見出し画像

松本寛大「みちしるべ」

【Post Traumatic Play】
 心に強いショックを受けた子供が、その状況を「ごっこ遊び」などの形で反復することをいう。衝撃を追体験することで痛みを乗り越えようとする外傷体験の処理方法の一種。阪神大震災後、内面の傷を言葉で表現するには未発達の幼児が「地震ごっこ」を繰り返す例が多く見られ、注目を集めた。


         1

 道は真っ直ぐに伸びていた。
 連日の燃えるような晴天で水量が減ったためだろうか、過去の記憶よりもずいぶんと浅瀬の多い河原で馬を水浴びさせている老女のほかには、人影は見えなかった。
「馬がいる」
 勲(いさお)くんが小さく声を漏らした。
「大きいね」
 馬というものは、近くで見ると驚くほどに大きい生き物だ。わたしがいうと、勲くんはあいまいにうなずいた。
 老女は膝の上までズボンの裾をたくし上げ、バケツで水をすくっては馬の背にかけてブラシでこすっている。馬の身体は夏の光を受けてたくましく輝いていた。ごつごつした筋肉の形がはっきりわかる。
「こんにちは」
 父が帽子をとって挨拶をすると、老女はひょいと頭を下げてみせた。男の子を連れていることになにかいうかと思ったが、さして気のない様子である。
「おひさしぶりです。お元気ですか。きょうはおひとりで?」
「こっちは元気だけど、亭主は死んだよ」
「それはたいへんでしたね」
「仕方ないよ。人は死ぬよ」
 老女はそれだけいって、馬の脇腹に刷毛でなにかどろっとした液体を塗り始めた。
「なにしてるんだろう?」
 ふと漏らしたという感じの勲くんの言葉が耳に入ったのか、父も首をひねりながら、
「なんだろうな。薬の一種だとは思うけれど」
「薬?」
「民間療法だよ。薬草をすりつぶして油と混ぜてああやって塗るんだ。ぼくの親も、皮膚病や火傷によく薬草を使っていた」
「そうなんですか」
「さあ、そろそろ行こう。まだしばらく歩くよ。車を出せれば良かったんだけど」
「家までは遠いんですか?」
「ゆっくり歩けば二十分くらいかな。荷物持とうかい?」
「だいじょうぶです」
 勲くんが首を振った。かたくなな態度にも見えた。
 夏の午後は明るすぎた。道沿いには人を休ませてくれる木陰すらなかった。勲くんがのどの渇きを覚えた様子だったので、わたしはバッグからぬるくなったペットボトルを取りだして手渡した。
 小さな虫らしきものが勲くんの足下から跳ねて、数歩先の地面に下りた。踏みつぶしはしないかと気遣ったのか、勲くんは少しとまどった表情だったが、彼が足を進めると、虫はふたたび飛んだ。そうして、また着地する。
「なんですかね」
「みちしるべだね」
「え?」勲くんは父に問い返す。
「ハンミョウさ。人の前を道案内するようにして跳ぶから、みちしるべって呼ばれている」
 金属のように輝く青緑色の身体が、オレンジと白のまだら模様で彩られている。触覚がひらひらと動いていた。勲くんが手を伸ばして虫に近づいた。
「駄目!」
 わたしは知らず大声を出していた。虫は勲くんの手が伸びる前に跳ね飛び、草むらの中に姿を消していた。
「べつに殺したりしないですよ」
 勲くんが怪訝そうな声をあげた。父もこちらの様子をうかがっている。わたしは思わず視線をそらした。
「違うの。そうじゃなくて……」
 祖父母の家まではまだ半分の道のりだ。赤茶けた道の両側には輝くような緑の草が風に揺れている。
「ごめん。なんでもない」
 わたしは先に立って歩き始めた。

 一ヶ月ほど前のことだ。朝食の席で、父が珍しく話しかけてきた。しばらくまともに口をきいていない娘に遠慮したのか、それともとまどっていたのか、ともあれコーヒーを飲み干した父は迷ったような口調で、
「実は話したいことがあるんだ」
「皿の上に置いてよ」
 わたしはコーヒーカップを指さす。
 父がカップをテーブルから持ち上げると、テーブルクロスに丸くコーヒーの染みがついていた。
「洗うの、わたしなんだからさ」
「ああ、悪かった」
 父がキッチンに向かい、ふきんを手にとろうとしたから、わたしは「駄目」と声をあげた。
「そのふきんじゃない。それ、食器ふき用。わたしがやるから」
 テーブルふき用のふきんでざっと染みをとると、制服の袖をまくり上げ、クロスを水につけた。そのあいだ、父はぼうっと立っていた。
「なに?」
 わたしはクロスをもみ洗いする手を止めず、いった。
「面倒かけて悪いな」
「そうじゃなくて、話あるんでしょ」
「そうだった。実は、再婚しようと思っている」
「前にもいっていた人?」父の交際の話を聞いたのは昨年のことだったか。お互い、ようやく決心がついたのだろう。
「ああ」
「ふうん」勝手にすればいい、と思った。
「その人に会ってくれないか」
「いつ? わたしにも用事あるし」
「会ってくれること自体はいいんだな」
「いいよ、べつに」
「ほっとした。反対されるかと思っていた」
 父がいそいそとジャケットのポケットからスマートフォンを取りだし、写真を示した。前に見てくれといわれたときはちらっと見たふりをしただけだから、まともに目にするのは今回が初めてだ。
 四十前後に見える。地味な色の服を着て、化粧も薄く、アクセサリーのたぐいを身につけてはいない。上品でも下品でもなく、そこそこきれいなふつうの女性、という印象を受けた。女性は小学生くらいの男の子の肩に手を置いていた。
「前の旦那とは離婚したんだっけ?」
 おそらく以前にも同じことをたずねているとは思うのだが、これっぽっちも記憶にはない。
「いや、亡くなった。まだ三十半ばだったのに、心筋梗塞だったんだ。この子もいっしょに暮らすことになる。勲くんっていうんだ。いやか?」
「いやじゃないよ」
「そうか、よかった」
 わたしは東京の大学に行くと決めている。合格さえしてしまえば、あとはひとり暮らしだ。新しい「母親」とはそれほど関わりを持たなくともすむだろう。だが、「弟」となるとそうそう他人のふりをするのも問題があるように思えた。父は妻と子を選べるが、わたしは母も弟も選べない。理不尽だ。
「それで、急なんだが、来月の八日と九日はどうだろう?」
「なんで二日も?」
 話しながらスマホのスケジュール帳を確認する。どちらの日もバイトは入っていない。
「実は佐伯(さえき)さんは――佐伯洋子(ようこ)さんは――都合でどうしても勲くんを置いて出張しなきゃならないんだ」
 話を聞くと、そのあいだ父が勲くんを預かるということになったらしい。それはまあ構わないのだが、どうも父は祖父母の住む田舎にわたしとその勲くんを連れて行くという計画を立てているようだった。
 先に祖父母に勲くんの紹介をすませ、翌日に佐伯さんが合流。それから家族全員で顔合わせ――と、そういう段取りであるらしい。
「いいけど、いきなりすぎない? いろいろと」
「悪いとは思っている」
「八日はここで預かるとして、おじいちゃんのところへ行くのはまた今度でもいいんじゃないの」
 父の計画に辟易したが、仕事の都合がどうのこうのと長ったらしい言い訳をはじめたので、わたしはすぐにあきらめた。

 その勲くんとは、だから、きょうが初対面だ。まだ小学六年生とのことだったが、不思議と大人びた印象のある子供で、正直にいえばわたしにはうまくやっていく自信はなかった。
 勲くんが先を歩いていたわたしのそばまでやって来て、横に並ぶ。
「なんでさっき、あんなこといったんですか?」
 父はわたしたちとは少し離れて、ついてきている。子供同士で話をさせて自分は見守ろうという腹づもりなのだろう。
 父にはそうしたところがあった。いいたいことがあるならいえばいいと思うのだが、口をひらきかけて言葉を飲み込み、押し黙ることが多かった。母とは対照的だ。
 母は、わたしに駄目出しをするのが常だった。
 ことによく覚えているのは、祖父母の家で過ごした夏の日のことだ。
 父が風呂を使い、わたしたちは六畳の客間で二人、父が戻るのを待っていた。母がふいに、「さっきわたしとお義母さんとが話をしているときに、あなた、どうしてあんなこといったの」といった。
 母はそのようにして、わたしがよかれと思って、あるいはさほど意識しないまま口にしたことについて、もう取り返しがつかなくなってから減点したものだ。
 しかも、気に障ったわけを明確に語ろうとはしない。だから母が時折口にする、「どうしてあのときあんなことをいったの」というセリフは、わたしを脅えさせるものだった。
 当時わたしは十歳になったばかりだったが、祖父母の家の滞在中は十歳なりに気遣いをしていた。祖母はいつも一言多い性格で、しばしば母に向かっていやみのようなことをいった。もちろん当時のわたしに皮肉の意味までわかったわけではなかったのだが、母の顔が一瞬曇り、言葉に詰まる様子は感じ取れたから、助け船を出すつもりで口を挟んだのだろう。
 だろう、というのは、そのときの祖母と母とのやりとりや、自分がなにをいったのかについて、もうすっかり忘れてしまっているからだ。人の記憶はどうもあいまいなもので、時に整合性を欠き、時に前後の文脈を失う。それでも、刺さった棘はいつまでも残る。
「なんであんなこといったんですか」という勲くんのセリフは、ひさしぶりにわたしにその棘を思い起こさせた。ここでマズい返答をするわけにはいかない。
 だが、わたしには答えることができなかった。本当に、虫にふれてはいけない理由といって、あらためて考えてみてもわからないのだ。ただとっさに口に出てしまった。なぜだろう?
「……ごめん、わかんない」
 勲くんがとまどったような失望したような――あるいはそのように見えただけかもしれないが――意外といった表情をつくった。

         2

「よく来たね。こんにちは」
 祖母は以前と変わらぬ様子だった。最後に会ったのは母の葬儀の際だから、もう七十半ばの計算になるが、年齢の割には元気そうに見えた。
「まあ、お入りなさい」
 麻のシャツを着た祖父が壁に手をつきながらゆっくり、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。歩幅がとても小さい。しばらく会わないうちに、身体をこわしたのかもしれない。
「とりあえず荷物を置かせてくれよ。勲くんが疲れている。ほら、荷物そこに置いて。この子が勲くんだ」
 勲くんはかついでいた荷物を磨かれた上がりがまちに置き、頭を下げる。
「佐伯勲です。きょうはお世話になります。どうぞよろしくお願いします」
「小さいのにしっかりしているのねえ」
「ありがとうございます」
 勲くんはもういちど、ていねいなお辞儀をする。当然といえば当然だが、その表情は硬かった。
「お茶でも淹れるから、中にお入り。そこの奥の部屋を使っていいから」
 祖父母の家は二人で暮らすにはずいぶんと建物が大きく、部屋も広い。
 客間は腰高の障子があけはなされており、庭の朝顔がつぼみをつけているのが見えた。
 居間に戻ると、祖母が麦茶を運んできた。勲くんが手をつけようとしないので、祖父が飲むように促す。勲くんは「ありがとうございます」と短く答えて、わずかにのどをしめらせた。
「勲くんはいくつになるんだ」
 祖父が訊く。
「先月、十二歳になりました」
「そうか。まだ十二か。お父さんを亡くしたんだって? つらかっただろうなあ」
 わたしは少し眉をひそめて、父を見た。父はなにを思っているのか、湯飲み茶碗を両手で包み込むようにして持ち、目線を食卓に落としている。
「父は、五年前に」
「なんで亡くなったの?」
「心臓の病気だということでした」
「お父さんの心臓は前から悪かったのかい」
「いえ、本当に突然でした。心筋梗塞とかで。仕事中に亡くなったんです」
「あらあ」祖母が頓狂な声をあげる。「河合(かわい)さんのところの息子さんと同じなのね。ほら、あの、茨城で機械の部品作っていた、あの子よ。河合さんも、せっかく息子さんを大学まで出したのに、あんなことになっちゃってねえ。いやだいやだ」
「母さん」
 祖父が静かに、だが鋭い声をあげたが、気づいていないのか、それともわかってやっているのか、祖母は、
「心筋梗塞って、若い人でもなるのよね。あんたも新しくお嫁さんをもらうんだから、身体には気をつけないと。この人も、いまに脳卒中か肺癌になるからたばこをやめなさいってずっといっているのに、わたしの話なんかちっとも聞かなくて。ぽっくり逝ってくれるならまだいいけれど、横江(よこえ)さんのところの旦那さんみたいに癌で治療が長引くだとか、ほら、あなたも知っているでしょう、横江さん。ああいうのは、あの人自身が苦しむのもそうだけれど、奥さんやお嫁さんの苦労を考えるとねえ」
「おれはちょっと横になる。あとはゆっくりしてくれ」
 祖母の長話を断ち切るようにして、祖父は部屋を出て行った。
「ごめんなさいね、勲くん。うちの人、まったく気分屋なんだから」祖母はテーブルに手をついて立ち上がり、「わたしは食事の支度をするから。勲くんは、好ききらいはあるの?」
「ありません」
「そう。なんでも食べなきゃ駄目よ」
 祖父母が出て行った部屋には沈黙がおとずれた。しばらくして、父がため息をついた。
「ごめんな。親父もお袋も悪い人間じゃないんだが」
「いえ、ぼくはべつに」
「理恵(りえ)、勲くんを外に連れて行ってやってくれないか。食事の支度ができるまで、少し時間がかかるだろう」
「……いいけど」
「頼む」
 祖父母に話でもあるのだろう。その顔を見ると、拒めなかった。

         *

 山に抱かれるようにして、狭い盆地に家々が寄り添っている。なだらかな山の峰の向こう側に空が広がり、入道雲が沸き立っている。午後も遅い。雲は陽の光を照り返し、輝くような色味を帯びていた。
 急に田舎に連れてきて気まずい思いをさせてごめんねというべきか、それとも佐伯家での父にふるまいについてたずねてみようかなどと思った末に、けっきょく口に出たのは「勲くんはどこの出身なの?」だった。クラス替えの初日に探りを入れる中学生か。
「ええと」
 勲くんはある地方都市の名前を挙げた。
「馬は見たことある?」
「ありますけど、あんなふうに川で洗ったりっていうのは初めて見ました」
 灌漑用の貯水池のほとりをわたしたちは歩く。水面を無数のあめんぼうがすべっている。
「理恵さんのお母さんってどんな人だったんですか」
 勲くんが急にそんなことをいったので、少し驚いた。
「……説明しづらいなあ。ふつうのおばさんだよ。そんなにすごくいいお母さんってわけでもなかったし、かといっていやな人じゃもちろんなかった。勲くんのお母さんこそ、どんな人?」
「ふつうです」
 思わず笑みがこぼれた。
「理恵さんのお母さんが亡くなったのは、いつくらいです?」
「わたしが十歳のころ」
「どんなふうに思いました?」
「どんなって……」
 わたしは母が亡くなった日のことを思い出す。授業が終わったあと、わたしは教室に残ってクラスで話し合いをしていた。いくぶんあいまいな記憶だが、たぶん、合唱の発表会で歌う曲目を決めるための話し合いではなかったか。ひどくこわばった表情の担任教師が教室の扉をあけ、わたしを呼び出した。
「病院に行ってみると、もう危篤だったから――危篤ってわかる?」
「わかります」
「急すぎて、もう、なにがなんだか」
 本当はそこまで急でもなかったのだが、わたしに受け止められるはずもなかった。いざ危篤というときには、後悔や絶望の入り交じった、よくわからない、ぐちゃぐちゃの感じだ。
「お父さんはなんて」
「母さんの手や頬にふれろって」
「どういう意味ですかね?」
「母さんの身体があたたかいのはこれが最後だからって。でも、さわってみたらずいぶん冷たかった。医学的なことはわからないけれど、そのときにはもう体温がかなり低かったんだと思う」
 古い記憶だが、いまだに慣れるものではない。
「よかった。お父さんがいい人で」勲くんは表情を変えずにつぶやいた。
「いい人かなあ?」
「嘘をつかなかったんでしょう。理恵さんのお母さんが亡くなるときに」
「ごめん、よくわかんない。どういうこと?」
「母さんは、父が亡くなるとき、ぼくに嘘をつきました」
「嘘って?」
「お父さんはいつも忙しく働いているから、それで、とても疲れて眠ってしまったのって。ぼくはいつ起きるのって聞きました。母さんは、ぼくが大きくなったら起きるよっていったんですけれど、そのときのぼくでも、それが嘘だってわかりました」
「…………」
「でも、わかったところでどうしようもないですから」
 勲くんの口調はとても冷静だった。小学生がこんなふうに話ができるということに、わたしは少し驚いた。ふつうの十二歳は、このように自分の内面を語る語彙を持つものだろうか? 感心するとともに少し痛ましいような感覚を抱いた。
 だから、「勲くんはすごいんだね」といいかけて、わたしは言葉を飲み込んだ。彼の目が感想を拒絶しているように見えたからだ。
 用水路にかけられた橋を渡る。水の上に苔むした石が顔をのぞかせている。水路の脇にはサルビアが植わっている。
 わたしは勲くんの手をとった。勲くんは少し身体をこわばらせたが、手を引かれることを拒みはしなかった。
 勲くんの手は、あたたかく、やわらかかった。
 橋を渡るあいだだけ、わたしたちは手をつないだ。

         *

 母屋に戻ってみたが、居間には誰もいなかった。台所の祖母に声をかけると、父は近くに住む伯父の家に挨拶に行ったという。祖母は食事の支度ができるまで家の中で遊んでいなさいといった。
「遊べっていわれてもなあ」
 どうも祖母はわたしを子供扱いするきらいがある。
 手持ちぶさただ。わたしは自分たちの荷物を置いた客間に戻ろうとした。
 ふと見ると、勲くんの姿がない。先に客間に戻ったのかと思ったが、そこにもいない。
「勲くん……?」
 祖父母の家は古い建物と増築した部分とがつながっている。客間は増築された側にあった。勲くんは反対方向へ行く廊下を進んでしまったのだろうと思い、わたしはそちらへと足を向けた。
 廊下を曲がった突き当たりに、棚を支える両脇の板からほぞが飛び出した、いまどき見かけない形をした飴色の棚があった。棚には広口瓶が並んでいる。勲くんはその棚の前に立っていた。
「勲くん、どうしたの? なにかあった?」
「これ、なに?」
 勲くんが指をさした茶色の広口瓶には黄ばんだラベルが貼ってあり、厳めしい文字で斑猫、と書かれている。なんのことだろう。わたしにはその字は読めない。瓶にはひからびて黒くなった桃の種のようなものが入っている。
「なんだろうね?」
 手に持って光に透かすと、桃の種などではなく、それが足をもぎとられた虫であることがわかった。虫は鈍く光ったように思えた。
「おまえたち、ここで遊んでいたら駄目だぞ」
 わたしたちの声を聞きつけたのか、祖父が姿を見せた。
「ねえ、これ、なに?」わたしが訊く。
「漢方薬だよ」
 わたしは手に持っていた瓶を祖父に手渡し、「それは?」とたずねた。祖父は瓶を棚のもとあった場所にそっと置く。
「ハンミョウだ」
 祖父がいった。
 いわれてみれば金属的な光沢が失われていたし、あの、特徴的なまだら模様もくすんでしまってはいたが、間違いなく昼間見たハンミョウだ。
「これはな、ハンミョウを酢につけてから硫黄を燃やしたガスにさらして、天日で乾燥させたものだ」
「見てもいい?」
 瓶に手を伸ばそうとしたわたしに祖父は、
「いいけど、中の虫にさわったら駄目だぞ。毒があるから」
「毒?」
「そうだ。ハンミョウの身体には毒がある」
「毒なんてなんにするの?」
「薬はぜんぶ毒なんだ。薄めたりして少しだけ使うと薬になる。うかつにさわったら手がかぶれるし、ましてや一度にたくさん飲んだりしたら、とんでもないことになる」
「なんの薬ですか、これ」勲くんが訊く。
「腎臓の病気にも効くし、媚薬にもなるな」
「そうなんですか」
 祖父はやましさや照れのかけらもない顔だった。小学生に媚薬もないだろう。
「さあ、もういいだろう。中には危ないものもある。おまえたちは戻りなさい」
 祖父は軽く手を振って、自室へと戻っていった。
「さっき、さわっちゃ駄目っていったのは、毒があるからなんですね」
 勲くんはなにやら納得したという顔だ。
「…………」
 おかしい。ハンミョウが漢方薬に用いられるものだと、わたしはいま初めて知った。毒があるとは知らなかったのに、なぜわたしは勲くんにさわってはいけない、などといったのだろうか。
 あり得るとすれば、過去に祖父母からなにかの折りに「ハンミョウには毒がある」と教えられたが、そのことを完全に忘れてしまっているという場合だろう。ただしかすかに記憶は残っており、とっさにそれが頭をよぎったのだ。
「どうかしましたか?」
 勲くんが怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「……なんでもない。さあ、戻ろうか」
 なにかが気に掛かってはいたが、わたしはその思いを振り払った。

         3

 夕食は味の薄い鮭のフライと鶏肉の塩焼き、それから、芋とゴボウとにんじんを甘辛く煮付けたものが出た。それぞれが大皿に、馬鹿みたいに大量に盛られていた。デザートは枝豆を甘く煮たものだった。
 祖母は勲くんに「おかわりはいるかい?」と、食事中に三度も訊いた。はじめと二度目は首を振ったが、三度目に勲くんはあいた茶碗を差し出した。
 風呂に入ったあとは、やることがない。祖父母とテレビを見るのも気まずいだけだ。勲くんは居心地悪そうにしている。少し早いが、「勲くんも疲れているみたいだし」とことわって、客間に行こうとした。
 祖父が父を手招きして、「あれを持って行け」と、居間の隅にたたんでおいてあった蚊帳を指さした。
「なんですか?」勲くんはピンとこないようだ。
「蚊帳だよ。昔はこういうものを使ったんだ。客間には網戸がないからね。これをつり下げてその中に寝ると、蚊に刺されなくてすむ。絹製だぞ」
「初めて見ました」
「そうだろう」祖父はどこか自慢げに笑い、父に向かって、「じゃあ、任せたぞ。おれもおまえが寝るときにはこれをつるしたものさ」
 それから布団を敷き、鴨居に打ち付けられた釘に蚊帳をつるした。父と二人で大きな蚊帳をつるすのは思った以上に手間で、風呂に入って間もないというのにわたしは汗をかいてしまった。
「ちょっと窓あけるね」
 たてつけの悪い窓をあけると、虫の声が聞こえる庭に月明かりが落ちていた。夜風が頬をなでた。
「明日になったら、あの朝顔が咲くよ」わたしは庭の朝顔のつぼみを指さす。
 すると蚊取線香に火をつけようとしていた父が、
「あれは朝鮮朝顔だ。朝顔じゃない」
「朝顔の仲間でしょ」
「違うよ。花の形は似ているけれど、朝顔みたいにツルじゃなくて、茎が真っ直ぐに伸びているだろう。朝鮮朝顔は気違い茄子というくらいで、茄子科の植物だから」
「気違い茄子ってすごいね。放送禁止よ、それ」
「猛毒だよ。へたをすれば幻覚を見る。麻酔薬にも使う」
「どうしてそんな危ないものが植わっているんですか」
 勲くんが訊く。
「昔、うちは養蚕農家だった。養蚕はわかるかな? うちの家が妙に大きいのは、蚕を育てていたからだ。蚕は繭を作る。この繭から絹糸がとれる。うちはそうやって、繭を工場に出荷していたんだ。そんなわけで、けっこう人も使っていたようだ」
「そうなんですね」
「出入りする人の数が多いし、彼らは時には病気になった。医者は遠くの村にしかいない。それで、祖父の出番だ。祖父は――」父はわたしに向かって、「おまえのひいおじいちゃんは、もぐりの漢方医だったんだよ。知恵と経験で、村の人々のために薬草を煎じていたんだ。厳密には法律違反なんだと思うが、昔はよくあることだった。昼間に会ったあの人だって、馬に塗り薬を使っていただろう」
 なるほど、あの棚の中にぎっしりと詰まっていた漢方薬の瓶はなにかと思ったが、そういうことだったか。
「この坪庭にあるのは、そのころの名残の薬草だ」
「坪庭」
「表側じゃなくて、塀で囲った方の庭を坪庭っていうんだよ。ここにあるのはぜんぶ薬草だ。西洋ツツジ、イカリソウ、キョウチクトウ、ホウセンカ――みんな漢方の材料だ。毒でもあるから、馬や牛が食べたら中毒を起こす。それで、塀で囲ってある」
 勲くんは感心したような顔で聞いている。わたしも父の意外な面を知った思いだった。
 わたしだってそこまで父がきらいなわけじゃない。どちらかというと、父の方でわたしを避けていたのだ。
 母の死後、父はわたしを甘やかし、ほったらかしにしていた。わたしに自由になる金を渡し、帰宅はいつも深夜。仕事が忙しかったというのもあるだろうが、実際のところは、ひとりで思春期の娘を育てることに自信のない父が、そこから目をそむけつづけてきたようなものだ。
「おまえを苦労させたくないんだ」というのが口癖ではあった。だから仕事に精を出すと。
 確かに金銭的な苦労をわたしはしていない。そのことが父の負い目に対するなんらかのなぐさめにはなっただろうか。
 そんな暮らしでよくそこそこねじ曲がらずに育ったものだと、我ながら思う。ひねくれたといっても、この程度なら上等の部類だ。
 父は無趣味な人間だった。たまの休日はというと、ひたすら寝ていた。父がどんな子供時代を過ごしたか、父にも青春というものがあったのか、なにが好きで、なにを愛し、なにを許せないと思い、どんな悲しみを経験してきたのか、わたしは知らない。
 そんな父が薬用植物の知識を披露するのは、妙に子供っぽく思えた。
「父さんにそんな知識があるなんて初めて知った」
 わたしの口元は、少しゆるんでいたかもしれない。
 ところが――
 父の顔は、明らかにおかしかった。驚いたような、とまどったような、なんとも形容しがたい表情だ。あけはなした窓から虫の音が響く。あたりが奇妙に静まりかえったように思えた。
「そうか。覚えてはいないのか」
 父はそうつぶやいた。
「なにが?」
「いや……なんでもない。じゃあ、もうそろそろお休み」
 居間に戻る父を見送った。なんとも釈然としないものが胸に残った。

         *

 電気を消してしばらくは布団の中でスマホをいじっていたが、驚くほどにつながらない。
 わたしが使っているのはバベッジ社というアメリカの会社のスマホ、それも中古のSIMフリー端末である。これに同じくバベッジ社のSIMを入れている。理由はもちろん安いからだ。高校に入ってからは父の買ってくれたスマホは解約し、端末代金も通信費も自分のバイトでまかなっている。まあ要するに意地だ。
 日本のキャリアが販売しているものは都心部以外でもつながりやすい設定が組み込まれているが、わたしのスマホはそんな便利に調整されてはいない。友人に短いメールを送るくらいのことはできたが、ちょっと重いサイトにつなごうとすると、いつまで経っても読み込み中のままである。うちの田舎をなめていた。
 わたしはあきらめてスマホを枕の脇に置いた。そのころには勲くんはとうに寝息を立てていた。
 自分でも思っていた以上に疲れていたらしく、わたしもやがて眠りに落ちた。
 寝入ってからどれくらい経ったのか、わたしはなにか大きく耳障りな音で目を覚ました。その音が誰かの悲鳴だと気づいたのは、覚醒して数秒のちのことだった。
 飛び起きると、盛り上がった布団が月明かりに見て取れた。ひーっとか、うーっという、うなり声とも泣き声ともつかない声がそこから響いている。
「勲くん?」
 呼びかけ、その肩に手をふれてみたが、返事はない。悲鳴の主は足で布団を蹴飛ばし、身をよじってわたしの手から逃れた。
「怖い夢でも見たの? なんでもないよ。だいじょうぶだから」
 聞こえてはいないらしい。単なる寝言にしては、あまりに声が大きく、激しすぎた。夢遊病みたいなものだろうか。
 廊下の灯りがともされ、ふすまのあいだから光が差し込んだかと思うと、父と祖母のあいだで交わされているらしい短いやりとりがかすかに聞こえた。すぐにふすまが小さくひらかれ、父が顔をのぞかせた。ほんの少し、お酒のにおいがした。
「すまなかった。勲くんのことは知っていたんだが」
「そうなの? 平気なの?」
「あとで話す」
 父はふすまを閉めた。祖母の声がした。
「だいじょうぶなのかい、あの子」
「本当になんでもないんだ、母さん」
「なんでもなくはないよ。あんな、隣の家まで聞こえるような大声をあげて」
「寂しいんだ。あの歳で父親を亡くしているんだよ。それでたまに悪夢を見るんだ」
「だって、あれが跡取り息子になるってことだろう。血もつながっていないっていうのに」
「母さん、やめてくれよ」
「聞こえやしないよ」
「聞こえるよ。母さんの声は大きいから」
 いやな話を聞いてしまった。
 どうにも眠れそうになく、わたしはしばらく暗闇の中でつり下げられた蚊帳を眺めて過ごした。
 どのくらいの時間が過ぎたか、しばらくしてもういちど、ふすまがひらかれた。わたしは寝たふりをした。
「起きているかい」
 父がささやくような声でいった。わたしは夜の闇の中、身体を起こした。
「起きてるけど」
「ちょっと、いいかな」
 傍らの勲くんを見ると、もう寝息を立てていた。頬には涙の筋ができていた。
「ひとりで置いておいて、平気かな」
「たぶん。今度は本当に眠っただろうから」
「じゃあ、まあ、いいよ」
「外に出よう。いやか?」
「べつに」
 父にしても、祖父や祖母には聞かれたくない話なのだろう。
「着替えるから、ちょっと待って」
 一晩だけだからというのでパジャマは持参しておらず、Tシャツに短パンだ。外に出ると冷えるかもと思い、ジーンズに履き替えた。
 客間の脇の雨戸をあけて、父は縁側から外に出た。わたしもそこにあったつっかけに足を入れ、庭に下りる。
「勲くんのお父さんが職場で倒れて亡くなったとき、あの子はまだ小学校一年生だった。一年生の子供に〈死〉を受け入れることは難しい。勲くんは、周囲の雰囲気からなにか不安を感じたんだろう。泣きながら、起きて、起きてといいつづけた」
「それで、いまは疲れて眠っているだけ、あなたが大きくなったら起きるのよと、母親はいい聞かせたってわけ」
「本人から聞いたのか?」父が目を丸くする。
「そう。でも、さすがに一年生でも、それは嘘だってわかっていたって」
「そうか」
「で?」
「医者の話だと、それが勲くんの心に深く刻み込まれたらしい。眠ってしまってはお父さんのようになると」
「そんなの変じゃない。どこかで話がねじ曲がっている」
「おれにもよくわからない。けれど、そうだとしかいえないらしい。人の無意識の思い込みというのは、相当に根深いようだ」
「それで悪夢を見るの?」
「違う。あれは演技だ。騒いだとき、あの子は眠ってはいなかったよ。本当に寝たのは、おまえが起きてからだ」
「え?」
 わたしは眉をひそめた。
「ああやって、隣にいる人を起こすのさ。佐伯さんもそれで時々、さっきみたいに起こされる」
「よくわかんない。どういうこと?」
「心の傷ついた子供は、ほとんど無意識に、強迫観念みたいにして自分が受けた傷を繰り返す。彼にとってあれは遊びだ。悪質な遊びだ。でも、自分ではやめられない。叱ってやめさせても、きっとべつの形でその強迫観念は外に出てくる。佐伯さんは、そういうふうに医者にいわれたそうだよ」
「でも……そんなことしてなんになるの?」
「おまえも疲れていたんだろう、すぐ寝付いたんじゃないのか?」
「そうだけど」
「怖かったんだよ。おまえが自分より先に眠ってしまうのが。だって、おまえも勲くんのお父さんのように、もう起きないかもしれないだろう?」
「…………」
「環境が変わると、どうしてもな」
 こうなる可能性を予期していたのであれば、泊まりの計画は避けるべきだった。父は正直であろうとしたのだろうが、祖父母にこの事実を伝える必要だってなかった。昔から変わらない、父の駄目なところだ。
「わかった上で、受け入れてくれないか。頼む」
 父が頭を下げた。
「そんなこといわれても……」
 わたしはつぶやき、足下に目を落とす。

         4

 勲くんの寝顔を見ながら、わたしは考えていた。
 この子と自分はうまくやっていけるのだろうか?
 大人びた、物わかりのいい、賢い子だと思っていた。だが、子供にとって親を失うということが、そうそう割り切れるはずがないのだ。
 たぶん、わたしも同じだ。
 父は、母の身体があたたかいのはこれが最後だから、手や頬にふれろといった。勲くんはそんな父を「いい人」と評する。
 父にしてみれば、母の死をしっかりと受け止めろという意味だったのだろう。だが、幼いわたしが納得できたかどうかはべつだ。勲くんではないが、無意識の思い込みで母の死をねじ曲げて受け止めてしまったのではないか。
 そうして、父を憎んだのではないか。
 だってそうだろう。母親を失った驚きと苦しみをどうすればいいというのだ。父にぶつける以外に方法がないではないか。
 わたしは時々、母の頬の手触りを思い出す。
 いくぶんひやりとして、張りを失ってぐにゃりとした頬。できるなら母の最後の記憶があんなものであってほしくはなかった。母の身体があたたかくやわらかかったころの思い出があればそれでよかった。
 父はわたしの憎しみにどこまで気づいていたのだろう。父がわたしを避けていたのは、思春期の娘を扱いかねていたからではなく、わたしの憎しみと距離を置いていたからかもしれない。
 かすかに記憶に残っている、父に対する憎しみ。なんと理不尽な憎しみ。しかし、わたしがいったいどんなふうにして父に感情をぶつけたのか、どんなひどい言葉を投げたのか、まるで記憶に残ってはいない。
 きっと、父にはいまもその棘が刺さりつづけているだろう。
「悪いことしたな」
 我知らずそうつぶやいて、寝返りを打った。蚊帳ごしに、蚊取線香を倒してしまう。灰が散らばった。
「あっ、やば」
 わたしはごそごそと蚊帳から這い出て、灰をかき集め、倒れた蚊取線香をもとのように戻そうとした。蚊取線香のにおいがつんと鼻をつく。手が灰で白くなる。
 その瞬間だった。本当に突然、それはおとずれた。
「……思い出した」
 思い出してしまった。わたしが父にぶつけた言葉。

〈お母さんを殺したのは誰? お父さん?〉

「うわあ。……いっちゃったよ」
 まざまざとその記憶がよみがえる。
 母の葬儀を終え、わたしたちはこの家をおとずれていた。そのとき、なぜそんなことをしていたのか――。父は、あの棚の漢方薬を整理していたのだ。
 おそらくは祖父母の手伝いだろう。きっとたいした理由はなかったはずだ。しかしわたしはその姿を見て、戦慄を覚えた。
 薄暗い廊下に差し込む陽の光。埃をかぶった薬草の瓶。ふたがあけられ、線香のような薬臭いにおいがあたりにこぼれていた。新聞紙の上に、黒く焦げた桃の種のような、ハンミョウの死体が載せられていた。

〈ハンミョウの毒を使って、お母さんを殺したの? おばあちゃんがやったの? それとも、お父さんが?〉

 思い出した。確かにわたしはそういった。
「……なんであんなこといったかなあ」
 娘にそんなふうにいわれてしまった父親の気持ちというものが、ほんの少しかもしれないが、いまはわかる。わたしはもう十歳の少女ではない。
 しかし、記憶のどこかにまだ腑に落ちない点があった。
 わたしはスマホを取りだし、思いついた検索キーワードを打ち込んだ。駄目だ。「読み込み中」表示のままで、画面に変化がない。
「……まだ起きてるんですか? なにかあったんですか?」
 勲くんの声。どうやら起こしてしまったらしい。
「ううん、なんでもない。ごめんね」
「ぼく、もともと眠りが浅いんで。気にしないでください」
「眠れそう?」
 勲くんは首を横に振った。
 わたしは少し考えて、いった。
「じゃあ、お姉さんといっしょに、夜の散歩に行こうか」

         *

「思い出しちゃってさ」
 わたしたちは薬草が植わっている坪庭の扉をあけ、外へ出た。夕方とは比べものにならないくらいに虫の声がする。ちょっとぞっとするほどだ。
 農道を抜ける道だ。街灯があるわけではなかったからあたりは真っ暗なのだが、月明かりがわたしたちを導いてくれた。
「わたし、お母さんが死んだあと、それをちゃんと受け止めることなんて、とてもできなかったらしいんだよね。まだ十歳だったしさ。で、いま思えばひどい話なんだけど、お父さんに、お母さんを殺したのはお父さんでしょうっていったのよ」
「…………」
「だってさ、お母さんが死んじゃったんだよ。突然、わたしの前からいなくなって、そんなの、はいそうですか仕方ないですね、なんていえるわけがない。だったら、とにかく目の前にいる人を憎むしかないじゃない」
「でも、殺したなんて……」
「発想が突飛すぎる?」
「はい」
「これにはいろいろと伏線があるんだけど。おばあちゃんはあの通りの人で、いっつも一言多いわけ。はっきりいってちょっと無神経なところがあって、小さかったわたしにはとにかくお母さんにいやみをいう人に見えていた」
 小さな水路の橋を渡り、駅の方へと向かって歩いていく。カエルの合唱が聞こえる。
「で、ある日おばあちゃんは、跡取り息子はいったいいつできるの、っていったのよ。田舎だとね、男の子が家を継ぐ立場だから。そういう意識が抜けないの。それから、こんないやみもいった。下品な冗談っていってもいいかな。ハンミョウでも飲んだらどうだいって」
「ハンミョウ……」
「そう。ハンミョウ。昼間、聞いたでしょう。ハンミョウは腎臓の病気にも効くし、媚薬にもなるって。媚薬、わかるでしょ。だっておじいちゃんがそういったとき、勲くんは媚薬ってなにって聞き返さないで、『そうなんですか』って答えた。たぶん、媚薬がなにか知ってるんじゃない?」
「なんとなくは」
 少し口ごもるようにして、勲くんは答えた。
「でも、当時のわたしには、そんな知識はなかった。わたしが知っていたのは、ハンミョウは毒だってことだけ。きょうと同じようにして、お父さんか、おじいちゃんに聞いたんだと思う。だからわたしは、おばあちゃんがお母さんに、跡取り息子を産めない嫁なんて毒を飲んで死んでしまえっていったんだと受け止めた。もう覚えていないけど、たぶん会話に割り込んで、おばあちゃんやめてとか、ひどいこといわないでとか、そういうふうにいったんじゃないかな。お母さんも気まずかったんだと思う。お母さんには、あとから大人の話に口を挟んだことについて怒られた」
 勲くんは少し考えるような表情のまま足を進めていたが、
「思い込むのはともかく、お父さんがそれを実行したというのは無理がありすぎです」
「そうね。無理すぎ。でもわたしはそう思ったの。心の傷ついた子供は、ほとんど無意識に、強迫観念みたいにして自分が受けた傷を繰り返す。母さんが死んだという事実を、話をねじ曲げて、自分の中で繰り返す。何度でも。――もちろんおかしいことよ。でも、自分ではやめられない」
 安全な場所で傷を再現すれば、そのうち慣れることができる。そういうことだろう。
「蚊帳をつるしたとき、お父さんが薬草の話をしたでしょう。薬草の知識を持ってるなんて意外だってわたしがいったあと、お父さんがなんて返したか聞いてた?」
「覚えてはいないのか、って……」
「棚の薬を使ってお母さんを殺したってなじったことをわたしが忘れているのが、意外だったんだと思う」
 父はずっと、傷つきつづけてきたのだ。
「ぜんぜん覚えていなかったの?」
 わたしはうなずき、
「昼間、道ばたで見たハンミョウを勲くんがさわろうとしたとき、駄目っていった理由は自分でもわからなかった。昼におじいちゃんがハンミョウのことをいっていたときも、初めて聞いたって思った。なんでかな。母さんのこと、意外と早く耐えられるようになったのか、それとも、自分の罪から逃げようとして、記憶の底に沈めていたのか、どっちかじゃないかな。ひどいことしたな」
 道はつづく。駅へとつづく。うしろを振り返ると、家はもうずいぶん遠くなっていた。そろそろ、昼間、馬を見た場所に近い。
「そんなの」勲くんは泣きそうな顔をしている。「仕方ないじゃないですか。そこまで子供が責任を負わなきゃいけないんですか? 大人に気を遣わなきゃならないんですか?」
「あのころのわたしには無理。でも、いまは違う。ちょっと失敗したなって感じ」
 スマホを取りだした。液晶画面に光がともる。「ちょっと待ってね」と、検索して、ざっと読む。
 思わず立ち止まり、目をつむった。黙って首を振った。それから、
「わたしさ、ヒマなとき、よくウィキペディア見ているの。わかる? ウィキペディア。家だとなかなかつながらなかったんだけど、やっとつながった。実は、それでいままで駅の方へ向かってたんだよね」
「なんです?」
「これ見て」
「ハンミョウ」の項目だ。身体に光沢のあるまだら模様を持つ虫で、人の前を跳ぶことからみちしるべ、みちおしえなどの名でも呼ばれるといったことが書かれている。
「……これがなに?」
「毒についてどこにも書いていないよね?」
「そうだけど……」
 わたしはべつのサイトを示してみせた。百科事典の引用が載っている。
「漢方の斑猫に含まれるカンタリジンは強い毒で、致死量は約三十ミリグラムだって。ここ読んで」
「〈漢方薬の斑猫として保存されているものの中には、無毒のハンミョウが混じっていることもあるという〉――どういうこと?」
「わたしもさっき知った。毒を含むのはツチハンミョウ科の虫で、ハンミョウとは別種。ハンミョウ科の昆虫に毒はないの」
 わたしはさらに、ツチハンミョウの仲間に関する検索結果を見せた。身体の大きさも、丸っこさも、触覚の形も違うし、ハンミョウのような金属色の斑紋もない。ただのずんぐりした、真っ黒い虫である。
「本当の薬はこっちの黒い虫。なんか、江戸時代に伝えられた漢方の本を日本語に訳した際に間違って、それで、かなり広く混同されたみたい。うちでも、ずうっと間違ったままだったんじゃないかな」
「お父さんは、ハンミョウに毒がないことは知らないのかな」
「さあ? わかんない。でも、これだけは事実。あのみちしるべに、実際は、毒なんかないのよ」
「うん」
 わたしたちはあやまったみちしるべのせいで、道に迷ってしまったのだ。きっと。
「誤解なの。ちょっとした、間違い」
 勲くんはわたしの少し先まで歩き、そこで足を止めて振り返った。なにかいおうとしている様子だったが、そのまましばらく時間が過ぎた。
「勲くんのお母さんは、勲くんに嘘をついたよね」
「…………」
「でも、いまの勲くんは、もうそれが嘘だってわかってる」
 わたしは息を吐き、勲くんに並んだ。勲くんが、小さな声を漏らした。
「あのころからわかってた」
「そうだったね。いい直す。いまの勲くんは、どうしてお母さんがそんな嘘をついたかだってわかってる。そうでしょう?」
「だって、……無理だよ」
 勲くんは目尻に涙をためていた。わたしは思う。きっと、祖母が勲くんについて失礼なことをいったとき、この子は起きていたんだ。自分がやっていることも、ぜんぶわかっているんだ。
 でも、そんなの、勲くんのせいじゃない。いまはまだ、もっとふつうに、泣いてもいい年頃だ。
「いまはね。でも、だいじょうぶ。いつか元気になれる」
「そうかな」
「そうに決まってる」
「許してくれる?」
「当たり前。さあ、もう帰ろう。日付変わっちゃってるよ。きょうは勲くんのお母さんが来るんでしょう。そのときは、またこの道を歩かなきゃ」
 勲くんは目尻の涙をふいて、
「往復が面倒だけど、まあ、仕方ないか」
「そうね。お父さんと勲くんとわたしで、お母さんを迎えに、またこの道を歩こう」
「あ」
 わたしと勲くんが家に向かって歩き出そうとした、そのときだった。草むらから一匹の虫が出てきて、わたしたちの目の前に着地した。月明かりに、金属のような艶をたたえたまだら模様が輝いている。
 勲くんがその虫に向かって手を伸ばし、足を進めた。
「待って。駄目!」
「どうして? 毒はないっていってたじゃん」
 わたしは手に持ったスマホを勲くんに向けてひらひらさせた。
「ウィキペディアにつづきが書いてあるわ。〈ハンミョウ科の昆虫には、実際は毒はない。ただし大顎で噛まれるとかなり痛いので、注意しなければならないことに変わりはない〉」
「じゃあ」勲くんは笑った。「やめておくよ」

(了)


【参考文献】
奥本大三郎「ハンミョウ――ハンミョウと人間」(1998).『世界大百科事典』平凡社
河合隼雄 日本臨床心理士会 日本心理臨床学会(1995).『心を蘇らせる こころの傷を癒すこれからの災害カウンセリング』講談社
中根晃・牛島定信・村瀬嘉代子(2008).『詳解 子どもと思春期の精神医学』金剛出版
松下正明(総編集)(1998).『臨床精神医学講座 第11巻 児童青年期精神障害』中山書店
山崎幹夫・中嶋暉躬・伏谷伸宏(1985).『天然の毒 毒草・毒虫・毒魚』講談社
ルーシー・W・クラウセン 小西正泰・小西正建(訳)(1993).『昆虫のフォークロア』博品社
「ハンミョウ科」(2019年4月11日 (木) 16:22 UTC)『ウィキペディア日本語版』URL: https://ja.wikipedia.org


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?