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人の痛みと芸術のクオリティ追及

先日、オンライン配信である演劇を観ました、青木です。

いつもならTwitterかnoteの記事で感想をと思ったのですが、劇団の熱量、社会問題への訴えがすごく、「面白かった」「気を付けるべきだ」だけで片づけるにはいけないと思いました。同時に、ボク自身が観劇して引っかかったところが、似て非なるというか、その劇団さんが主題としていたテーマとは少しずれてしまうので別記事として書くことにしました。

〇前提として(ここで読み終えてもOKです)

先にお伝えしておきます、ボクは人の痛みが理解できません。
なんて冷酷なというかもしれませんが理由があります。

自分自身も苦しかったと告白をしたときに、「その程度?俺/私はもっと辛かった」とを語られることが神経を逆なでされてとても嫌だったので100歩譲って同じ体験をした人を除き、「痛みがわかる」というほうが冷酷だし、なにも痛みをしらないのに当事者の話も聞かず、「辛かったんだね」と生半可に言葉を渡すことは侮辱だと思っているからです。

自分の考えを伝えるために、自分のことを例に挙げますが痛みの比較をするつもりはとんとありませんし、遠い国のどこかの誰かの話程度に思ってほしいです。それが一番、読んでいる人が傷つかないと思うので。

苦しんでいる当事者が一番つらいです。見聞きした感覚は言葉では完全に共有できませんし、完璧に伝えることもできません。あなたの痛みはあなたのものです。だから、ボクにはわかりたくてもわかりません。


〇痛み・苦しみとその主張

その劇は社会問題と演劇業界の問題にスポットを当てられていた公演でした。ただ、ボク自身は、その公演の主張に「まったくそうあるべきだ」と思えなかったのです。では、被害者の痛みも現状も放置・容認するのかと言われることでしょう。ボクは被害者の肩は持つべきだと考えますが、「男性だから」「女性だから」という理由で誰かの肩も持つつもりはないからです。

理由は、ボクは社会的な面・地元の演劇界隈ともに、トラウマを植え付けてきた中に男性だけでなく女性もいたからです。加害者の可能性には女性の中にも内包しているし、いちベクトルの問題が解決したら別ベクトルの派生問題(男性→男性、女性→女性、女性→男性等)には目をむけなくていいのかとも思ってしまったのです。(←多分、ここがひっかかりのポイントで主張テーマとずれてしまうところだと思いました)

その劇は実際にあった被害や現状をもとに制作され、劇の内容も劇作家の方もかなりの覚悟をもって公演をされていたのはとても伝わりました。何かを告白すること自体、相当な覚悟がなければできないことだと思います。ここはフェアにボク自身の体験も踏まえて書きます。普段は思い出したくないのであまり言いません。ただ、上記の主張に至ったのには自分自身にはこういった背景があったからということをまとめるために書きます。ここに書いたところでどうしようもないのは頭ではわかってはいますので、ボクのことは「あぁ、なんか大変だったんだなぁ」程度に思ってください。

演劇面では、5年前に「たかが学生演劇が」と公演も脚本も観ることなく鼻で笑い、自分の創作の筆を折ったのは地元劇団の女優さんです。今でも勢力的に活躍をされていて、よく挟み込みのチラシでもお見掛けします。しばらくは、「書くものがすべてごみ」「読むに値しない」「自分の頑張ってきたことはすべて無駄」という呪いのようなトラウマのような恐怖から創作が出来なくなりました。1年半前にリハビリの形で創作を始め、ありがたいことにまた作品が少しずつ書けるようになりました。

社会面では、ドクターストップにより退職を余儀なくされました。原因は逆パワハラ(年上の部下からのパワハラ)です。休みの日には「あれが出来てない。店長のくせに怠惰だ」「自分にレジが入ってる。ふざけるな」等ラインや電話、自分が気に食わない指示はどんなに些細なことも一切しないというパート・バイトの方も失笑するような方でした。一度、あまりにひどいので上司を挟み、和解をもちかけましたがその時に聞いた理由は「今回の異動が気に食わなかったし、自分より年下の人間のもとで働きたくなかった。だからあんな対応をした」そうです。これを定年も近い男性の正社員が言ったのは驚きでした。(ボクは副店長時代にとんでもない店長に苦しめられたのがきっかけで残業が多くても自分で問題解決が出来るマネジメントの方面へ行き、その方は絶対に残業をしたくないという理由で接客専門の方へ役職を選択していたためこういった上下関係が出来ました)ちなみに、その人は降格・昇給等対応無し。今も同じ地位・同じ給料で今も元気に働かれているそうです。

他にも、脚本書きだからという理由で「いなくていい」「劇を面白くするのは役者だ。脚本なんかいらない」といろんな方に言われましたし、接客業に勤めてのでカスハラ、パワハラは一通り受けました。老若男女問わずで、ここでは書ききることが出来ません。その中には上記の二人のように本人、そして家族もろともむごたらしく屠っても気持ちは収まらないぐらい許すことが出来ないし、自分の中にずっと残っているものもあります。

ですが、他人に変わることを要求するのはもうあきらめています。卑怯だなんだと言われてもボクはあきらめないと、もうあきらめたと思わないと、割り切って生きること自体が出来ないからです。中には改善と銘打って「相手は加害者/犯罪者だから本名等個人情報をさらして私刑をしていい」「どんな罵詈雑言を浴びせ続けても暴言を吐き続けていい」ことではないと考えます。それをしてしまうと加害者とやっていることとなんら変わりがなくなるからです。ボクは、自分を傷つけた人間と同じにはなりたくはありません。

〇クオリティ追及とハラスメント


「なぜ弱いものに足並みをそろえなければならないのか」という意見を目にしました。言葉のままなら何を言ってるんだととらえられるような気がしますが、ボクは考えようによっては問題提起すべき言葉だと思います。

加害者が暴れていいというわけではなく、「ハラハラ」という言葉をご存知でしょうか。

演劇界隈は詳しくないので、ボクの前職で例えさせてください。
パートの方の面接時に「シフトを組む上でどれだけお休みが必要か、早退の可能性があるかを把握する為にお聞きします。お子さんはいらっしゃいますか?」と聞かねばいけませんでした。ボクはこの面接でこの質問をするのがとても怖かったです。「お子さんはいらっしゃいますか?」という質問はセクハラだととらえるという場合があるからです。

理想ならいくらでもお休みをというべきでしょうが、本社がそんな豊かに人材を用意できるほど余裕なんかありませんでした。また、同じ条件を持って働かれている方もいらっしゃったので「この人はよくてこの人はだめ」ということもできませんし、別の方の負担を過剰に増やすことをもできません。そして、ボクもさすが分身が出来ないので負担を追うにしてもボク一人で店を回すなんてことはできないのです。そのため、従業員の方が少しでも快適に働くためにも聞かなければいけなかったのです。

そして指示をだす時も胃をかなり痛めてました。一番胃を痛めたのはベテランの方と新入社員に仕事を割り振るときでした。中堅の方は簡単というわけでなく、ピンポイントでここが出来ないという場面が多かったので比較的フォローがしやすかったからのです。

ベテランンの方は組織図的には部下にあたりますが、現場では先輩です。教えてもらうことも多く、助けてもらう場面も多々ありました。されど、その分プライドやこだわりを持つ方が多かったので新しいシステムが入った時に「やりたくない」という方もいました。「やってください」と強く言いすぎるとパワハラと言われます。ボクも喧嘩はしたくありません。でも、やらなくていいと特別扱いもできません。どうしたらその人の技術を生かしながらお互い心地よく仕事ができるか考えるのが難しかったです。先輩社員にアドバイスをもらったり観察したりしてましたが、年齢と経験がものを言う場面も多く、よく出勤前に吐いてました。

新入社員の子もボクは胃が痛かったです。ボク、先輩は「一度教えたことは二度と聞くな」という教わり方でした。ただ、先輩のような育てる立場になると不真面目真面目以前に「接客が得意だが事務作業が苦手」「事務作業は得意だが接客が苦手」「時間をかければこなすことができる」と個性がありました。それを把握しつつ、モチベや性格も考えつつ、別店舗の同期の子と習得度合いの歩幅を合わせながら店舗業務もこなす必要があったので、自分の感情コントロールもしなければいけませんでした。余裕がなくても余裕があるふりをして接しなければいけないし、成長のためなら嫌われることも覚悟の上で言葉をかけることがありました。

でも、自分と同じ思いをする後輩が減らせたり、大変ながらも苦しそうに働く人が楽なった姿をみるとネジメントの方面へ行ってよかったと思いました。まぁ、なんか、ずっと胃が痛かったし、よく吐いていたので性格上向いてはいませんでしたが…。

演劇に限らず、人間が集まって同じ方向へ向き、一つのものを「いいものを作りたい」と思えば、クオリティを求めるうえで、または主宰/リーダーの立場によって立場によっても言葉の責任も変わってきます。見えるものも変わってきます。

観劇した演目のアフタートークで「相互コミュニケーションが大事だ」とふれていましたが、トラブルの発展だけでなく双方の誤解や齟齬が負担にならないようにも本当に大事なことだなと思いました。

〇物語の中の「性(ジェンダー)」

観劇した作品の中には「男性によって描かれた女性像」についての言及がありました。これはボクは怖くなりました。ボクも経歴はなけれどしがない書き手です。ボクが作品を書く上で一番恐れているのはそれが差別になっていないかです。

言葉がうまく見つからないので人の作品をあげます。

この中の11話「シマリスと(ユキウサギ)」に出てくる(ユキウサギ)のイチジク先生の考え方が近いと思います。

あらすじとしては、原稿締め切り前日、草食動物の心情を繊細に描きあげることが特徴的な小説家・(ユキウサギ)のイチジク先生の原稿がいまだうけとれていない編集社。打開策として「同じ繊細な草食獣同士なら話ができるかもしれない」と草食動物であるシマリスの新入社員・キムに原稿回収を任せます。お土産を買って、イチジク先生の家へ向かうのですがそこでイチジク先生の正体がわかります。

キムが「なんであんな繊細な小説が書けるのか」と尋ねた時、イチジク先生が言うのです。

自分にないものに焦がれて、0から1を生み出すのが作家だ。
(ネタバレのため中略)…自我がボロボロになるまでとにかくとにかく掘り起こすのが好きなんだ…

『BEASTCOMPLEXⅡ』(作:板垣巴留)11話「シマリスと(ユキウサギ)」
より引用

性(ジェンダー)はボク自身の性自認が男性にも女性にもなれなかったXジェンダーなので「男らしい」「女らしい」はわからないし、それをなんのためらいもなく受け入れて表現できる役者が羨ましいのが本音です。多分、もっと中性的で男か女かわからなければボクは今も役者をやっていたと思います。

青木の一人称「ボク」じゃんと言われるかもしれませんが、「青木 葎」という役柄がいるなら雰囲気的に「ボク」だなと思って使っているだけです。一番しっくりくる一人称は「自分」ですし、外では男性・女性ともに使用する一人称の「私」を使ってます。ややこしいですよね、ボクもです。

でも、自分は死にかけたことは自信をもって書けます。命を絶とうとして、失敗して、救急車で運ばれて生死をさまよったことがあるので「こう描こう」という軸のようなものがあるのです。しかし、性(ジェンダー)は「俳優」「女優」が演じる以上、漫画のように性別のないキャラクターは描けないし、創作物や資料、人の会話からイメージを探るしかないのです。

悪意がなくともイメージが偏見につながらないようあらためて慎重に、書いていこうと思いました。


覚書として。
それでは…。

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