「何を」「どんな人が」

純烈の新曲「だってめぐり逢えたんだ」そしてカップリングの「いまでも一番星」と「汐風ららばい」の作詞は松井五郎さん。過去には「グッときちゃうよね」「そっと涙のラプソディ」「ジグザグ」といったファンからの人気も高いカップリング曲を数々提供してくれていました。ちなみにプロデューサーの関口静夫さんがジグザグを気に入って、ドラマ「純烈ものがたり」はこの曲を締めで使いたい、ということは構想の段階で早々に決まっていたそうです。
2021年後半からは「今夜 涙じゃ帰れない」そして2022年は「本牧マーメイド」「ためいきエレジー」「いつまでも忘れないから」「愛言葉」と1年の間に5曲も書いてくれました。

松井五郎さんは、私が説明するのもおこがましいほどの超大御所作詞家です。安全地帯さんや工藤静香さん、ジャニーズの皆さんや現代の歌謡曲も含めて、大がつくヒット曲だけでも指折り数えたら両手両足の指では足りないくらいたくさんあります。そんなものすごい方が純烈に歌詞を書いてくれることがどんなにすごいことか…。

今回は特に、歌手としてはデビューになる岩永さんのために作られた「汐風ららばい」なんて、まさに岩永さんが歌うべくして歌っている作品になっていて、初披露の場で岩永さんが泣きながら歌うことになったのも、そりゃそうだよな、という内容になっていると思う。岩永さんの生い立ちや亡き母に対する想いなどを知らない方は

上記の記事や岩永さんのInstagramを遡って読んでみてください。

ちなみに「いまでも一番星」に入っている岩永さんの「もしも~し」から始まる電話をかけているセリフは、レコーディング中に松井先生がその場で書いて「これ読んでみて」って急遽入ったパートなのです。個人的に「いまでも一番星」は純烈のカップリングに中でも特に好きなメロディと詩で、その中でもあのセリフはグッとくる部分です。多くの人はふるさとを離れて頑張っていると思います。特にそんな人に響くと思いますが、逆に生まれ育った街で今でも頑張っている人は、地元を巣立った誰かが思い浮かんだりすると思いますし、自分に照らし合わせられる人はたくさんいて、そのたくさんの人を励ます作品だと思っています。さぁ、岩永さんの故郷やお母さんに対する想いを今日知った人は、それを心に留めて「汐風ららばい」「いまでも一番星」の歌詞を目で追いながら聴いてみてください。

ちなみに松井五郎先生は、お会いする時には我々はもちろん純烈も三つ指をついてお出迎えしなければならないような大先生なんですけど、レコーディングに立ち会ってくれた時も、偉ぶることも声を荒げることもなく、静かに見守ってくれていました。今年のツアーの初日には楽屋にも顔を出してくださり、コンサートも最初から最後まで観覧してくださっていました。

でもやっぱり、図々しいことを自覚している自分でも、自分なんかが…と気軽に話しかけたりはできず(先生から話しかけるなオーラがあったわけではなく、こちらが勝手に遠慮していただけです…)同じ空間でも遠巻きに観察するに過ぎなかったわけですが、こんな詩を書ける人はどんな人なんだろうという、松井五郎さんという人に対する好奇心をさらに刺激してくれたのは、先生のTwitterでした。

レコーディング以降、先生の格言のようなツイートが心に響く日々を過ごしております。そして、色々と読ませてもらっている中で改めて思ったことは【何を(どんなこと)言うか】という柱はもちろんですが、それを【誰が(どんな人が)言うか】という部分が非常に重要、ということです。そして、それを言う人の実績や活動が信憑性に繋がり、心に刺さる深さが決まるのではないか、ということ。簡単に言うと、優勝したことある人が優勝までに経験したことや過程を振り返って解説するのと、優勝したことない人が想像や他人からの情報だけで解説するのでは、前者の方が、圧倒的に説得力がある、みたいな。実績や業界からの信頼感を考えると胡坐をかいて殿様商売をしても当然許されるほどの大先生なのに、今もなお小さなものから大きなものまで真摯に取り組んでいるように見える松井先生が言っているからこそ、なるほど、と思える言葉がたくさんあるのです。そんな松井五郎さんが詩を提供してくれた次の作品は6月7日リリース「だってめぐり逢えたんだ」Cタイプのカップリング曲「幸せになろうか」。歌っている純烈のこれまでの生き方を思い浮かべながら詩を読みつつ歌を聴いてもらえればと思います。

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「何を」「どんな人が」の続きをちょっと。いつもそうですが、一応今回も先に注釈を入れておくと、あくまで私の個人的な考えです。

例えば「自分らしく生きる」という考え方。この言葉を、周りの人への迷惑や不利益、一人じゃ何もできなかったくせに過去に恩義や仁義を忘れて自分一人で生きてきたような顔しているただの身勝手な人間が言うと、失笑の対象になる。その場合、周りいた心ある人は離れ、無責任に肯定しかしない人、それと搾取という発想の人しか残らないのでその沼からは抜けにくい状況になりがち。ただ、健康であれば生活費の稼ぎ方はいくらでもあるので、現実から目を背けて逃げている己の姿を見つつも、もっともらしい理由を後付けしていくことで、脳内だけは非現実を生きることもできると思うので、己の弱さを自覚している人がうまくマインドコントロールできれば、心の守り方の一種になるのかもしれませんが。

自分を甘やかす言葉の裏に、我慢や無理を排除してもなお、社会的自立と責任を果たせる要因があるのかどうか、だとも思います。金の成る木でもない限り「らしく」生きることに付随する負荷や責任から逃れるのは難しいと思いますし「らしく」生きた結果、自分と身近なイエスマン以外の人たちが辛い思いをするのであれば、そもそもの人間性に重大な問題がある、ただの自分勝手な人なのだと思います。
さて、その第三者から言われる「らしいね」は褒め言葉なのかどうなのか…。市場価値が100円のものを1000円で買ってくれる人が1人いるからって、それの価値が1000円だと思い込んでいないかどうか…。もちろん、人は社会で色々な人に迷惑をかけ続けて生きているので、迷惑をかけてはいけないとは思いません。迷惑をかけるし、かけられても許す日々が当たり前だとも思います。ただ、資格ではないけど、自分らしく生きることが許される最低限の人間性は必要なのかもしないなぁと思う今日この頃です。無国籍で全く人と関わらず自給自足で生きているのであれば何にも問題はないですけどね。

「自分らしく生きる」この言葉を発している人の思考が、理解力に乏しいのに他人の受け売りでそれっぽいことを言うことで、生き生きとしているように見せかけたいという見栄なのか、はたまたこれまでの苦労を苦労とも思わず、困難に立ち向かって乗り越えてきた経験や、自らの見聞と意識に裏付けされて出てきた言葉なのか。自分に厳しく、と言うのは簡単ですが体現するのは非常に困難なので、大した苦労もしていない私ですし、いまだに自分らしくの自分を把握できていないような気がしていますが、いつの日かこの言葉を言いたくなった時に、堂々と言えるような人間になれますように、と思っています。もちろん「自分らしく生きればいいと思うよ」と、誰かに向かっていう場合、言う相手をちゃんと見極められる目と心も、ですけどね。

自分を信じて・・・という言葉も、同じように、まずは信じていいだけのことをやってきたかどうかという部分に目を向けてから考えるのがいいと思います。信じていいだけの練習をしてきた自分がそこにいるのであれば自信に繋がるけど、そうではない場合の自分に裏切られるのは、よくあること。まずは自分の過去を客観的に振り返って見ることができるかどうか。周りはもっと練習してるかもしれないですしねぇ。人は、過去の事実に対する記憶に、自分に都合よく着色をすることがあるけど、周囲や身体は事実のまま今を迎えています。「今」は過去の自分が作ってきた未来です。そして未来は今と過去が作るのです。「今を生きる」という言葉の解釈を勘違いして、今だけ気持ちいいことを選択したのであれば、そのツケは後で回ってきます。逆に、身近にそういう人がいる場合、その人は未来の自分に責任を持つつもりがない人である可能性があるので、覚悟しておくことをオススメします。まぁ、信じて裏切られても、信じることを選んだ側の自己責任なので、裏切られたから恨む、ということは違う、とも思っているので、いつかその辺の話もしたいと思っています。

詩の世界観はフィクションも多いので該当しない作品がほとんどですが、メッセージソングと思える作品を歌う人やシンガーソングライターは、その人の背景や歴史を紐解いていくと、より深く刺さることもあるし、逆に薄っぺらく思えたり嘘に聴こえたりすることもあるでしょう。誰に限らず、歌う人の歴史と言動を見ていくと、同じ音源なのに違った聴こえ方がするかもしれません。

ちなみにこの流れに全く関係ない余談ですが、純烈リーダー・酒井一圭さんから発せられる「大丈夫」という言葉。馬券を買うときに聞いても全く信用なりませんが、ピンチになった時に発せられた場合、私にとって日本一信用できる言葉となります。

知らんけど☺