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アニメと文学とファン心理

前段

アニメを見ていると、文語表現を会話文に用いる光景に違和感を覚えることはないだろうか。
思い当たるものがある人は原因について大方察せられているだろうから本論まですっ飛ばして貰っても構わない。

「お前こんなところでなにしてんの」
「……何でもないです」
(中略)
「いやなんでもないなら途方に暮れたような顔で座ってるなよ。どうかしたか」
「……別に……」

「お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件」(GA文庫)1巻 
および同タイトルのアニメ#2より

 ちなみに、上記タイトルはたまたま白羽の矢が立っただけであって、当該作品を揶揄する意図は全くないということは先に強く述べておく。

 とはいえ、本論を考えるに当たって関連職に個人的な恨みがあるとか、「最近のアニメは面白くない」などといった10年ほど前の迷惑系ブログの運営方針のような意図が挟まっていないか、などを小一時間考えた。
 歪んだ意図は歪んだ結論を生むからである。
 以降本論が無事に最後まで書かれているということは、そこらへんに問題はないと自分で判断したからであろう。
 はい、以上予防線でした。

ミスではない

disconvert

 難癖つけたいだけと思われるかもしれないが、「本編で言っていることをそのまま多角的な表現技法に起こそうとすると、現実味が急に薄れて嘘っぽさが増す」のである。
 アニメに本物っぽさは要らないと思われるかもしれないが、難しい言葉選びが為されたセンテンスはどう考えても「会話」という「迅速な意思疎通」に対する妨害行為でしかない。
 日常会話で「畢竟するに」なんて使う奴はいないのである。多分

 さて、"ハルヒ"や"と禁"、"化"などでも見られるこの現象を、ディスコンバートと呼ぶことにしよう。本当は「コンバートミス」辺りが適当なのだろうが、「ミス」という言葉は日本人にネガティブなイメージを与えがちなので避けておく。

受け手のチャンネル格差

 このディスコンバートはコンテンツから受けられる情報選択手段の差から生まれる。
 小説から情景を読み取るには地の文を咀嚼するしかない。

 とある小説があったとして、その中に
 「彼女は僕に微笑みかけた」
 という一文だけがあったとする。
 読者がここから得られる情報は何だろう。
 ・僕と彼女がその場にいる
 ・彼女は僕の方を向いている
 ・彼女は笑っている
 せいぜいこの三点であろう。
 では、推敲してこのようになったらどうだろう。
「夕日の差し込む教室の隅で、彼女は風に髪をなびかせながらこちらに柔和な笑みを向けていた」
 まだゴミカスみたいな文章だが、少しだけ情報が付け足された。
 ・教室が夕方
 ・窓が開いてる
 ・彼女の髪は長い
 とか。
 この情報は地の文から引き揚げるしかなく、無ければ妄想想像で補うしかない。ライトノベルなら絵があるかもだが、乙一的視点に立ってそれはいったん脇に置くことにする

 一方、アニメやドラマやらに置き換えるとどうなるだろう。
 アニメにもドラマにも、絵がある。
 絵の中は通常、主たる登場人物以外のオブジェクトも描き込まれている。天気、建物、マネモブ通行人、そしてキャラの表情。
 さらに登場人物は喋るかもしれないし、雰囲気を出すためのBGMが流れているかもしれない。
 さまざまな記号の組み合わせであり、総合芸術に近い。
 雰囲気を語るのにここまで便利な手段があるだなんて、という絶望すらあった。あわよくばマンガ原作で永遠に左団扇したいと思っていた頃の僕はいま、鶴見川の底に沈んでいる。
 閑話休題。
 つまり視覚・聴覚情報に訴えることが出来るものは、言葉が無くても世界を作り出せるのである。
 これはいいことでもあり、悪いことでもある。
 情報が7割遮断された文学世界では、主人公がどのような容姿をしているのかすら述べられないことさえある。逆に言えば、僕の私の理想の誰かをそこに仮定することができる。ひどい意味で、自由に開かれているといえよう。
 一方、開かれたコンテンツ世界では雰囲気・容姿・世界の様子が丸わかりではあるが、そこで終わりである。創造/想像の余地がない。
 「僕は/私はこう思っていたのに」という"挫き"は、人間のクリエイティビティ性を多少損なうものではないかと考えている。

"答え合わせ"の感情

 情報を取り入れるチャンネル数の差が原因だとしながらも、作品を作るにあたっては文字を多角的情報へ起こさなければどうしようもない。
 その時に、例の「違和感のある表現」が取り残され、それを正としたまま世に流れ出てしまうのである。これがディスコンバートである。
 では何故そのような違和感がまかり通ってしまうかというと、原作ありきのアニメを見るとき、視聴者は「答え合わせをしたがる」からである。
 原作の一挙手一投足をアニメ化していたら尺が足りないということは承知の上で、それでも原作ありのアニメを観たいと彼らを繋ぎ止める一因がそこにあるだろう。
 原作にない表現は「ぶっ壊し」要員として批判されがちである。そも原作ありきのアニメが原作ストックを全消費した例はあまりないだろう。限られた時間で話をぶった切る必要がある以上、完全を求めるのは無理筋なのであるが……その救いを求める気持ちが「原作そのまま」という歪んだ願いを生むのかもしれない。

会話文は会話文として

というわけで、結論は「小説を書くなら会話文は日常会話からあまり逸脱しない方が読んでてスッキリするよ」というだけの話である。
最後はそれっぽく引用で締めよう。

過去、FF14P/Dで有名な吉田直樹さんがこんなことを言っていた。
【インタビュー】「FFXIV: 漆黒のヴィランズ」プロデューサー吉田直樹氏インタビュー - GAME Watch (impress.co.jp)

吉田氏: 「天外魔境」に関わっていた時に教えられたのは、「情報は詰め込むな、1NPCに言わせたいことはひとつまでにしろ」と。そのNPCはどんな設定を持っていて、どんな人物なのか、つまりキャラクター性を語るセリフは必ず必要です。村人でも農業に従事しているのか、狩人なのか……みたいなことですね。そうじゃないと「キャラクター」にならない。ここにさらに「この村は〇〇村です」とか、「ここから北に行くと……」のように、ゲーム側として伝えたい情報が加わるわけです。この「ゲーム側から伝えたい情報」は、1NCPにつきひとつまでにした方が良いよ、ということなのです。「この村はスクエニ村です。そして私は小作人なのですが、害虫駆除に困っています」のように、複数の情報を詰め込みつつ、これに話し方、余韻、訛りなどを書き加えて特徴を出そうとすると、どんどん文字数が多くなっていきます。セリフウィンドウを”ラベル”と呼ぶことが多いのですが、これが3ラベルを超えた辺りから、読むのが嫌になってしまいます。特に、実生活をしている中で、そんなに長尺のセリフを一気にしゃべる人は殆どいないわけで……。そうなると、「ああ、これはゲームだな」と感じ始めてしまう。このようなことを広井王子さん(「天外魔境」シリーズクリエイター)に教えられました。

【インタビュー】「FFXIV: 漆黒のヴィランズ」プロデューサー吉田直樹氏インタビュー - GAME Watch (impress.co.jp)

 作り手と読み手がいるという意味でのインタラクティブなコンテンツで、相手がスッと夢から冷めたら終わりなのである。
 あなたが誰かを夢に誘いたいと思うなら、その頬を突く真似は無粋ですよね?という話でした。
 それではまた。

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