『怪猫有馬御殿』(1953) 荒井良平:監督
「化け猫映画」を観た。この作品、一本の映画としては49分とずいぶんと短い尺だけれども、これは公開当時の「二本立て興行」の一本として観られたことにもよるという。それだけにコンパクトにまとめられ、いい印象ではあったが。
日本の妖怪としての「化け猫」伝説にはさまざまなものがあり、このあたりを調べてみても実に興味深いのだけれども、その中でも「鍋島藩の化け猫話」は有名で江戸時代から何度も芝居として上演されていた。しかし映画に登場する「化け猫」は1937年の『有馬猫』から始まる。
今日観た『怪猫有馬御殿』はこの『有馬猫』のリメイクで、ストーリーは文楽の『加々見山旧錦絵』の七段目に、無理やり化け猫を登場させたものではある。
この『怪猫有馬御殿』公開の3ヶ月ほど前、先に書いた「鍋島藩の化け猫話」を映画化した『怪談佐賀屋敷』が公開されてけっこうなヒットとなり(この映画も観たくなったが、サブスク配信では観られないようだ)、製作した大映京都は同じ荒井良平監督、入江たか子主演で大急ぎでこの『怪猫有馬御殿』を撮ったのだという。
主演の入江たか子は戦前から活躍した人気女優で、溝口健二監督の『滝の白糸』でも主演していたのだが、この時期大病を患い完治して復帰したばかりで、仕事もない状態だった。そこに『怪談佐賀屋敷』の話が舞い込み、彼女もそれは「三流映画だろう」との思いもあったけれども役づくりに打ち込み、猫の動作の研究もしたのだという。
そのおかげで(?)、化け猫映画は入江たか子の「当たり役」となり、以後数本の化け猫映画に出演している。これがのちに溝口監督の『楊貴妃』に出演したとき、溝口監督に「そんな演技だから化け猫映画にしか出られないんだよ」とスタッフらの前で罵倒されたという話は有名で、そんなハラスメントを受けた入江たか子は『楊貴妃』を降板、以後ほとんど映画に出演することはなくなった(『椿三十郎』にちょっと出演しているらしいが)。
さて、ようやっとこの『怪猫有馬御殿』のことになるが、この映画、ある殿の寵愛を受けるようになった新入りの側室が古参の側室の嫉妬を買い、相次ぐいやがらせの果てに自死を装って殺害される。それを殺された側室の侍女と猫の力を得た側室の亡霊とが協力して復讐するというお話で、原作の文楽は「女版忠臣蔵」と評されている。というか、現代で考えても古参ОLが集団で新人ОLをいびり、いじめて退職させる(もしくは自殺に追い込む)ようなもの、いやいや今ならどこかの歌劇団のようなもの、と言えばわかりやすいか。
で、そのいびられる新参の側室の「おたきの方」(もちろん入江たか子)、その実家が八百屋だということで「おこよの方」ら古参女性群に馬鹿にされている。映画は、そんな「おたきの方」の飼っていた猫の「たま」が、屋敷内で大事な食事の「焼き魚」にちょっかいを出してしまうことから始まる。古参側室らは「その猫も八百屋の育ちなものだから普段ダイコンやニンジンばかり食べているのだろう」と言い、猫を殺すように迫る。「おたきの方」と侍女の「お仲」はそんなことはできず、泣く泣く「たま」を外に捨てるのである。
‥‥って、意外なことに、猫は死んで化けて出たわけではないのである。わたしはてっきり、「化け猫」というのは死んだ猫が化けたものだと思っていた。
このあと、女性たちだけでの「武術試合」というのが庭園で行われ、ここで「おこよの方」の右腕、「岩波」という年配の女性がすっごい腕を皆の前で披露する。ここで「おこよの方」は、「おたきの方」に「岩波」の相手をするように言う。とても太刀打ちできるわけもない「おたきの方」はひざまずいて頭を下げて許しを願うが、「岩波」はそんな「おたきの方」をもその背中を打ち据えるのである。しかし殿らはそんな仕打ちを批判することになる(当たり前だ)。
かえって殿の不興を買って怒った「おこよの方」は、深夜になって奥庭の木に藁人形を釘打ちし、いわゆる「丑の刻参り」で「おたきの方」を呪い殺そうとする。
その藁人形が発見されてしまい、こんどはその「丑の刻参り」は「おたきの方」の仕業にする謀略をめぐらす。いたたまれなくなった「おたきの方」は側室を辞めようと、形式上実家からの書状が必要なために「お仲」を夜に使いに出す。
しかし、その「お仲」不在のあいだに「岩波」をはじめとした「おこよの方」一派の女性たちが「おたきの方」の寝屋を襲い、「自害」にみせかけて「おたきの方」を刺し殺すのであった。そして、その「おたきの方」の血を、どこかからあらわれた「たま」がなめるのであった(ここで「おたきの方」の亡霊が「化け猫」になるわけか。というか、猫の「たま」が死せる「おたきの方」の血をなめることによって、まさに「化け猫」として「おたきの方」に化けるわけか)。
さて、ここから「おたきの方」の亡霊の復讐が始まるのだ。まずは夜中に火の手もないのに火の見櫓の半鐘が鳴り、殿や家来らが火の見櫓に上がろうとすると、その梯子階段には血まみれの猫の足跡が上へと続いているのだった。そして櫓のてっぺんには「おこよの方」の側近の女性が、首を吊って死んでいたのだった。
別の夜、ついに「おたきの方」の亡霊が彼女を殺した「おこよの方」の側近の二人が寝る寝屋に出現する。
ここがめっちゃおかしいのだけれども、「おたきの方」の亡霊が「猫の手つき」を寝ている二人に向けると、その二人は亡霊のあやつるままにアクロバチックな動きを見せ、バク転その他さまざまな動きを見せてくれる。このシーンが意外と長いが、そんな「女軽業師」に出演してもらったので、「見せ場」をある程度の長さ見せる必要があったのだろうか。
二人は首を切られて死に、その生首が宙を飛んでいくのだ。
寝ている「おこよの方」のところに、その二人の生首が現れる。そばに仕えていた側近が恐怖にかられて「おたきの方」殺害の一部始終を語り、その言葉を廊下にいた「お仲」が聞き取りすべてを悟る。「お仲」は短刀でその側近に立ち向かうが、そこに「岩波」があらわれて障子越しに一人を切りつけるが、切られたのは「お仲」ではなく側近の方だった。
「おたきの方」の亡霊も「おこよの方」の前に姿をあらわし、やって来た「おこよの方」の側近らを例の「猫の手」であやつり、「岩波」を自分が殺された通りのやり方で殺害する。
亡霊が「おこよの方」に迫るとき、騒ぎを聞きつけた殿ら男性陣が駆け付け、亡霊はまさに「猫の亡霊」として暴れるのだが、ついには殿にその首をはねられる。
はねられた首はそのまま宙を飛び(このシーンのインパクトは大!)、「おこよの方」の喉笛に食らいつくのであった。「おこよの方」も死に、屋敷には平和が取り戻されるのであった(ちなみに、殿の弟君が「お仲」を思っていて、ラストには弟君と「お仲」が将来を誓い合う、というオマケがある)。
いやあ、ぜ~んぜん怖くはないけれど、面白かった! 「猫の動作を観察して研究した」という入江たか子の動きも楽しかったし、そもそもが、この「女性たちばかり」の復讐劇というのが面白い。この世界ではたとえ「城中」であろうと、男性たちは無力である(まあ、ラストに亡霊の首を切り落とすのは「殿」だけれども)。というか、つまりは男性原理のはたらかない「大奥」の世界なのだろう。
まあ「化け猫映画」の製作にあたって、「化け猫モノ」ということなら主人公はやはり女性だろうし、現代モノより時代モノがいいだろうということになり、そこで文楽の『加々見山旧錦絵』を使おうとしただろう、というのは面白い。もともと江戸時代に人気のあった出し物だったようだし、新しくオリジナル脚本を書くより信頼できたことだろう。監督も脚本も前作『有馬猫』と同じ人だったということで、前作から引き継いで要領もわかっていたことだろう。
あと、この映画のつくられた1950年代の日本映画を撮る環境の充実ぶり(とりわけ、大映京都)というのが見られて、それはまずはこの屋敷のセット。火の見櫓の内部の階段などの入り組み方、その撮影も(映るのはいっしゅんだけれども)すばらしく、「こりゃあヒッチコックの『海外特派員』に出てきた風車小屋よりもすばらしいんじゃないか?」などと思うのだった。そして、屋敷内の交差する「渡り廊下」の見事さも書いておきたい。
こういうのは、そういうセットをつくるスタッフたちの充実ぶりも示すもので、日本映画の盛隆はこういうところで支えられていたのではないか、などとも思うのだった。
とにかくはいろいろと、なかなかに面白い映画ではあった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?