死刑ありきの裁判であっても揺らぐことのないイエス
マタイによる福音書26:64
イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
| はじめに
受難週を迎えました。今日は、棕櫚の主日になります。金曜日の過ぎ越しの祭を前にして、人々の興奮は最高潮を迎えます。なぜなら、死人ラザロを蘇らせたことを目撃し、目撃した人たちの証言を聞いた人々は、ろばの子に乗ってエルサレムを目指してくるイエスの到来を、エルサレムの城門の前で歓喜をもって迎えたのでした。彼らは、棕櫚の枝をとって道に敷き、おのおの上着を道に敷いたとありますが(マタイ21:8)、このことは、Ⅱ列王記9:13によれば、王を迎えることを意味する行為です。エルサレムの群衆は、イエスこそ紛れもないユダヤ人の王であり、メシアであるとの告白を人々はその行為で明らかにします。死人をよみがえらせたイエスの奇蹟を目の当たりにしたユダヤ人の宗教的支配層である大祭司、律法学者、パリサイ人といった階層からすれば、自分たちの存在が失われるという恐怖から、イエス・キリストを抹殺しなければならないという危機感をいだきました。群衆の熱気に圧倒された彼らの危機感も最高に達していたのでしょう。この棕櫚の主日の後、イエス・キリストは十字架刑にまで転がり落ちていきます。今回は、イエスの裁判について、それもカヤパの前の審問について見ていきたいと思います。
| 聖書箇所
| 死刑ありきの裁判
イエス・キリストの裁判についてですが、少なくとも、6回の裁判の段階を経ることが知られています。今回取り上げるマタイによる福音書の26章での大祭司カヤパの前での裁判は、2回めの裁判になります。計6回の裁判で共通することは何かと言いますと、大祭司とサンヘドリン(当時のユダヤにおける最高裁判権を持った宗教的・政治的自治組織で、メンバーは祭司たち、律法学者、パリサイ派などから選任。1人の長老たちから構成され、一人が議長、一人が副議長、69人が議員からなる組織)たちは、終始一貫してイエスを死刑にすることを目的として裁判を行いました。
通常の公正な裁判というものは、偽証や犯罪があって罪に定める役割があります。しかし、イエス・キリストの裁判ではそうではありませんでした。
死刑に定めるために、犯罪や偽証をでっち上げることを行いました。
そのために、サンヘドリンたちは、偽証を求めていたと59節では記しています。偽証を得るために多くの証言者が集まられました。
多くの偽証者が集められましたが、イエスを死罪にするだけの十分な証拠は見つけられなかったようです。なぜ、見つけられなかったのでしょうか。その理由として、時間的な制約が大きかったようです。イエス・キリストを葬るためには、過ぎ越しの祭りの前であること、過ぎ越しの祭りを過ぎてしまうと、イエス・キリストを勾留する正当な理由がないものとして、国民の非難を受ける可能性もあり、無罪として釈放されることも危惧したのかもしれません。また、過ぎ越しの祭は大事な祭りであったので、祭りを汚すわけにもいかないということで、速やかに葬るのが妥当という判断であったのでしょう。
サタンは、イエス・キリストが聖書の預言どおりに死ぬことを阻止するために働いていました。しかし、神は旧約聖書の預言どおりにイエス・キリストが、過ぎ越しの祭の子羊として屠られていくように歴史の駒は進行していくことになります。
| 焦る大祭司とサンヘドリン
まさにピンポイントで死刑のスケジュールが定められていきました。イエスの死刑の時間は、過ぎ越しの祭が始まる金曜日日没前までの終わること、午前9時には、十字架にかけるというスケジュールに決められていたようです(マルコ15:25)。こうしたタイトなスケジュールの中で大祭司ピラトとサンヘドリンの裁判は、十字架の前日の夜に行われたものですから、有力な物証を揃えることもできない中での強行した裁判であったことが60節を見ると理解できます。
死刑囚に仕立てるための準備もないままに、証人を集め、口裏を合わせる時間を用意する時間もなくイエス・キリストの裁判は進められていきました。
それだけ、大祭司やサンヘドリンたちの焦りに包まれていたものと思われます。そうした中、有力な犯罪の情報が上がってきました。それが、61節の言葉です。
| 符合しない証言
ところが、この言葉には、問題がありました。なぜこうした証言が出てきたのかといいますと、イエス・キリストの宮きよめは二回ありました。まずは、ヨハネによる福音書の2章の記事にある宮きよめです。一回目の宮きよめ際に、イエスはこう言いました。
裁判の時の証言と1回目の宮きよめの際に言った言葉に大きな違いがあります。証言者の偽証では、『わたしは神の神殿をこわして』と言っていますが、イエス自身は、「この神殿をこわしてみなさい。」と言っているように、違いがあります。証言台に立った人の証言は、歪曲されたものでした。マルコは、目撃者たちの意見は一致していなかったと付け加えています。
ところで、なぜ神殿の偽証が出てきたのでしょうか。それは、大祭司カヤパが必要としていた証言でした。神殿にたいしてこのようなことを言うことは重罪でした。
しかも、神殿の破壊と、再興のちからを所有しているということは、自分が神であり、メシアであることを示す言葉になるということもあり、十分死刑にふさわしい犯罪になると考えていたようです。しかし、イエス・キリストは、この証言に対して黙秘を続けます。
| いのちがけの宣誓
数々の証言があるにも関わらず、符合しないことで、罪に定める決定的な証言が得られないと悟った大祭司カヤパは、イエスに決定的な言葉を投げかけます。
その言葉とは、「あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」という審問でした。カヤパにしてみると、この質問は一か八かの勝負の言葉でもありました。イエスが自分で神の子であると証言したならば、『イエス=神』ということになりますので、涜神罪に問えます。
ところが、イエス自身『神の子』であるとほとんど公には自称したことがないのです。イエスが神の子であると公言した言葉といえば、ルカによる福音書22章とラザロをよみがえらせた時に語ったことのみで、
あとはすべて、イエス・キリストの目撃者たちがイエスは「神の子」であると他称した言葉です。
カヤパは、以前からイエスは神の子であることを否定しないという報告を受けていたことを総合して、イエスは神の子であることを否定しないだろうと推測して質問したものと考えられます。
もし、神の子であることをイエスが証言したとすれば、涜神罪なので死罪を立証できる決定打としてこの言葉を用意していたようにうかがえます。
イエスが、神の子であるということを否定したなら、罪状を取れないという可能性も否定できませんでしたので、カヤパは、63節で「あなたに命じます。」(ギリシャ語:エクソルキゾー)と迫ります。
まさにスリリングな展開ですが、証言の裏を取れないカヤパからすれば、一発逆転の大勝負であったに違いありません。
「あなたに命じます。」と訳されたエクセルキゾーですが、これは、「私は生ける神によってあなたに誓う」、つまり、イエスに宣誓させたということです。
ここで、イエスは、自分が神の子であると公に証言します。数々の偽証に対しては抗弁することなく、黙秘を貫いていたわけですが、自分の存在がいかなるものであるのかについての証言を求められた時、彼は死を覚悟して自分が神の子であることを告白しました。そこでも、自分は神の子であるとは言いませんでしたが、「あなたの言うとおりです。」と決定的な回答を大祭司に言いました。この答えは、死刑執行礼状にサインするのとおなじ意味をもちますが、さらに続けて、「力ある方の右の座に着き」つまり、自分は神と同格であると大祭司に告白するのです。
こうして、主イエスは、大祭司カヤパの猛烈な怒りを買うことになります。
その審問のやり取りを聞いていたサンヘドリンの議員たちは口々にイエスは死罪であると侮辱と憎悪をイエスに向けたのです。
| 神としての姿を捨てないお方
こうして、イエス・キリストの裁判の様子についてかいつまんで見てきましたが、イエス・キリストの裁判において主は、一切、神としてのあり方を捨てることはありませんでした。ピリピの手紙において、パウロはこうイエスを証言しています。
イエス・キリストは裁判のなかにあっても、弁護する材料に満ちていたのにも関わらず、自分を弁護することはありませんでした。また、自分を自分で神の子であると自称することもありませんでした。すべて、人間に神の子であると他称でありました。
ところで、ヨハネによる福音書で、イエスが、ユダヤ人の前で、 「わたしはある」と、宣言しています。
この「わたしはいるのです。」の部分のギリシャ語は、 εγω ειμι (エゴー・エイミ)と書かれています。共通するのは、モーセに神が語られたことば出エジプト記3章14節のことばです。
イエスが、「エゴー・エイミ(わたしはある)」と宣言された時、ユダヤ人たちや祭司たちは、モーセに語られたことばを思い出し、イエスが、「自分は神である」と宣言していると受け止め、反発と殺意を抱いたようですが、いずれにしましても、イエスは、自分を「ある」とは言いつつも、自分を神の子と言わなかったことは注目すべき点ではないでしょうか。
神の子ということばは、神が用いることばではなく、人が神に用いる呼称であるがゆえに、イエスは、一切自分を神の子とは呼ばなかった。つまり、徹頭徹尾、神であられたということが自明になったのではないでしょうか。
たとえ、死に向かうという絶体絶命のピンチに差し掛かり、自分の運命が一言で決定してしまう決定的な場にあってもイエスは、自分を否定せず、不変の神であり続けた。それも、自分は神であると一切言わずにです。
死に直面し、自分を翻してしまうかもしれない、そういう場にあっても、つねに、「エゴー・エイミ」であり続けた主でした。そうしたお方が、私たちを救い、私たちへの契約を翻し、撤回するということがありうるでしょうか。否、それはありえません。
キリスト者でない人はイエスは裁判に敗訴したと言うかもしれません。しかし、いかがでしょうか、終始一貫した不変の神としての主イエスの姿勢を仰ぎ見るなら、彼こそ、真の意味での強さを持つお方であり、いかに私たちは右往左往しながら、弱いものにより頼んでいるのではないかと教えられます。
イエスは、人の罪に陥れられて死んだことは事実であり、私たちの罪のために死んだことは紛れもない事実ですが、こうした不条理な裁判の中においても、神性を失わず、最後まで神として自存しつづけたことを私たちは、当たり前ととらず、救われたクリスチャンに与えられた恵みとして知ることができれば幸いです。