前のことでした。おそらくは、弟子たちの中でも、下の弟子たちがすることが暗黙の了解としてあったことでした。足を洗うのは、一番下のあの弟子がやるものだろうという暗黙の気持ちがあったようです。
しかし、主がそれを行ったので、ペテロは理解できなかったようです。
「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」というペテロの問いは、 主の公生涯の終わりに使徒ペテロが感じたこの気持ちは、公生涯の始まりに洗礼者ヨハネが感じた気持ちと重なるものです。(マタイ3:14-15)。
後で分かるようになる
この洗足の意味は、当時の弟子たちにはわからないものでした。その意義は救いの成就によって理解できるものだからです。
主人が、弟子たちに仕えるということを知る鍵は、イエスの贖いの死と復活を信じてこそ分かるものです。
イエスの贖いの死と復活をまだ知らないペテロは、イエスが奴隷として行った足を洗うことの意味を理解できず、バプテスマ(浸礼:洗礼)と誤解してしまったようです。
しかし、主イエスは、弟子たちは、すでにバプテスマ(浸礼:洗礼)を施しており、「全身きよい」と10節で語り、イエスの洗足がバプテスマとは明らかに異なることをペテロにいいます。
洗足の意味と命令
主イエスが行った洗足は、宗教的な意味における「きよめ」とは異なり、本来は召使の仕事であったので、召使でない者が足を洗うことは、謙遜を表したものでした。新約時代には、儀礼としての意味も含まれていたと言われています。イエスは最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗うことによって御自身を低くし、同時に弟子とのかかわりが罪のきよめにあることを示されたのです。
イエスは、奴隷のようにへりくだり、救いをもたらすことで罪人に徹底して仕えました。救いは、人間が良い行いをするとか、正しく生きるとかというものではありません。人が救われるということは、神のなさる領域です。
この足を洗ったことによって、主はクリスチャンがならうべき「模範」を残そうとしました。洗足というのは、弟子たちが互いに仕えることを端的に示す儀式でした。
クリスチャン同士は、上も下もありません。どちらが偉く、どちらがつまらない人間というような差があるものではないことをここで示しています。
主イエスは、神であられるお方であるのに、彼は人に仕えさせることはありませんでした。バプテスマのヨハネからバプテスマ(浸礼:洗礼)を受ける公生涯の初めから人に仕え、十字架刑でその生涯を終えるまで、人間に仕え続けました。十字架刑というものは、普通この刑は、奴隷や重罪人に対してのみ行われたものです。主イエスの人生は、人にあがめられ、人の上に立って支配するものではありませんでした。
ペテロたち十二弟子の中で、過ぎ越しの晩餐を行う時、誰が、足を洗うのかということを思っていたかもしれません。率先して主イエスが足を洗わなければ、一番下の弟子が洗うのが常識と考えたであろうと思います。しかし、彼らが案じるよりも先に、イエス・キリストは上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、弟子たちの足を洗い始めました。
私たちはどうでしょうか。教会の奉仕を行うにしても、自分から率先して奉仕を行おうとしているでしょうか。誰かがやるから自分は関係ないと考えていませんか。特に伝道においてはそうではないでしょうか。自分は賜物がないから伝道はできない、できる人が伝道を行うのがいいと考えてはいないでしょうか。
主イエスを範に考えてみますと、神が人になるというのは難しいことではありません。しかし、神としての権威を持っているのに、その権威を捨て、奴隷になる、それも率先して人に仕えるというのは、神にとってはとても難しいことではないかと思うのです。
かつて名誉があり、出世を果たした人が、そうしたものを捨てることは難しいと思います。プライドが許さないとか、自分は偉いという気持ちがまとわりついて、下賤な仕事につきたがらないという例はよくあるものです。
イエス・キリストは、神という名誉があり、万物に崇められて当然であるべきお方ですが、神としてのプライドを捨て去り、私たちに仕えてくれました。その象徴が、この『洗足』でした。
私たちは、意識しないプライドが邪魔して、人を仕えさせようとするものですが、イエスは意識しないプライドすら捨て去っていました。
私たちは、意識できていないプライドというものを意識する必要があります。主イエスは言いました。
主は、まさに子供のようになって、人間に仕えてくれました。この命令は、弟子全般に向けられており、例外はありません。ヨハネの福音書13章20節に『遣わす者』ということばがありますが、この言葉は、通常『使徒』と訳される言葉であるので、使徒すらも足を洗う者の中に含まれているのです。
イエスは、弟子たちに最後に伝えたかったこと、それは、互いに仕え合うということです。クリスチャン同士が仲違いをする、いがみあうということがあう原因の多くは、仕え合うことを忘れるということにあります。弟子たちは自分がどちらが上であるかを常に意識していました。誰しも自分が上でありたいという欲求を抑えることはできません。しかし、主はそうした私たちの欲望に釘を差し、救われた者としてのあり方を示してくれました。
簡単なことですが、もっとも難しいことです。その難題に自ら率先して取り組み、私たちに模範となってくれた主イエス・キリストの苦しみというものをこの受難週に覚えていただければ幸いです。