FM PiPi たじみふるさとWalker [ 1 ]

[ 2020.04.07放送 ]第一週 1/2 - Powered by Vrew
プロフィールの紹介 ①

たじみふるさとWalker

「今月のゲストは、東海クロスメディア株式会社 代表取締役 現在は、公益財団法人日本生産性本部 地方創生カレッジ 総括プロデューサーでいらっしゃいます、三輪知生さんをお招きしております。よろしくお願いいたします。」

「お願いします。」

「さて、とても長い肩書きをご紹介させて戴いたんですけれども、東海クロスメディア株式会社 代表取締役社長でいらっしゃって、公益財団法人日本生産性本部地方創生カレッジ総活プロデューサー。これは一体、どういったお仕事でいらっしゃるんでしょうか?」

「自分で会社を持っている、これはもう基本的に個人事業主と同じですけれども、結局税務申告だとかを透明化するために法人化しています。その分コストも掛かりますけれども、会計も透明化できますし、外部に事業を委託することもありますから、法人化をしているんです。そういった中で、委託事業として、今は日本生産性本部、これは経済産業省がもともと所管して建てたシンクタンク。国をどうしていけばいいかっていうのを、産業振興、通商産業の観点から考えるシンクタンクですけれども、そこの仕事の委託を受けて、実施をしてるって言う事なんですね。もともと私は、日本生産性本部の経営コンサルタントの養成講座を出て、中でメンバーとして経営コンサルティングに携わっていたという経緯があります。」

「経営コンサルタントをしていらっしゃった。戴いたお名刺の中には、日本生産性本部認定経営コンサルタントというのも書かれておりますが、これは、もう大学を卒業されて、すぐに経営コンサルタントを学んでその職に着かれたんですか?」

「そうですね、私自身は実際には、工作機械、これは機械の部品を、自動車の部品を作ったりする工作機械のメーカーに入社をしました。その時は、海外で仕事をしたいっていうこともあって貿易部に配属を希望して、希望通り貿易部に入って、東南アジアの市場の担当をするっていうことをやっていたんですね。それは、そもそも私が海外、香港で育ったっていうこともありますけども、自分が海外で活躍したいっていうふうに思って、大学時代も、アメリカに留学をして英語もできるなんてことを言って、貿易部に配属されたのが、一番初めの仕事です。」

「三輪さんが、大学を卒業される頃というと…」

「バブルの絶頂期、バブル入社ですね。100人以上の新入社員、同期がいましたね。次の年ぐらいまでがちょうど、そんな時代だったですね。」

「色々な企業が、海外に進出・進出という時代だったんですね。」

「ドンドン、ドンドン生産拠点を海外へ出す。今はもう、マーケットも育ってきてますから、市場を現地に求めるということですけれども、当時は、生産拠点を現地に求めて、工場がドンドン進出していった時代だったですね。」

「ちなみに三輪さん自身は、どういったどこの国でお仕事されてたんですか?」

「私がメーカーに入った時は、香港と台湾と韓国市場を担当していました。」

「そういった車のメーカーの部品を、製造される会社に入って、そこから経営コンサルタントまでは、どういった流れがあるのでしょうか?」

「私自身は一生懸命、海外進出する企業に向けて工作機械の輸出をやる担当をしてましたけれども、そうこうしてるうちに、企業さんがドンドン現地に進出した上で、現地で設備投資をするという流れになってきまして、そうすると日本にいてもなかなか売れて行かないっていうことで、困って、メーカーとしては出ていきますけども。商社さんが現地で、輸出ではなくて、現地で設備投資の打ち合わせができる担当の、いわゆるセールスエンジニアですね。そういった人間が必要だということで取引先だった商社から、引き抜きの声が掛かりまして。私自身、父親も同じ三井物産にいたので、じゃあ行きますと言って転職を1996年にして、海外の進出する企業を主として、現地のメーカーさんとか。欧米のメーカーさんもお客さんでしたけれども、例えば、その時はタイ、インドネシア、フィリピン、あと韓国も市場担当になりましたけれども、現地で設備投資の打ち合わせをして、工場の設備まるごと新しい工場なんかを作る時の商談を進める、そういう役割に変わりました。」

「そして、引き抜きが掛かるほどご活躍だった三輪さんが、道を一転して経営コンサルタントになろうと思ったきっかけなどはあるんですか?」

「そうですね、私自身は海外に出て、活躍したいということを夢に描いて、実現したわけですけれども、ちょうど、フィリピン・マニラに駐在していた2002年頃ですね。ふと思い起こして日本を俯瞰して見てみると、日本自身はドンドン空洞化して、実際、取引だった企業さんも困っているような声を耳にするようになりました。国内にも、営業担当がいますからね。そういう中で、このまま、自分は肩で風切る商社マンを海外でやっていても、日本はドンドン空洞化していってしまうと自分の土台も揺らいでしまうんじゃないかっていうことを思うようになりまして、このままではいけないなっていうことを2002年の頃、マニラの駐在員所長をやっていましたから、ちょっと考えるようになったんですね。赴任が解けて、国内に戻って課長になり、そのあと欧米市場の課長になる中で、やはりこのまま、次はロシアで社長をやってっていうことも言われてたんですけれども、自分自身はこのまま自分の夢を追い続けても、日本が空洞化する、弱体化してはおかしいだろうっていうことで興味関心が移って、たまたまその時定期購読していた日経ビジネスにコンサルタント養成講座の広告を見つけて、あっ!これだと思って受講する事を決めたんですね。」

「そこまで、本当に順調にキャリアを築いていらっしゃったわけですけれども、周りのご友人であったり、ご家族であったりといった方々は反応はどうだったんでしょうか?その時。」

「まず、そもそも自分自身はもうやり尽くすところまでやり切ってるなっていう思いはあって、理解を求めようというようなことも説明しましたけれども、たまたま私の父親も、商社を辞めて自分で独立していたりとか、妻もやりたい事があるならば、頑張って挑戦してみたら、ということで後押ししてくれたので、コンサルタント養成講座を受講するタイミングでもう退路を断って、会社を辞めて、という流れですね。」

「思い切った行動に出られたわけですけれども、そこから経営コンサルタントの養成講座を受講されて、晴れて、経営コンサルタントとしてご活躍されるようになるわけですね。」

「そうですね。仕事を自分でも取るようになりまして、そもそも、日本生産性本部のコンサルタントは、雇われの雇用の社員じゃないんです。全員が委託業務契約で、人気のないと言うか仕事のつかないコンサルタントは、もう自分で自分の道探すしかないっていうスタイルなんですけども、そういった意味で私自身は自分の法人化して生産性本部のコンサルタントとして活動していました。専属のコンサルタントと非専属のコンサルタント、私の所属は非専属、ずっとそこでしか仕事しないという契約ではないので、自分自身がコンサルタントになった想いである、先ほどお話したように空洞化する地元で何とかしたい、という想いがあってその後、地元に帰ってきたわけです。それが2008年ぐらいだったかな。」

「一般的な経営コンサルタントというと、企業さんがご自身の企業を見直すために企業さんがお金を出して雇う、ということですけれども、三輪さんは、地方創生カレッジ統括プロデューサーということなんですが、地方創生に関してはどなたがお客様になって、どこから出資されるものなんですか?」

「お金をもらう人がお客さん、という観点からは国ですね、政府。政府が、地方創生をしなきゃいけないということで、それに対して予算を組んで、その委託事業先が、日本生産性本部が地方創生カレッジ。これはEラーンニングのコンテンツがあるんですけど、この運営と普及促進と、実際に、それを通した地方創生をするうえでの事業予算を組んでいまして。それに対して、何をしなきゃいけないかっていうことの提案企画を組んで、予算を戴いて、地元で、地方創生の普及促進というのをやってるという仕事になるんですね。ですから、個別の企業さんからお金をもらって顧問契約をするとか、そういったことは、そもそもやってなくてですね。前職でよろず支援拠点、企業支援センターにも毎週金曜日に来てましたけれども、その時も、相談者の企業さんからはお金をとらない。国の予算で、相談体制を整備して、相談に対応する、そういう仕事が主なので、もう長らく、国の予算で動くコンサルタント。日本生産性本部が政府系のシンクタンクという要素も、大きく関わってきていると思います。個別の事業者さんから戴くお金は、もうほとんどない。時々、依頼があって受けることはありますが、そんなスタイルですね。」

「では今月、時間を掛けて、三輪さんのいろいろなお仕事の内容を詳しくお聞きしたいと思います。」

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