受難週メッセージ3 洗足木曜日のこと
2024年3月10日 礼拝
Ⅰテモテへの手紙
5:10 良い行いによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい。
ヨハネによる福音書
13:17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。
タイトル画像:BennoOosteromによるPixabayからの画像
はじめに
今回は、受難週の木曜日の記事を取り上げます。
復活祭直前の木曜日を「洗足木曜日」(Maundy Thursday)とも呼ばれます。
伝統的にキリスト教では、復活祭前の一週間を「受難週」として尊重してきました。その中でも聖木曜日からの三日間は特に重要視してきました。
受難週の木曜日はイエス・キリストと使徒たちの最後の晩餐を記念する日であり、その席でイエスが(へりくだりの行いとして)弟子たちの足を洗ったという記述が福音書にあるため「洗足木曜日」とよばれました。西方教会および一部の東方教会には、この日洗足式を行う伝統があるそうです。
今回は洗足木曜日(聖木曜日)のイエス・キリストの足洗いを中心にみていくことにします。
愛をあますところなく示したイエス
ヨハネによる福音書13章1節から17節の記事は、過越の祭り(ペサハ)の前にして過越しの食事を行います。
イエスと弟子たちによる「最後の晩餐」は、この過越しの食事でした。イエス・キリストは、過越の祭りの前に、イエスがこの世を去って御父のもとに帰る時が近いことを知っておられたので、弟子たちへの愛を、奉仕と謙遜の行為を足を洗うことによって示されました。
すべての人に向けられる愛
ここで、注目するところですが、過越の食事の間、イエスはイスカリオテのユダによる裏切りが間近に迫っていることを知りながらも、それでもユダを含むすべての弟子たちの足を洗うことを選ばれます。
このイエスの姿勢は、父なる神を信じなくともすべての人々に恵みをもたらしてくださっている神のお姿を象徴しています。神の恵みはどの人にも分け隔てなく人々に提供されています。イスカリオテのユダは、イエス・キリストを売ろうとしていたことをイエスご自身が承知の上で等しく祝福しようとしておられます。
このイエスの姿勢は、愛と赦しのメッセージを私たちに教えてくれます。彼は神の恵みが全ての人に与えられることを示し、その恵みは、人々の信念や行動によって左右されるものではないことです。
イエスがユダを祝福することで、彼はその人間性と過ちにも関わらず、神の愛と赦しの対象であることです。このようなイエスの姿勢は、人々に対して偏見や差別を持たず、全ての人々に対して同じように愛と赦しを示すことを教えています。
悪魔に心を奪われたユダは、裏切るタイミングを推し量っていました。その思いを知っていたイエスは、自分がいよいよ十字架に向かい、死に向かっていくことを悟っていました。そこでイエスは4節で決然と心に決めたことを実行しようとしたのです。
ペテロの驚き
イエスが意を決して行った行為、それが「洗足い」でした。その時にペテロは、驚きました。
ペテロが、主イエスに投げかけた言葉に「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」とあります。
同じ箇所をNASBを見ると理解しやすいので取り上げますが
So He came to Simon Peter. He said to Him, "Lord, do You wash my feet?"
会話が疑問形で終わっています。なぜ、彼がそういう言葉を発したのかといいますと、彼が理解できないのは、主人が洗を洗うからなのです。
当時のイスラエルの通りは、舗装もされておらず、乾燥した地域ですので当然のことながら埃っぽく、雨期にはどろんこ道となります。
一般民衆の履物はサンダルのようなものでしたので、外を歩くとほこりだらけになります。通常、家の戸口には水がめが用意され、召使が客の足を洗っていました。本来は召使の仕事でしたから、召使でない者が足を洗うことは謙遜を表しました。
謙遜の意味
奴隷制度はローマ社会の基盤の一部であり、召使いはその中心的な位置を示していたように、ペテロにすれば、主人であるはずのイエス・キリストが身をかがめて奴隷になられた姿を自分たちに向けられたことに対して驚きをもったに違いありません。
つまり、イエス・キリストが弟子たちに行ったわざとは、自分が身を屈めて奴隷になることを決然として取り組んだことです。聖書的にいえば、謙遜とは、自分のあり方を捨てさり、人のために身を屈めることを言います。
ですから謙遜というのは、単なる道徳の一つではありません。苦しみや貧しさの中で神のみに頼らざるを得ないことを知り、そのように生きている人の態度のことです。
父なる神の謙遜
この謙遜の重要さは、それが神御自身のご性質の特徴に見られることによります。
神は至高の座におられるのに御自身を低くして天と地をご覧になるとあり、本来ならば、我々が天の御座を見上げなければならないのにもかかわらず、父なる神自ら率先して我々をご覧になっているということです。
さらには、詩篇の作者は、その18:35の中でこう言います。
神の謙遜が神のしもべを大きくすると言っています。これは何を意味するのでしょう。
これは、神がイエス・キリストというみ救いの盾を私たちに与えてくれたため、私たちは支えられ、イエス・キリストの足を洗うという謙遜の行為によって私たちは偉大な者として加えられてくださっているということを示しています。
イエス・キリストの謙遜
私たちが、御救いにあずかるのも、イエス・キリストの謙卑によるものです。神であられるお方が、肉体といういずれは滅び、朽ちていくからだを身にまとい、大工の倅として父親ヨセフ、母マリヤに従ってその青年期を過ごしてきました。
大工という職業は、ダビデ王の子孫としてはまったくもってふさわしくない奴隷の仕事に従事してきたのでした。つまり王の王、主の主であったイエスはその生涯のほとんどを奴隷として生きてきたわけです。
30歳になり、公生涯に入られたイエス・キリストはこの時から、弟子たちを迎え、弟子たちから師と呼ばれ、主人となります。
しかし、人類の主人として迎えられたはずの公生涯の初めですら、イエス・キリストはなおも仕え続けます。イエスは、公生涯に入るときに、バプテスマのヨハネからバプテスマを授かります。
本来ならば、バプテスマを授けるのはイエスであり、授かるのがバプテスマのヨハネであるはずです。しかし、その公生涯の初めですら、イエスは人に仕えることをもって自身の働きの最初としました。しかも、その最後までイエスは、仕えることを私たちに示してきました。今回の洗足いもそうですし、私たちの罪のために十字架におかかりになり死なれたことも、私たちのために最後まで仕え続けたことを示す行為でした。
彼の生涯のすべては、全人類に仕え尽くしたことに彼の模範があります。その象徴として足を洗うことが取り上げられています。
イエスは最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗うことによって御自身を低くし、同時に弟子とのかかわりが罪のきよめにあることを示されました。
ここにイエス・キリストの謙遜を見ることができます。
罪深い女とイエス
赦しとのかかわりでは、ルカによる福音書7章36節から50節の罪深い女の洗足いの記事と、最後の晩餐でのイエス・キリストの足洗いとの深い関連があります。
この記事では、パリサイ人がイエスを食事に招待し、罪深い女がイエスのいる場所に入り、涙でイエスの足をぬらし、髪で拭い、口づけし、香油を塗るという出来事が描かれています。
この行為に対し、パリサイ人は非難の声を上げましたが、イエスは女性の行動を賞賛し、彼女の多くの罪が赦されていることを示しました。イエスは預言者以上の存在であり、女性の行動を理解すると述べ、負債者のたとえを用いて愛と赦しについて説明し、シモンと女性の心の状態を比較しました。
最終的に、イエスは女性に罪の赦しを告げ、彼女の信仰によって救われることを示しました。この記事は、最後の晩餐のときの足洗いの記事と関連付けられ、イエスが罪深い女性に置き換えることで、イエスの謙遜と愛について理解しやすくなります。また、ルカによる福音書7章47節では、イエスが女性が行動する理由を明らかにし、愛と信仰の重要性を強調しています。
47節で「罪は赦されています」とありますが、その理由や原因を示すのではなく、むしろ罪が赦された結果として、その人がより多くの愛を示すようになることを意味します。
この文脈において、罪深い女性がイエス・キリストの足を拭いたのは、彼女の罪がすでに赦されているという事実に基づいて行われた行為です。
したがって、彼女の行動は赦されたことの証明であり、愛の表現となります。彼女は多くの罪が赦されたため、その愛に感謝し、愛をより多く示すようになったのです。
イエス・キリストが示したかった模範
イエス・キリストが弟子たちの足を洗ったのは、単に彼らがその足洗いの行為を模倣すべき模範として示されたからではありません。
むしろ、それは私たちが救われたことが当然のことではなく、神のあわれみによってなされたことを示し、イエス・キリストが罪の身代わりとなって死に、罪を負ってくださったことを示しています。その愛に応えて、自然に生じる献身的な行為を行うことが重要なのです。
そこを間違えてしまうと、私たちは、イエス・キリストが仕えたように仕えなければならないんだ、だから、足を洗いましょうということになります。そうなるとどうなるでしょうか、私は足を洗っているのに、あの兄弟、姉妹は足を洗っていない。問題だ!と非難することになりかねません。
自分とイエスとのかかわりにおいて
イエス・キリストは、ヨハネによる福音書13:8でこう言います。
この節では、足を洗う行為が、足を洗う個人と主との関係に焦点を当てているということです。他者との関わりではなく、あくまでも、他者との関わりは、イエス・キリストと自分の関係に昇華されるのであって、自己犠牲と愛の精神を教えるためのものであることが強調されています。この教えはペテロ個人に対して語られたものでありながら、同時に主は私たち一人一人に向けて語っていることです。
主は、使徒たちの心に支配していた他者との関わりの中で、彼らの自己追求と高慢の精神に対抗して、自己犠牲と愛の精神を教えられました。この教えの中心には他者への視線や意識ではなく、むしろ主への愛に集中することがあります。
イエス・キリストに仕える者は、この教訓を学ぶ必要があります。それはキリストのへりくだりの愛を受け入れ、その力によって清められ、人間的な意志を完全に神にゆだね、そしてキリストの精神が本当に何であるかを十字架の死の中で学ぶことです。天の御国に入るためには、幼子のように謙遜である必要があることです。
祝福の道
こうして、イエスは弟子たちにこう言います。
これらの教えを実践すれば祝福されることを強調されました。一般的に私たちは神に自分の祝福を求めるものです。
自分の幸福や、家庭の祝福など自分が得たいと思うものに祈りを費やすものです。
ところが、イエス・キリスト示した究極の祝福とは、十字架に至ることをイエス・キリストは最後の晩餐のときに教えてくれました。しかし、十字架に至る道を私たちが祝福として選ぶことは、とてつもなく遠く感じることでしょう。無理だと思われることでもあります。
主イエスは、18節で『わたしが選んだ者を知っています。』といいます。つまり、イエス・キリストは、十字架に向かう道を祝福であるとして受け止め、実践する人を知っていると語ります。イエス・キリストの救いに感謝し、その感謝とイエス・キリストが愛してくれたことを喜ぶクリスチャンが、十字架に至る道を歩むことを示唆しています。
ですから、私たちは、自己犠牲をしなければならないと自分を責めたて苦しんで従っていくのではありません。十字架に至る道は、イエス・キリストが私たちにしてくださった大いなる恵みをたどる道であり、イエス・キリストの愛があふれる人生であることを知ることでしょう。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです
私の証しを述べますが、ここ近年、高齢者の介助をする仕事に従事しています。障害者福祉とともに、福祉のアルバイトには約10年間関わってきましたが、初めは福祉という仕事に興味を持っていませんでした。
特に、トイレ介助は自分が避けたかったことでした。高齢者、特に寝たきりの方は、自分でトイレに行くことすらできません。そうした方の排泄は、自ずとオムツやストマといった手段に頼るしかありません。オムツとなると、便が股間全体に拡がったり、果てはシーツや服に至るまで汚染されるということになります。手袋をしていても、高齢者の方が動いたりすると、意図しなかったところまで汚れ、自分に便が付着することもあり、もどかしさや、思い通りにならない作業を、臭気や汚れの中で一人で立ち向かうことを嫌がる自分でもありました。
しかしながら、こうした仕事が嫌であればあるほど、イエス・キリストが臨むものだと気づきました。このような現場に立ち会うたびに、イエスが同じ状況に直面したらどうするかと自問します。ルカの福音書13章4-5節にあるように、イエスは汚い現場や人々が嫌がる仕事にも果敢に立ち向かわれたのではないでしょうか。
そうした状況に身を置くことで、イエス・キリストの存在を強く感じるようになりました。人々が嫌がることの中に、神の実在を見出しました。その時から、私は一人ではなく、イエスは共に排泄介助にあたってくれていると確信するようになりました。今では、排泄介助は決して苦痛ではありません。
また、入浴介助を行うときも、高齢者の方の足を洗うたび、イエス・キリストも同じことを私にしてくれているんだと思うたびに嬉しくなります。
介助して何が楽しいのかと思う介助者も多い中、イエス・キリストがともにおられる喜びを実感して、この仕事は長く続けられると思うようになりました。なぜなら、奴隷とされたイエス・キリストが私と共に介助に携わっておられるからです。
人は常に楽や仕えられることを求めますが、楽を得ることと祝福を受けることは同じではありません。祝福は困難の中に存在し、主イエスとの出会いを通じて生まれます。その中で、私たちは主イエスによって知られ、選ばれていることを見出すのです。アーメン。
皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。