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フィリピンの偉大な政治家たち(フィリピン5)

フィリピンには魅力的な政治家が多い。日本に帰る飛行機の中で久しぶりにNHKニュースを見ると、例の政治資金パーティ裏金問題で「知りません」「記憶にございません」「そういう認識はありませんでした」のオンパレード。まあ、誰が何と言おうと、選んだのは我々国民・・・・

というのはいいとして、フィリピンは、時に身体が震えるほどカッコいい政治家を輩出した。今回のフィリピン滞在でも、各地に立つ銅像を見て改めてそう思った。ここでは3人紹介します。

ニノイ・アキノ(Benigno "Ninoy" Aquino,1932-1983)

ご存じ、マニラ空港で暗殺された上院議員。独裁政治を敷いたマルコス大統領を激しく批判したため、投獄され、死刑判決を受け、ついにはアメリカに追放された。しかし1983年8月21日、台北経由でマニラ空港に戻ってきた。そして、空港で狙撃されて絶命した。フィリピンに帰ったら殺されることを本人も周囲も予想していた。

それなのに、なぜニノイ・アキノは帰国したのか。

ニノイ・アキノ国際空港(マニラ空港)第3ターミナルに設置されているニノイ・アキノの銅像

彼の名にちなんだ「ニノイ・アキノ国際空港」(マニラ空港)の第3ターミナルに、堂々とした銅像が立っていた。市街地のリサール公園の近くにも大きな銅像が建てられていた。そこには、ニノイ・アキノの言葉「フィリピン人は命を懸けるに値する」(The Filipino is worth dying for)が刻まれていた。この言葉が彼の意思を示していると思う。

なぜ一人の男の死が国を動かしたのか?それは、ニノイが国のために命を投げ打ったからである。「フィリピン人は命を懸けるに値する」と心から信じて・・・

ニノイ・アキノは、自らの死がフィリピン人に与える力を予見していたのかもしれない。彼の死後、妻のコラソン・アキノがマルコス独裁を倒す先頭に立った。そして1986年、100万の市民がエドゥサ通りに集まり、マルコス独裁を打倒し、アキノ大統領の誕生を導いた。例のピープルパワー革命である。身体が震えるほどの物語だ。

リサール公園の北のはずれにあるニノイ・アキノ、コラソン・アキノ夫婦の像。


ホセ・ラウレル(José P. Laurel, 1891-1959)

今回のフィリピン訪問の最大の目的が、このホセ・ラウレルを調べるためであり、そのためにラウレル財団(J.P. Laurel Memorial Museum and Library)に訪問することであった。

ホセ・ラウレル大統領の銅像は、マニラ湾に面したところに息子サルバドール・ラウレルの銅像とともに立つが、あまり目立たない。


1941年12月、太平洋戦争開戦。日本軍はフィリピンに攻撃した。そして、フィリピンの支配者であったアメリカを駆逐し、フィリピンを支配下に置いた。ラウレルは、日本占領下のフィリピンで大統領に就任した。フィリピンが最も困難な時代である。

日本としては、アジアから西洋を追い出し、「アジア人のためのアジア」を建設するための戦争だった。だからといって日本軍がフィリピン支配を続けるとフィリピン人の心が日本から離れる。その前にフィリピン人の政府をつくらなければいけない。しかし、その政府は、日本の意図に従順でなければならない。日本の協力者(コラボレーター)でなければならないのだ。(この場合の「コラボレーター」には「傀儡」「裏切者」のニュアンスが伴う)

この苦難の役割を引き受けて大統領に就いたのがラウレルだった。

大東亜会議の写真が飾られていた。これはオリジナル・・真ん中に東条英機、一番右がラウレル。

ではラウレル大統領は、日本の言いなりだったのか。決してそうはならなかった。

ある時、ラウレル大統領が暗殺されかけた。その犯人を日本の憲兵が捕まえてきた。ラウレルは犯人の顔を覚えており、憲兵が連れてきた犯人は明らかに襲撃犯だったが、彼は「違う」と言った。フィリピン国内で日本の憲兵隊が自由に動くことを嫌ったからだった。後にこの犯人はラウレルのボディーガードとなる。

ラウレル大統領は、東条英機首相が提唱した「大東亜会議」に参加した。この時、演説内容を事前に見せろと日本側に言われた。しかし彼は、「独立国の元首が準備した演説原稿を事前に検閲するのは主権侵害だ」と断固許さなかった。

東条英機首相からラウレル大統領への書簡。本当に驚いた。

何よりもラウレルは、「日本と一緒にアメリカと戦え」という要求を拒み続けた。

日本が戦争に敗れるとGHQに逮捕された。アメリカ側に「なぜ日本に協力したのか」と問われたラウレルは、「私は日本人のように日本を愛せないし、アメリカ人のようにアメリカを愛せない。私はフィリピン人を誰よりも愛した」と釈明し、戦時中の彼の行為はすべてフィリピン人を第一に考えた結果であると釈明した。

その後は巣鴨プリズンに収容され、後にフィリピンでも裁判にかけられた。その判決は無罪。日本軍占領下という過酷な状況において、フィリピン人の生命や財産を守るために、ラウレルは自らが盾となったのであり、それをフィリピン人が認めたのだった。

戦時中、多くのフィリピン人は、アメリカと組んで日本軍と戦った。また、多くのフィリピン人が日本軍に虐殺された。そのため、日本に対して抱いた恨みは非常に激しかった。その日本と協力したラウレル大統領は国賊と言われてもおかしくなかった。しかし、ラウレルは、そのように思われることを承知の上で、フィリピン人を守るために大統領になったのであった。

ラウレル大統領の肖像。部屋が狭くてエアコンの隣だったけど。


エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)

1565年のレガスピ到着から、スペインの統治下に置かれたフィリピン。
19世紀頃から独立を叫ぶ声が強くなる。ホセ・リサール、ボニファシオなど、スペイン統治に抗する声が高まる。そしてアギナルド(1869-1964年)が登場する。彼もスペインと戦うが、望みどおりに進まず、香港に亡命を余儀なくされた。

しかし香港でアメリカ人と出会った。彼はアメリカとスペインが戦争になることを告げ、フィリピン人の支援を要請するものであった。そして米西戦争(1898年)がはじまった。アギナルドは、アメリカを支援した。スペインを倒した後にフィリピンの独立を支援するというアメリカを信じたからであった。
今回、アギナルドの生家を訪ねた。マニラ市街地から車で40分ほど走ったカビテの街にあった。   

アギナルド将軍の像が前に立っている。

米西戦争中の1898年6月12日、アギナルドは、この生家のバルコニーで、フィリピン独立を宣言した。そして自らフィリピンの初代大統領に就任した。

「この地でフィリピン独立が宣言された」と示すボード。もっと注目されて欲しい。

しかし、アメリカは裏切る。スペインと秘密に協定を取り交わしていたのだ。スペイン敗北後、フィリピン軍はマニラに入場しようとしたがアメリカ軍にさえぎられた。アメリカは、スペインからフィリピンを買収し、新たな主人になろうとしたのだ。

裏切られたアギナルドは、新たな敵アメリカを相手に勇敢に戦った(米比戦争)。しかし次々にアメリカから送られてくる援軍や劣勢の武器など、時代の趨勢には逆らえず、遂に1901年にアメリカに捕まる。捕まえたのはダグラス・マッカーサーの父、アーサー・マッカーサーだった。

アギナルド邸内。つい最近まで住んでいたような空気感。

アギナルド大統領の生家を案内してくれたおじいさんは、1962 年に現在の 上皇上皇后両陛下がこの地を訪れた時をはっきり覚えており、フィリピン人の対日感情が一挙に好転したときの空気感を話してくれた。

1962年のご訪問時の写真が飾られていた。

ニノイ・アキノ、ホセ・リサール、そしてエミリオ・アギナルド。時代は違うが、3人すべてが心に突き刺さる政治家だった。そして、スペインからの独立、日本軍占領下のフィリピン、そして独裁政権との対峙・・・フィリピンは想像もつかない困難の時代を経てきた。そのたびに、自らの命を賭して人々の為、そして国の為に戦った政治家が登場した・・

翻って我が国の・・(以下、略します)。


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