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深津十一「不一致」

 人を殺したい。
 でも殺したい人がいない。

 中二の秋に夢を見た。
 夢の中で私は、友人のK君と二人きりで中学校の裏山で遊んでいた。そこは見晴らしのよい高台のような場所で、頂上近くに一本の立派な松の木があった。その枝振りの感じから、かなり上の方まで登れそうな気がした。K君にそう言うと、「ほんとだ」と目を輝かせた。K君は当然のように私を押しのけ、松の木に駆け寄った。ごつごつとした幹は手や足をかける場所があちこちにあったが、K君は私に肩車を命じ、やすやすと一本目の枝に手をかけ、ぐいと体を引き上げた。私はK君が二本目の枝に手を伸ばしたのを確認してから後に続いた。
 二人は無言のまま上を目指した。K君の手が松のてっぺん近くの細い枝に届いたのが見えたとき、K君の靴底から剥がれた泥が上を向いていた私の口の中に落ちてきた。舌の上に広がるじゃりじゃりとした感触に、私の内部で何かが弾けた。
 うっとうしいんだよ!
 左手が上に伸び、K君の足首をつかむと、力任せに下へと引いた。
 パキリという乾いた音。
「あっ」という短い叫び声。
 目の前を通過する重量感のある物体。
 その後を追うように降り注ぐ大量の松葉。
 そして静寂。
 私は幹にまわした右腕に力を込めなおし、首から上だけをそっと動かして足元を見下ろした。K君は仰向けの姿勢で松の根元に横たわり、驚きの表情を顔に張り付かせたまま私を見上げていた。その視線は私を突き抜け遙か上空を目指しているようでもあり、すぐ目の前の虚空を見ているようでもあった。
 K君の頭を中心に、赤い染みがゆっくりと広がり始めた。その赤を見て、それまで私が見ていた景色がモノクロームであったことに気づいた。
 松葉をざわめかせ秋の風が吹き抜けていく。
 長い空白の時間が過ぎた。いつまで経ってもK君の顔から驚きの表情は消えず、その目が閉じられることもなかった。
 死んでいるんだ。
 ひやりとした戦慄が背骨を駆け上がり、全身の皮膚の下をむず痒いものが這い回った。そのあとから感情が追いついてきた。取り返しのつかないことをしてしまったという恐怖とともに、なぜか甘く切ない高ぶりが胸の奥で疼いていた。
 その一方で物足りなさもあった。
 私はK君の命を奪ったが、そこに明確な殺意はなかった。瞬間的に感情が爆発しただけで、気がつけばK君は死んでいた。
 もし初めから殺意を持ってK君の足を引いていたなら、木に登り始める時点で殺すつもりだったとしたら、もっと突き抜けた感覚が得られたかもしれない。それっていったいどんな感じなのだろう。
 ああ。
 もどかしさに思わず声が出て――目が覚めた。
 そこには代わり映えのしない日常があった。いや夢を見る前よりも一層色褪せてしまっていた。
 退屈な日々の中で私は熱望した。
 もう一度、人を殺す夢を見たい。今度は殺意を持って殺したい。
 毎晩、眠りにつく前に、布団の中でK君のことを思い浮かべた。K君は無神経で自分勝手なやつだった。いつも人のことを見下して、強引で、声が大きくて――
 でも、二度と夢に出てくることはなかった。
 高校受験、大学受験、そして就職活動。
 人生の節目といわれる経験に私はなんの感慨を覚えることもなく、起伏のない退屈な日々が延々と続いていた。それ故、もう一度人を殺す夢を見たいという思いは、渇望という極限の欲求にまで成長を遂げた。にもかかわらず、望む夢を見ることはできないままだった。
 なぜ人を殺す夢を見ることができないのか。
 考え続けて、私なりの結論が出た。私には人を殺したいという願望はあるが、その対象となる人、つまり殺したいと思う人がいないのだ。K君のことは大嫌いだったが、殺したいと思うまでには至らなかった。夢にまで見るという言葉があるように、「大嫌い」程度では足りないのだろう。もっと切羽詰まった、全身が震えるような強い思いがなければだめなのだ。幸いなのか生憎なのか、これまでの私の人生には、夢に見るほどに殺してやりたいと思う対象が存在しなかったのである。

 夢が駄目なら現実の世界で人を殺せばよい。
 この発想の転換に十年と三ヶ月を必要としたが、思いついてみれば、簡単なことだった。
 リアルな夢も現実の世界も、私という主観からすれば等価である。夢とは受動的でコントロールが困難な世界だが、現実の世界では自分の意志で能動的に行動できる。「殺そう」と思えば明日にでも、いや今すぐにでも人を殺せるのだ。そしてその対象は殺したいと思うほどに悪いやつである必要はない。物理的に殺せるかどうかが問題なのである。殺意とは「憎しみ」や「怒り」といった感情ではなく、「殺そう」という意志のことなのだ。
 夢で人を殺すことを諦めた私は、現実の世界で対象を探すことにした。

   ◇ ◇ ◇

 十一月二十五日金曜日の朝、平井富夫が通勤用の鞄を片手に玄関を出ようとしたとき、妻の郁子が台所から声をかけた。
「トミさん、悪いけどゴミを出してくれる」
「ああいいよ。裏のやつだな」
 家の裏手に回ると、勝手口の脇に半透明のゴミ袋が一つ置かれていた。平井が袋を持ち上げると、中でガチャリと音がした。
「郁子っ、ちょっとこい」
「どうしたの」
 平井の呼びかけに郁子はのんびりとした口調で応え、勝手口のドアから顔をのぞかせた。
「ゴミ袋の中に割れ物が入ってるぞ」
「ああそれね、昨日お茶碗割っちゃったの。内緒にしとこうかと思ったけどばれちゃったわね」
「ちがう、そういうこと言ってるんじゃない。割れ物と普通のゴミは一緒に出しちゃだめなんだって。確か先月も同じこと言ったはずだ」
「でも、それちっちゃいし、一つくらいならいいんじゃないの」
 この瞬間に平井は耳の奥がカッと熱くなるのを感じた。
「だめだ! 何で当たり前の決め事を守らないんだ。みんながそうやって、私ぐらい、少しぐらいって気持ちでいるから――」
「はいはい、わかりました。ごめんなさい。朝からそんなところで大きな声出さないでよ。ご近所にまる聞こえじゃない」
「だったらどうして最初からきちんとやらない。ちゃんと分別し直して出しておけよ」
 平井は大げさなため息をつき、ゴミ袋を郁子の手に押しつけた。

 昼休み、会社近くの定食屋で、注文した焼き魚定食を待ちながら、平井は今朝の出来事を思い返していた。客観的には郁子に非があるだろう。だが、あの程度のことで声を荒げてしまう自分の狭量さに気持ちが沈んだ。
 平井は現在三十二歳。二つ年下の郁子と結婚して四年になる。子どもはいない。仕事は中堅の食品メーカーの経理担当で、日常生活にこれといった不満はない。ただ最近、郁子のちょっとした言動に苛立つことが多くなったと感じていた。平井は自分自身が几帳面すぎるということは自覚している。だからこそ、自分とは正反対の大らかな性格の郁子に惹かれ、一年の交際を経て結婚を決意したのだ。
 天真爛漫という言葉は郁子のためにあるんだと思っていた。何かといきり立つ神経が郁子の笑い声で癒された。なのに最近は――どうしてこんな風になってしまうのか。
 性格の不一致という言葉が頭を掠める。その先にある展開にまで想像が及びそうになり、平井は思わず頭を振った。とにかく、俺たち夫婦は今、良くない時期らしい。平井は一つため息をついた。
「お待たせしました」の声と同時に、まだ脂がぷちぷちと音を立てているサンマの塩焼きが目の前に置かれた。その左にはもうもうと湯気を上げる大盛りの飯、右には角の立った冷や奴、手前に油揚げとワカメのみそ汁。憂鬱な気分のままなのに、胃の奥から猛然と食欲が湧いてきた。平井は割りばしを丁寧に割り、先端をみそ汁に浸した。つやつやと輝く白飯に箸を突き立て、熱い一塊りを口の中に放り込む。続いてサンマの身をほぐし、みそ汁をすすり込み、冷や奴で口の中を冷やす。
 気がつくと十分足らずで昼食を終えていた。空腹が満たされると、先ほどまでの悲観的な気分が嘘のように拭い去られた。こういうところが、動物的に思われて、平井は自分自身が気に入らない。気に入らないが、救いでもある。
 気分が上向きになった平井は、今日が給料日であることを思い出した。
 このあと銀行で小遣いを下ろして、退社後は気分直しに古書店巡りでもするか。
 平井は帰宅途中にある駅前の古書店街を思い浮かべながら、伝票をつかんでレジへ向かった。

 いつもより一時間ほど遅い帰宅だったが、電話を入れていたため、食卓の上にはできたての料理が並んでいた。
 サンマの塩焼き、風呂吹き大根、ワカメと油揚げのみそ汁――
「ほら見て、このサンマ。こんなに大きくて脂がのってて、一匹二百円だったのよ。さあ、食べましょ」
 一瞬、言葉に詰まった。やはり、今は良くない時期なのだと平井は自分に言い聞かせ、頬を引きつらせながら郁子に笑いかけた。
「美味そうだな。じゃあ、いただきます」
「うん、いただきます」
 平井はスーツの上着を脱ぎ、ネクタイをはずしただけの服装で食卓についた。結婚当初、郁子はカッターシャツが汚れる、落ち着かないなど不満を漏らしていたが、平井は独身時代からの習慣を替える気はなかった。食事の後はすぐ風呂に入り、パジャマに着替える。食事の間のためだけに、部屋着に着替えるのは無駄である。平井の言い分に、郁子は納得していないようだったが、二ヶ月もすると諦めたようだった。
 一方、郁子の要望で、食事中はテレビをつけない。こちらは郁子が幼少時からの習慣だからと言って、一歩も譲らなかった。食事中は、家族の――子供のいない平井達にとっては夫婦の会話の時間であるということだった。今夜も早速、昼間に見たワイドショーの話題、節約の効果が出て先月の水道料金がかなり下がったことなど、郁子のおしゃべりは何の脈絡もなく続いた。どれも平井にとってはまるで興味のない話題ばかりで、適当な相づちを時折入れるだけだ。これでも「夫婦の会話」と言えるのかという疑問を覚えるが、郁子が満足しているのならあえて野暮なことは言うまいと、食事に意識を集中させた。
 それにしてもこのサンマ、昼の定食屋のものと比べても見劣りのしないサイズだが、あまり美味くない。プロと主婦の焼き加減が違うのか、それとも俺の精神状態のせいなのか。
 話を続ける郁子の姿を視界の隅に置き、平井は機械的に夕食を口に運び続けた。

「郁子っ、二階の押入にあった雑誌はどこにしまったんだ」
 夕食の後、階段を駆け下りた平井は、鼻歌を歌いながら洗い物をする郁子の背中に向かって、噛みつくように怒鳴った。
「あの古雑誌のこと?」
 振り向きもせずに答える態度が癪に触った。それ以上に、「古雑誌」という言葉に嫌な予感がした。
「二十冊くらいきちんとそろえて積み上げてあっただろ」
「そこのテーブルの上にあるでしょ」
 郁子が肩越しにあごで指した先には、ポケットティッシュが二つ重ねて置かれていた。
 まさか、冗談だろう?
 だが平井は知っている。郁子は悪ふざけの冗談は言わない。
「なんかねえ、新聞の方がお金になるんだって。一応雑誌も回収はするけどこれで勘弁してくださいってさ。トミさんそれ、会社行くとき持っていけばいいのよ。駅のトイレ、紙がないこと多いんでしょ」
「おい、郁子。こっち向け」
 平井は自分の声が震えているのをはっきりと感じた。
「何よ、忙しいのに」
 郁子は水を止め、エプロンで手を拭きながら振り向いた。
「あれだけ、俺の本を勝手にさわるなって言ってあったのを、忘れたのか」
「あら、いらない本じゃなかったの? でもね、大切な本ならさ、ちゃんと書棚があるんだからそこに仕舞ってくださいって、いつも言ってるでしょ。押入の中の、しかも古新聞の横に汚い雑誌が積み上げてあったら、誰だって廃品回収に出すやつだと思うわよ」
 平井は大声でわめき散らしたかった。だがそれでは母親に叱られた子供の反応と変わらない。安っぽいプライドが感情の爆発を一歩手前でふみとどまらせた。平井はゆっくりと一語ずつ区切った言葉を絞り出した。
「俺の趣味を、知らない奴が、そう言うのなら勘弁してやる。結婚して、四年も経って、そんな言い訳が、通用すると、思ってんのか」
「だから、そんなに大事にしているならもっときちんと整理しなさいよ。この前だって部屋の隅に置きっぱなしにしていた本の山からうじゃうじゃ虫がわいてきたじゃない。あれ、誰が後始末したと思ってるの? 人のこと責める前にまず自分がやることきちんとやってよね」
「問題をすり替えるな。お前は、あの雑誌を、俺が大事に集めている物だと知っていながら捨てたんだ。見せしめのつもりか? くそっ、やり方が陰険じゃないか」
「はいはい、ごめんなさい。今後一切あなたのお部屋には入りません」
 郁子は大げさにうんざりといった表情をつくって、再び洗い物に取りかかった。平井はテーブルの上に置かれた湯飲み茶碗を郁子の後頭部に投げつけそうになるのを必死にこらえた。奥歯がギチッという音を立てる。このまま郁子の背中を眺めていたらどうなるかわからない。平井はダイニングキッチンを出て、隣の居間に移った。照明は消したままでソファに腰を下ろし、膝の間に両手で抱えた頭を埋め込み、息を詰めて感情の嵐が去るのを待った。
「トミさん何やってんの。まだ怒ってんの? 子供じゃないんだからいい加減にしてよ。早く機嫌なおして、お風呂入ってね。冷めたら沸かし直すのによけいなガス代かかるんだから」
 郁子は顔だけを居間の中に突き出してそう言うと、階段を軋ませて二階へ上がって行った。

   ◇ ◇ ◇

 まずは殺す人――ターゲットを絞り込むことから始めようか。
 候補は多い方がいい。となれば、大勢の人が集まる場所へ出向くのが効率的だろう。
 私は仕事の帰りに、市内一の歓楽街がある駅で途中下車をした。夕刻の歓楽街には雑多な人間がひしめいていた。ネクタイの曲がったサラリーマン、気勢を上げる学生の集団、塾通いの小学生、デパートの紙袋を下げた老人。
 私は人波に身を投じ、流れに逆らわずに歩いてみた。この中に私に殺される人間がいるのだろうか。そう思うだけで全身に鳥肌が立つ。夢とは違う現実感がかえって私を夢見心地にさせる。
 現実の世界で人を殺せば、殺人罪という犯罪になる。殺人罪に対する最も重い刑罰は死刑である。死刑という刑罰には、犯罪の抑止効果という意味合いもあると聞く。
 しかし、世に殺人事件は溢れている。
 自分の死と引き替えになるかもしれない、というリスクがあるにもかかわらず、人は人を殺す。怨恨、痴情のもつれ、金銭のトラブルなどが動機になるらしい。
 怨恨? 痴情のもつれ? 金銭のトラブル? 私から見ればどれも非常に不純な動機である。人を殺さなくても、これらの問題を解決する方法が存在するからだ。
 人を殺したい。
 これこそが純粋な動機だ。人を殺したいという願望は、他の代償行為で満たされることはない。他者の命を奪うという究極の行為に取って代われるものなどこの世には存在しないからだ。
 ひゅうと音を立てて一陣の風が通りを走りぬけた。
 その冷たさで我に返り、どっと押し寄せる現実世界の濁流に再び呑み込まれる。
 耳にイヤフォンを突っ込み背中を丸めて歩くにきび面の若い男がいる。つないだ手をブランコのように振りながら笑い合うカップルがいる。歩道の脇に立ち止まり腕時計を確認している中年の男がいる。たくさんの人がいる。誰もこの瞬間、自分が殺されるかもしれないとは思っていないだろう。
 でも、今ここに殺意とナイフを持った人物が一人いれば、すぐにでも手近な人間を殺せるのだ。
 なんという無防備な社会。
 私の周りには、いつ殺されてもおかしくない人、人、人、人、人。
 でもこんなに大勢の人はいらないんだ。私にとって必要なのは一人だけ。
 そう、殺すのは一人でいいんだ。あの人でも、今の人でも、さっきの人でも――
 だめだだめだだめだ。
 こんなことをしていても見つからない。私は人混みを掻き分け、流れの外に出た。
 息が。酸素が。
 立ち眩みで体が右に傾いた。その時、背中に何かがぶつかってきた。振り返ると、男が一人、アスファルトの上に倒れていた。

   ◇ ◇ ◇

 胸の内で吹き荒れる激情は一向に収まらず、平井は頭を抱えたまま立ち上がると、居間の中をのしのしと歩き回った。だがその行動に沈静の効果はなかった。平井はスーツの上着に再び袖を通し玄関で靴を履いた。背後で郁子の声が聞こえたがかまわずに外へ出た。帰宅したときよりも、かなり気温が下がっている。夜目にも吐く息が白く、防寒着なしではいつまでも戸外にいられない。平井の足は自然と駅前の歓楽街の方へ向いた。シャッターの下りたビルとビルの隙間に『居酒屋 よたろう』という看板を見つけて、くすんだ赤地の暖簾をくぐり、曇ガラスのはまった格子戸をがらがらと開いた。
「いらっしゃい。奥へどうぞ」
 コの字型のカウンターだけの店内は、すでにほぼ満員で、左奥にあるトイレに近い席しか空いていなかった。平井は着ぶくれした客の背中と壁の間をすり抜けて、カウンターの端に陣取った。
「ビール」
「あいよ、ビールね」
 中瓶と濡れたガラスコップがトンと平井の前に並べて置かれた。平井はアクリル板越しに周囲を見渡し、ほとんどの客がおでんを食べていることを確認すると、「おでん、適当に見繕って」と声を掛け、冷えすぎたビールをコップに注いだ。
 ほどなく、大根、ちくわ、コンニャクが盛られた皿がきた。
 大型の換気扇が回ってはいたが、カウンターの中の厨房から沸き上がる湯気と、入り口の脇に置かれた石油ストーブによって、店内には蒸れた熱気が充満していた。体の芯まで冷え切った平井には心地よいぬくもりだった。時折客の出入りがあり、その都度吹き込む冷えた外気によって、厨房からの湯気が盛大に逆巻いた。
 平井は店内の様子をぼんやりと観察しながら、ビールを飲み続けた。注文をしたものの、おでんの皿に箸をつける気にはならず、初めは白く透き通っていた大根が縁の部分から濃い飴色に変わりはじめていた。
 今朝のゴミ出し、夕食のサンマ、大切なコレクションへの仕打ち。三つ出来事が延々と頭の中で再生され続け、テーブルの上に置かれた二つのポケットティッシュの映像が浮かぶ都度、感情の内圧が急カーブで上昇する。わざとらしくテーブルの上に置きやがって。舐めやがって。馬鹿にしやがって――
 大声で叫び出す寸前にコップの中身を一気に飲み干し、その冷たさで思考のループを無理矢理断ち切る。そうするうちに開けたビール瓶は三本となり、四本目を注文するときには言葉が少しもつれた。
 平井は結局おでんに一度も箸をつけず、四本目のビールもコップに一杯分を飲んだところで店を出た。
 店内で蓄えたぬくもりは、格子戸を後ろ手に閉めた次の瞬間に奪い去られた。同時に酔いも醒めたような気がしたが、体に巡っているアルコールが抜けたわけではなく、踏み出す一歩一歩がふわふわと頼りなかった。見上げた空に星はなかった。雲が出ているのか、自分の視力が曇っているのかさえわからない。
 俺はなんでこんなに酔っぱらってるんだよう。
 家に帰る気にはならなかった。だがこの薄着では長く屋外に入られない。でも、もう酒はいらない。
 今の平井には、行き場がなかった。
 肩に何かがぶつかった。すうっと、どこかへ引き込まれるような感覚の後で、左腕と腰に衝撃がきた。びくともしない固い何かが体の左側にあった。
「すいません、大丈夫ですか」
 遠くから頭の上に人の声が降ってきた。白っぽいスニーカーの先端がすぐ目の前に迫り、肩から背中に腕を回され強く引かれた。
 平井はようやく自分が転倒したということに気がついた。

   ◇ ◇ ◇

 男を抱き起こしてみると、強いアルコール臭がした。
「くそっ」だの「なめやがって」だの、悪態をつきながら立ち上がろうとする。
 もう一度、「大丈夫ですか」とたずねると、ようやくこちらに顔を向け、「ああ、すいません」と頭を下げた。ノーネクタイだがスーツは着ており、三十代半ばぐらいの神経質そうなサラリーマンに見える。因縁を吹っ掛けてくるような気配はなかった。ただの酔っぱらいだ。
 大した怪我もしていないようなので、軽く会釈をして、そのまま立ち去ろうとした。
「死んじまえ」
 私は反射的に振り向いた。
 酔っぱらいは電柱に寄りかかりながら、空を見上げていた。
「今、何とおっしゃいましたか」
 私は男のそばに駆け寄って声を掛けた。
「ん? なんだ」
「死ねという言葉が聞こえたように思ったのですが」
「ふん、言っちゃ悪いか。あんたのことじゃないよ。俺の嫁さんに言ったんだよ」
「奥さんと、何かありましたか」
「まあね、いろいろとあるんだよ。面と向かって言えないから、こうやって酔っぱらってるんだよ」
 酔っぱらいは、「情けなくて涙が出るよ」と言って、本当に一筋の涙を流した。
「もしよろしければ」
 私は、沸き上がる興奮を悟られないように一呼吸置いた。
「私がお役に立てるかもしれません。奥さんのこと、もう少しお聞かせ願えませんか」

   ◇ ◇ ◇

 平井は男に寄りかかりながら、歓楽街の雑踏の中を力の入らない体のままで歩いていた。男は平井の体を半ば抱えるようにしながらも、すいすいと人の間をすり抜けてゆく。平井は奇妙な安心感に包まれて、男に身を任せながら郁子に対する愚痴を垂れ流し続けた。
「あなたのお気持ちは痛いほど伝わりました。そこで、提案なんですが、あなたの奥さんを殺してしまう、というのはどうでしょう。なんなら私がお手伝いしますよ」
 郁子を殺す? そうか、殺すのか。
 平井のアルコールで痺れた脳味噌は、殺すという言葉に微かに反応したが、不思議と拒絶の気持ちには発展しなかった。男は平井が何も応えないことなど気にする風もなく語り続ける。
「二人でじっくり考えましょう。奥さんを殺すかどうか? こんな決断は人生の中でそう何度もするものではありませんからね。
 たとえばテレビのニュースで主婦殺害って聞けば、あなたはどう思いますか。犯人は誰かってことですが。そう、ほとんどの人は夫が怪しいんじゃないかと疑いますね。それは警察だって同じことです。そして徹底的に調べられます。もちろん犯人でなければ問題ないわけですが、実際に奥さんを殺していたとなるとまず間違いなくアウトでしょう。
 警察の捜査というのは一般の人が考える以上に緻密で科学的に行われますからね。素人が思いつきで偽装工作やアリバイ工作をしても、まず百パーセント見破られると思ってください。むしろよけいなことをすると、不自然さが際だって逆効果になります。夫が妻を殺すというのは非常にリスクの高い犯罪なんです。
 ところが第三者に殺人を依頼すると、ずいぶん事情が変わってきます。あなたと私のように過去に全くつながりのない関係ならば、必ずうまくいきます。今回の場合、あなたが主犯で依頼主、私が実行犯ということになりますが、もちろん二人とも警察に捕まるようなことはありません。その理由を今からお話ししましょう」
 男は歩くスピードを落とし、平井の腕の位置を調整した。平井は痺れかけていた右腕が楽になり、ふうと息をついた。
「まず実行犯である私の立場から説明しましょう。
 注意すべき点は二つあります。第一は殺人の現行犯でつかまらないこと。その場で捕まってしまったらお話になりませんからね。二つめは依頼主、つまりあなたのアリバイをなくしてしまわないことです。理由は説明するまでもないでしょう。
 ちなみに私自身のアリバイについては全く気にする必要はありません。アリバイが必要になるのはあくまでも事件の捜査線上に浮かんだ人物だけですからね。殺された奥さんと一面識もなく利害関係もない人物が疑われる可能性はありません。依頼主であるあなたが私の存在を口にしない限り、私は絶対に安全なんです。これは非常に大切なことですから忘れないでくださいね」
 男は平井の顔をのぞき込むと白い歯を見せた。
 平井は黙ってうなずいた。
「つぎに、あなたの立場から考えてみましょう。当たり前のことですが依頼しただけで実際に殺人を行っていないのですから、あなたには本物のアリバイがあります。もちろん殺人に関する物的証拠もありません。目撃者も出てきません。
 ただし動機はある。本人はばれていないつもりでも、まわりの人間に薄々感づかれている可能性はあります。そういう情報はほぼ間違いなく警察の耳に入ります。
 そう、あなたの唯一の弱点は動機があるということだけです。これを心の中に抱えたまま警察による事情聴取を乗り切るのが大変です。受け答えの態度や無意識に発した言葉から警察に怪しまれるんじゃないかと精神的に不安定になるんですね。そんな時に警察にかまをかけられるとよけいなことを言いかねない。これがこわい。
 いったん警察に疑いの目を向けられるときついですよ。厳しい追及を受け、言動の矛盾を指摘されるうちに、『実は殺し屋を雇いました』なんて白状してしまうかもしれない。そうなったら、せっかくのアリバイも関係ない。あなたは立派な殺人犯です」
 殺人犯? 俺が殺人犯だって?
「ちょっと待ってくれ。俺は警察の取り調べを乗り切る自信なんてないぞ。結局あんたに頼んでもリスクは大きいんじゃないのか」
 平井はあわてて抗議した。いつの間にか殺人の依頼主であるような気持ちになっていた。
「まだ話の途中です。もう少しで終わりですから最後まで聞いてください。言いたかったのは、あなたの動機が唯一の弱点だということです。
 金で殺人を請け負うという者は私以外にもいるでしょう。そういう人物に依頼し、これまで説明したような点に注意すれば、動機以外の問題は解消できます。ところが私の場合は、『殺したい』という動機ごとあなたから譲り受けます。ですから、あなたは下手なお芝居をする必要がありません。素直に警察の事情聴取に応じればいいのです。
 アリバイはある、証拠はない、動機もないのですから、あなたが容疑者になることはあり得ません。依頼主が疑われなければ私も絶対に安全です。今回は幸いにもネットを介さず、こうして直接やり取りをしていますから、通信事業者の記録にも痕跡は残りません。おそらく警察は通り魔的な犯行と見るでしょう。もしかすると奥さんの交友関係から別な容疑者を見つけてくるかもしれませんがね。私たち二人にとっては後の展開はどうでもよいのです。願わくば、罪のない人が冤罪で殺人犯などにされず、事件が迷宮入りしてくれることが最善の結末ですね。
 えっ、あなたから私に動機を受け渡す方法ですか。残念ながらそのことについて具体的にお話しすることはできません。動機とは心の問題です。あなたがその方法を知らないからこそ受け渡しが可能となるのです」
 男は立ち止まり、平井の前に回り込むとくるりと振り返った。灯の入った色とりどりの看板が逆光となり、男の表情は読みとれない。
「さて、どうします。私に依頼されますか?」

   ◇ ◇ ◇

 酔っぱらいは、私の話を聞き終えた後、自分の靴先に視線を落とし、「いくらなんだ」と小さくかすれた声を出した。
 いくらなんだ?
 すぐには何のことだかわからなかった。しばらく言葉の意味を考えて、料金のことを聞いていると気づいた。その瞬間、笑いの発作が腹の奥から込み上げてきた。私は奥歯をかみしめ、腹筋に力を込めて笑いを押さえ込んだ。
 そうか、そういうものなんだ。世の中、全ては金次第とはよく言ったものだ。どうやって殺すのか? 苦しまないように殺すのか? そういうことは気にならないんだな。
 よろしい、動機の引き取り料として、お金をもらってやろうではないか。
 私は男の身なりを再確認して、請求する金額を考えた。

   ◇ ◇ ◇

「たった三万円で、あんたはこんな依頼を受けるのか」
 徐々にアルコールが抜けてきた平井の脳味噌は、自分が依頼している内容の異常さではなく、予想より二桁少ない金額に驚いていた。
「そりゃあ、たくさんもらうに越したことはないですよ。でも何百万円っていうことになると、依頼主が無理な金策をしたり、銀行口座に使途不明の大金を払い戻した痕跡が残ったりしますからね。とにかく依頼主が不自然な行動を取って、疑われては困るのです。
 私の方の都合は気になさらないでください。お金にかえられないメリットがちゃんとありますから。安いからといって決して手抜きはしません。確実に殺してさしあげます」
「わかった、三万円なら今手持ちの金で間に合う。今日は給料日だったんだ」
 三万円という思いがけなく安い金額に、平井は反射的に飛びついた。古書店で探し続けていた雑誌に百円の値札が付いているのを見つけたときと同じ反応だと、冷めた自分がどこかで分析していた。が、それでいいのだと自分に言い聞かせた。今を逃せば、こんな都合の良い話に巡り合うことは二度とないだろう。平井は内ポケットに入れたままの財布をスーツの上から押さえて、その感触を確認した。
「では、場所を変えましょう」
 男は歩道をさらに十メートルほど歩くと、『純喫茶 すばる』と書かれたドアの前で立ち止まった。
「路上でお金のやりとりをすると、よけいな誤解を受ける可能性があります。お店の中の方が安全です。喫茶店で商談成立っていうのはごく自然な光景ですからね」
 店内に客は見あたらず閑散としていた。男は気にする風もなく奥へと進み壁際のテーブル席に平井を座らせ、自分はその向かい側に腰を下ろした。
 喫茶店の薄暗い照明の下で、平井は初めて男の顔を正面から見た。中肉中背といった体格の割には、顔全体が小作りだった。その中で耳だけが大きく、目を引いた。平井が男の顔をしげしげと観察していると、男は小さな目の奥から強い視線を送り込んできた。平井は太陽をまともに見てしまったような錯覚に襲われ、あわてて顔を伏せた。
 注文したコーヒーがテーブルに置かれ、ウエイトレスがレジの脇に戻っていった。
「さて平井さん、早速ですが料金をお支払い願えますか」
 平井は「あなた」ではなく自分の苗字を呼ばれていることに気がついた。男はいつの間に俺の苗字を聞き出したのだろう。俺はどんなことまでこの男に話したのだろう。じわりとした不安が心の隅に生まれた。その一方で平井の右手は財布の中から三枚の一万円札を抜きだしていた。
「申しわけありませんが、私に見えるように枚数を数えていただけませんでしょうか」
 平井は言われるままに一万円札を男の目の前に掲げて、一枚ずつ数えて見せた。
「お手数をお掛けしました。はい、お預かりします」
 男は平井から三万円を受け取ると、テーブルの上にあった紙ナフキンで包んだ。そして、少しかん高い声でウェイトレスを呼び、ボールペンを持ってこさせた。
「ここにサインをお願いします」
 男は平井にボールペンを渡し、一万円札を包んだ紙ナフキンの隅を指さした。事務的な流れが平井の不安を覆い隠してくれた。平井は素直に指示に従った。
「これで商談成立です。契約の変更はできませんので腹をくくってください。今後私の方から連絡することはありませんし、あなたから私に接触することも不可能です。しかしご依頼の件は必ず成功させますから焦らずお待ちください。
 そうそう、私の手元にはあなたの指紋がしっかりとついた三枚の一万円札とあなたのサインがあることをお忘れなく。それではさっそく準備に取りかかりますので、お先に失礼いたします」
 男は伝票をつかむとレジに向かった。二人分の料金を払い、カランとカウベルを鳴らしてドアの向こうに消えた。
 店内の客は平井一人になった。
 平井は口をつけないまま冷たくなったコーヒーを喉の奥に流し込んだ。頭にかかっていた薄いベールのような靄が、すっと晴れてゆく。その瞬間、全身の細胞をぎゅっと絞られるような激しい後悔の念が襲ってきた。
 郁子が殺される。どこの誰ともわからないあの男に殺される。俺はいったい――
 今思えば、男の話を頭できちんと理解して聞いていたにも関わらず、まるで実感を伴っていなかった。まずい。すぐに契約を破棄しなければ、本当に郁子は殺されてしまう。
 まだ間に合うか?
 平井は店を飛び出し、行き交う人波の中に男の姿を探した。
 十一月二十五日午後十一時三十分過ぎ、駅前の歓楽街は大勢の人で溢れていたが、その中に男の姿はなかった。
 呆然と立ちつくす平井の前で、冷たく乾いたつむじ風が砂埃を巻き上げた。

    ◇ ◇ ◇

 ついに見つけた。
 平井富夫という男の妻で、名前は郁子。
 妻のやることすべてが気に入らない、神経に障る。だから――殺す。典型的な、そして不純な動機だ。そんなに妻が憎いのなら、離婚すればいいのだ。
 だが、その不純な動機も、私が譲り受けた瞬間から、純粋なものへと昇華される。
 人を殺したい。
 この純粋な動機により、私は平井郁子を殺す。
 明日からじっくりと準備に取りかかろう。
 こんな機会はまたとあるまい。
 準備の段階から楽しもう。
 あわてないことだ。
 ゆっくりだ。

     ◇ ◇ ◇

 喫茶店を出た平井は、一時間近く歓楽街の中を歩きまわったが、結局男を見つけることはできなかった。ただ体が冷え切ってしまっただけであった。かといって、そのまま家に帰る気にはなれず、再び『よたろう』の暖簾をくぐった。客は六分の入りになっており、カウンターの中から、「お好きなところへどうぞ」と声を掛けられた。店の主人は平井の顔を覚えていないようだった。平井は先ほどと同じ奥の席に座り、またおでんとビールを注文した。客の数が少なくなったせいか、店内の空気が幾分ひんやりとしたものに感じられ、熱燗にすればよかったと後悔した。
 それでも徐々に体が温まってくるにつれて、半ば錯乱状態にあった気持ちも落ち着き、一時間前の出来事を冷静に思い返すことができるようになってきた。
 いったい何だったんだ。あの男は俺に何の話をしたんだ。そもそもあの男は何者だ。三万円ってどういうことだ。
 客が一人、勘定を済ませて店を出た。屋外の冷気とともに、パトカーのサイレン音が店内に流れ込んできた。
 何か事件でもあったのかな。
 一呼吸置いて、平井の頭に丸い笑顔が浮かんだ。
 郁子! 
 そうだ、こんなところで酒を飲んでいる場合じゃない。今、あの男は、郁子を殺しに向かっているかもしれないのだ。平井は財布から千円札を三枚抜き出し、店の主人に押しつけるように渡すと、釣りももらわず店を飛び出した。人通りはまばらになっており、全力で走ることができた。
 だがそれは無茶な行動だった。平井はもともとアルコールに強い体質ではない。二分と走らないうちに猛烈な頭痛に襲われた。動悸と同じリズムでガンガンと頭を内側から殴られているようだった。たちまちスピードが落ち、リタイア寸前のマラソン選手のような歩みになった。吐けば少しは楽になるかもしれないが、適当な場所が見つからない。掻き乱された平衡感覚と、間歇的にこみ上げてくる嘔吐感に何度も立ち止り、いつもの倍以上の時間をかけて自宅近くの中央公園にたどり着いた。
 そこまでが限界だった。
 ベンチの脇にひざを突き、吐いた。アルコール混じりの胃液が喉の奥からせり上がってくる。食道が焼け、胃が裏返りそうな苦痛に涙がにじんだ。俺はいったい何をやっているんだ。これでもし、郁子の身に何かあったら、俺は――
 平井は苦い胃液の糸を垂らしながら、青白い水銀灯に照らされ一人背中を波打たせた。
 やっとの思いで自宅の前にたどり着いたときには、体を支えるだけの力も残っていなかった。なんとかノブにしがみつき、ぶら下がるようにして開けたドアの隙間から玄関へ倒れ込む。
「トミさん、どうしたの? 大丈夫?」
 靴箱に体をぶつけた音が家中に響き、郁子が居間から飛び出してきた。
 郁子――生きていた。
 平井はその場にしゃがみ込んだ。泥だらけのスラックス。吐瀉物で胸元の汚れたカッターシャツ。いつの間にか右肘の部分に鉤裂きのできたスーツ。一瞬で玄関に立ちこめるアルコール臭。
 郁子は平井の惨状を見ると、素早くバスルームに向かい、湯を張った洗面器とタオルを持って戻ってきた。かたくしぼった熱いタオルで平井の顔をぬぐい、上着とシャツを脱がせ首から胸をゴシゴシとこする。
「ほら、トミさんちょっと辛いだろうけどがんばって立ってね。ここで寝ちゃったら風邪ひくよ」
 郁子は平井の左腕を肩に担いで無理矢理立たせると、引きずるように居間へ運んだ。郁子の手は熱を持ったように温かく、そして柔らかだった。母親に包み込まれているような安堵が全身に広がってゆく。その後、居間のソファーに寝かされるところまではなんとか意識があったが、パジャマを着せられ毛布をかけられたあたりから平井の記憶は途切れた。

 翌朝、平井は郁子に肩を揺すられ目を覚ました。
「はい水。今日は仕事どうするの? 休むなら、そろそろ連絡入れなきゃだめでしょ」
「――行く」
 眩しさに涙が滲んだ。同時にカチッとスイッチが入ったように昨夜の記憶が鮮明に蘇った。
「あ、そう。じゃあ、早く顔洗ってね。あっつーいお味噌汁つくっといたから、それ飲んで頭すっきりさせなさいな」
 郁子はスリッパの音をぱたぱたとたててキッチンへ戻っていった。
 平井は二日酔いの頭痛を覚悟して、ゆっくりと上半身を起こした。昨夜のうちにすべて吐いたせいか、頭の芯にかすかな痛みを感じるだけですんだ。わずかではあるが食欲もある。
 洗面所の冷たい水で顔を洗い部屋に戻ると、テーブルの上には、白い湯気を上げる味噌汁と粥、玉子豆腐、梅干しが並んでいた。
「いただきまあす。ほら、急いで食べれば軽くシャワーするぐらいの時間はあるよ。着替えは脱衣所の方においてあるから、てきぱきやりなさい」
 平井は郁子の顔をまともに見ることができなかった。
 いつもなら、「朝からうるさい」だの、「口にものを入れて喋るな」だの、ぶつぶつ文句を垂れているところだろう。しかしそんなことが言えるわけもなく、平井はうつむいたまま黙って食べ続けた。郁子はそれを二日酔いの体調不良のせいととったのか、不審に思う素振りも見せず、いつもの調子で、食べ、話し、飲み、そして笑った。
 平井はシャワーを浴び、新しい下着を身につけ、身支度を整えると、逃げるように家を出た。
「ちょっとは走らないと電車に遅れるよー」
 郁子の声を背中に受け、平井は足を早めた。

   ◇ ◇ ◇

 平井の自宅はすぐに見つかった。あのとき平井は酔いながらも、私に正確な住所を教えたようだ。二十坪ほどの敷地はブロック塀に囲まれ、木造二階建のやや古びた家屋がこぢんまりと立っていた。小さいながらも門柱があり、『平井』と毛筆で書かれた表札が掛けられていた。道路を挟んだ斜め向かいにはかなり大きな公園があった。公園には遊具、東屋、公衆便所はもちろん、貸しボートに乗ることができる人工池や園内を散策するための遊歩道まである。ここならスケッチブック一つを開いていれば長時間居座ることができそうだ。
 私は当面の間、夜勤前の午前中と夜勤明けの午後を使って、公園から平井の家を観察することにした。

 平井自身は会社勤めのため、平日の行動は見事に規則的だ。朝、七時十分過ぎに玄関を出て八時二十分に職場に到着。昼休みに職場近くの定食屋で昼食をとり、午後六時過ぎに退社し、七時二十五分には帰宅する。月曜から金曜まで、ただそれを繰り返すだけである。
 一方、平井の妻は生活感あふれる毎日を送っていた。
 毎朝九時までに掃除や洗濯などの家事を済ませる。掃除は家中の窓を全開にし、洗濯は二階のベランダに干す。月曜日の午後二時過ぎには生活協同組合で共同購入した品物を受け取るために、三軒先の家の玄関前に出かける。そして長いときには一時間近く共同購入仲間の主婦達と話し込む。火曜日の午後は公民館でコーラスの練習。水曜日から金曜日までは駅前の持ち帰り弁当の店で午前十時から午後三時までパートタイムで働く。
 また曜日に関係なく、午後五時過ぎになると徒歩で十分の距離にある大型スーパーマーケットへ食料品の買い物に出かける。このスーパーマーケットは午後五時を過ぎると生鮮食料品と総菜類が半額にまで値引きされるため、これをねらって集まる主婦達で店内は込み合う。平井の妻が買い物に要する時間は長くても十五分程度で、午後五時半過ぎには帰宅する。土曜日と日曜日は、ほぼ一日中平井と行動を共にする。
 ということで、殺すのは月曜から金曜日までの午後五時半頃だろうか。平井が退社する時刻が午後六時以降なので、自然で確実なアリバイを成立させることができる。また、冬場であればこの時刻はすでに薄暗くなっており、仮に誰かに目撃されてもこちらの人相までははっきりわからないはずだ。
 後は待ち伏せる場所だ。万が一、現場を他人に見られたときの逃走経路などを検討する必要がある。いや、それよりも前に決めなければならないことがあった。
 どうやって殺すのか。
 そう、これが何よりも肝心だ。
 思いつく限りの方法をメモに書き出し、それぞれの方法についてメリット、デメリットを検討した上で、実行の際の具体的な状況のシミュレーションを綿密に行う必要がある。たんに成功の確率が高いかどうかだけでなく、人を殺したという実感、達成感、そして深く刻まれる罪悪感が生まれるかどうかという点も重要な検討ポイントだ。
 やるべきことはいくらでもある。
 まだまだ楽しめる。

   ◇ ◇ ◇

 朝七時十分から平井の苦悩ははじまる。駅へ向かう道、込み合う通勤電車の中、職場の自分の席、定食屋での昼食、午後の会議の途中、帰りの電車の中。どの瞬間に郁子が殺されていてもおかしくない。いや、もうとっくに殺されていて、居間の床に冷たく横たわっているかもしれない。いったんそのことを考え出すと動悸で胸が痛くなり、下着が肌に張りつくほどの冷や汗をかく。郁子の安否はLINEで確認できるが、あやしまれないように他の用事を装う必要があるため、一日に数回までが限度だった。特に根拠はないのだが午前中はまだ大丈夫だろうという思いがあり、昼休みと午後三時頃に、夕食のメニューに関する話題にからめて安否確認のメッセージを送る。既読がなかなかつかないと一気に脈拍が上がる。
 また、職場の電話の呼び出しにも体が激しく反応した。右斜め前に置かれた電話機の赤い小さなLEDが点滅し電子音が響くと、受話器の向こうで警察官が事件を告げようとしている様子が鮮明に浮かぶのだ。
 その日も机の片隅にある電話機がカチリと音を立てた瞬間、平井の全身はびくりと跳ねて、椅子が大きく軋んだ。鳴り続く呼び出しに体は硬直し、指一本動かすことができなくなった。見かねた隣の席の太田が腰を浮かせ、大きく腕を伸ばして受話器を取った。やりとりから通常の業務に関する電話だったということがわかると、平井の体から力が抜けた。
「平井さん、最近具合が悪いんじゃないですか」
 受話器を置いた後、太田が顔をのぞき込むようにして声をかけてきた。
「ん? いや、大丈夫だよ。あ、電話どうもありがとう」
「ほんとに大丈夫かなあ」
 太田は疑わしげな目を向けたが、平井が黙り込んだのでそれ以上は聞いてこなかった。
 こんな状態で郁子が殺されでもしたら、真っ先に平井に疑いの目が向けられるだろう。だからといって、反射的な体の反応はどうなるものでもなかった。今の平井にできることは、たとえ仕事が途中であっても定時の五分前にはすべての片づけを終えて、午後六時の時報とともに職場を飛び出し、帰宅することだけだった。
 駅から早足で十五分。午後七時二十分には三丁目の曲がり角にさしかかる。中央公園の向かいに見える自宅の門灯に灯が入っていると、少し動悸がおさまる。玄関の呼び鈴を押し、ドア越しに廊下を駆けてくる郁子の足音を聞いて大きく息をつく。
 夕食の間中、郁子のおしゃべりは続く。最近、近くに引っ越してきた新婚夫婦のこと、コーラスの歌詞がドイツ語でなかなか覚えられないこと、パート先の持ち帰りの弁当屋にやってくる一人暮らしのおじいさんのこと、スーパーで特売の卵を買いそびれたこと。
 相変わらず平井は、「うん」とか「ああ」など相づちを打つだけだったが、以前のように苦痛な時間ではなくなっていた。いやむしろ、この一分一秒がかけがえのない貴重な時間となっていた。ときには話の合間にたてる郁子の笑い声を聞くだけで涙ぐみそうになることさえあった。一日の出来事をひとしきり話すと、郁子は夕食の後かたづけに取りかかる。平井は楽しげに洗い物をする郁子の背中を見ながら、深いため息をつく。少なくとも明日の朝までは、郁子の命が奪われる心配は無い。だがその後は、平井のアリバイが成立する時間帯――家を出てから夕方帰宅するまでの間は、もどかしさと苦しみを抱えながら過ごさなければならない。
 布団に入った平井は目を閉じ、明日を思い、再びため息をつく。

   ◇ ◇ ◇

 ナイフで殺すことにした。
 毒物や拳銃は入手が困難だし、仮に手に入れることができたとしても、そこから足がつく可能性が高い。だからといって素手で殺すというのは、よほどそのための訓練を受けた人間でなければ無理だろう。あの夢のように高所から落とす方法もあるが、そのような場所に呼び出すためにはある程度顔見知りになっておく必要がある。
 やはりナイフがいい。ナイフは手の延長だ。ナイフで殺すということは、自らの手で命を奪うということだ。
 私は夜勤明けの午後、バスで一時間ほどの郊外にあるホームセンターで果物ナイフを買った。刃渡り九センチの小振りなものを選んだ。これなら上着の内ポケットに入れても邪魔にならない。こんなちっぽけな道具で人は殺されてしまうんだ。私は小さな金属片に秘められた絶大な力を頼もしく思った。
 帰りのバスではずっと窓の外を眺めていた。手に入れたナイフの存在感に神経が高ぶり、単調な田園風景でも眺めて気を逸らさなければ、思わず叫びだしそうだった。
 信号待ちの停車の度に、窓のすぐ外にプロレス興行の宣伝カーが並んだ。広告を見るともなしに見ているうちに奇妙な既視感を覚えた。この感覚は何だろう。胸の底をくすぐられるようなむず痒さ。プロレスなんかに興味はないのに。
 次の信号待ちでもまたプロレスの宣伝カーが真横に並んだ。今度はじっくりと観察する。車体の側面に貼られたポスターには、奇抜なコスチュームのプロレスラー達がひしめき合うように――そうか、わかったぞ。プロレスの開催される体育館の住所と平井の自宅の住所が同じ町内だったのだ。
 よし、明日は久しぶりに平井の自宅と妻の行動を確認しに行こう。前回確認した状況から変わった項目があれば計画の微調整をしなければならない。ナイフで殺すのであれば、まず問題は生じないだろうが、ここで気を抜いてはいけない。不測の事態が起こりえることを想定し、万全の準備で臨むのだ。
 私は背もたれに体を預け、目を閉じて、明日の視察計画に心を遊ばせることにした。

   ◇ ◇ ◇

 平井は考える。
 坂道のてっぺんに、ぎりぎりのバランスを保ってぐらぐらと揺れている大きな岩がある。坂の下には郁子が立っている。平井はその岩を酔いにまかせて押してしまった。岩は簡単にバランスを崩し、まさかと思うほどあっけなく坂を転がりだした。岩を押したのは失敗だった。押した直後にそのことに気づいた。
 緩やかな斜面を転がりだした大きな岩は、もう平井の力では止めることができない。それは何も知らずに平和な日々を過ごす郁子の頭上に迫っている。郁子の命は岩に押しつぶされるまでの時間しか残っていない。郁子は何も知らずに坂の下で笑っている。
 岩を止めることができないのなら、せめて大声を上げて郁子に危険を知らせるべきである。坂がどのくらいの長さなのか平井にはわからないが、岩が確実に迫っていることは間違いない。逃げるなら早いに越したことはないのだ。だが、平井はいまだに声を出せずにいる。郁子に危険を知らせるということはすべて打ち明けるということだ。
 その声が出せない。
 ならば、郁子が自分自身で頭上に迫る岩に気づくようなきっかけを、日常の何気ない素振りの中に紛れ込ませることはできないだろうか。そういえば今日の昼休み、定食屋で読んだ雑誌に、宅配の配達員を装った強盗によって主婦が殺されたという事件が載っていた。あの雑誌をそれとなく郁子に読ませてみるというのはどうだろう。いや、そんなものを読んだからといって、どうなるものではない。遠く離れた土地の事件を自分の身に結びつけることはないだろう。
 やはり自分の口から話すしかないのだ。
 その夜、平井は布団に入り、暗い天井を見上げながら隣の郁子に話しかけた。
「この前、ひどく酔っぱらって帰っただろ」
「うん、びっくりしたよ。よく一人で帰ってこられたよねえ」
「迷惑かけたな」
「あはは、あのスーツそろそろだめかなと思ってたからちょうどよかったかも。思いきって捨てちゃった」
「何があったのか、聞かないのか」
「そういうのって聞かれると話したくなくなるでしょ。トミさんがあんな酔い方をしたのは初めてだったけど、それだけ私が酷いことやっちゃったんだなあって、反省したのよ。あ、そういえばちゃんと謝ってなかったよね。トミさんの大切なもの勝手に捨てちゃって、ごめんなさい。わざとじゃないのよ。本当にいらないものだと思ったんだから。でも、トミさんが言ってたみたいに、旦那の大切なものもよく知らないっていうほうが問題大きいよね。これも反省してます」
 暗闇の中で郁子がくっくっと鳩のような声を立てる。平井は体を横にして郁子の方を向いた。
「郁子」
「なあに」
 郁子もこちらを向いたらしく、息のかかりそうな距離から笑いを含んだ声が返ってきた。平井の内部に甘く切ない気持ちが突き抜けた。
「あら、トミさんどうしたの。きゃあなになに。ちょっと、あ――」
 その夜、平井は二ヶ月ぶりに郁子を抱いた。
 大声で危険を知らせることはできないままだった。

   ◇ ◇ ◇

 明日、平井郁子を殺すことにする。
 平井の仕事のスケジュール、郁子の行動パターン、平井宅周辺にある監視カメラの設置場所と撮影範囲、平井夫婦の近所付き合いなど、調査は十分に時間をかけてやった。いつでも殺せるという状況もたっぷりと楽しんだ。
 明日、二月三日は金曜日。平井は通常の勤務で朝七時過ぎに家を出る。郁子は午前中の家事を終えると、自宅で早めの昼食をとり、十一時から隣町の持ち帰り弁当屋で午後五時半までパート勤務。その後、午後五時四十分過ぎに店を出て、午後六時前後に自宅に着く。平井は定時の午後六時に退社し、寄り道せずに帰宅する。玄関に到着するのは午後七時二十五分から三十分の間となるだろう。
 天気予報によれば、明日は北海道の東方にある低気圧が徐々に東に移るが、冬型の気圧配置は持続するようだ。このあたりは雲の多い天気となり、夕刻には雪がちらつくらしい。こういう気圧配置の場合は大きく予報がはずれることはない。午後六時には暗くなり、気温はかなり下がるはずだ。
 以前に購入しておいた果物ナイフは、スーパーのリサイクルBOXから持ち帰ったアドペーパーで刃の部分をくるみ、コートの内ポケットに隠し持つ。返り血が目立たないようにコートは牛革の黒。指紋対策の革手袋はこの季節ならずっとはめたままでも目立たないだろう。万が一、雪が積れば足跡を残す可能性があるので、靴は量販店で特売品のジョギングシューズを購入した。履き慣れた靴だと、靴底のすり減り具合などから持ち主の体格や歩き方の癖など、持ち主の人物像がかなり具体的にわかってしまうという情報を得たからだ。髪の毛を落とすといけないので、平井宅の敷地内では毛糸で編んだスキー帽をかぶることにする。
 私は頭の中ですべての手順をなぞり、計画に見落としや欠陥がないかを入念に点検した。
 問題なし。
 これまでに何千回も繰り返してきたシミュレーションだ。想定されるあらゆるアクシデントへの対応策も準備できている。
 私は部屋の照明を消し、布団にもぐり込んだ。

   ◇ ◇ ◇

 二月三日金曜日、午前七時十分。
 平井は郁子に見送られて家を出た。最寄り駅の二番ホームの定位置で列の先頭に立ち、普通電車を一本見送ったあと、七時三十分発の急行に乗る。車内はほぼ満員。平井はいつもの吊革にぶら下がる。途中、二つの私鉄が乗り入れているターミナル駅でほとんどの乗客が下車し、平井の前の席が空く。それを見越した立ち位置なのだ。ほどよい座席の温もりと単調な振動の中で平井は自分の世界へ入り込んでいった。
 あの夜以降、郁子との会話が自然体で弾むようになった。言葉を交わすことにより、郁子に対して感じていたいらだたしさが嘘のようにぬぐい去られた。「がさつで騒々しい」と感じていた郁子の性格が、「おおらかで明るい」と心から思えるようになった。郁子と結婚して四年。新婚当初の半年間を除けば、今ほど夫婦の関係が良かったという記憶はない。
 おそらく、あの男に会わず、郁子の殺害を依頼しなければ、未だに郁子への不満をつのらせながら不毛な日々を送っていただろう。自分の夫にたったの三万円で殺されるとは夢にも思わず、毎日明るく無邪気に過ごす郁子の姿は平井の心を締めつけた。このようなことでしか郁子に対する愛情を確認できなかった自分につくづく愛想が尽きる。一方で、自分の中で何かが変わったということも感じていた。
 だが、郁子にすべてを話すことはできないままだった。仮に郁子にすべてを打ち明けても、その命を完全に守ることはできない。二十四時間郁子と行動を共にすることは不可能なのだ。また警察に事情を話したところで、おそらく身辺警護などは望めないだろう。何よりせっかく良好になりつつある郁子との関係を壊したくなかった。そんな言い訳を自分の中でぐるぐると掻き回し続けていた。
 そういえば、あの男に会ったのは去年の十一月下旬だった。今日はもう二月三日。すでに二ヶ月以上の時間が経過している。
 なぜ、実行しない?
 あの男に会ってから最初の一ヶ月は毎日毎時間、郁子が殺される状況ばかりを想像し、悶々とした気持ちで過ごし、気がつけば新年を迎えていた。だが、いっこうに男の動きはなく、平穏な日々が続いている。ときに弛みそうになる警戒感をあわてて引き締めることが多くなった。
 しかし、普通に考えれば、たったの三万円で、殺人という究極の犯罪を請け負うのは割に合わない取り引きだ。下手をすれば死刑なのである。あのときは、アルコールで判断力の低下した脳に、男の巧みな言葉がリアリティを持って迫ってきたのだが、あらためて考えてみると実に嘘臭い。
 待てよ、これは詐欺じゃないのか?
 詐欺という言葉が浮かんだ瞬間、平井にはすべてが見えたような気がした。「妻の殺害を依頼したのに、金だけ取られて逃げられました」などと警察に訴える馬鹿はいない。この詐欺に引っかかった被害者からは絶対に被害届は出されないのだ。そのことに思い至ったとき、平井は電車の中ということを忘れて、「絶対に詐欺だ」と声をあげ、近くにいた乗客たちが一斉に体を引いた。だが平井には周囲の反応などどうでもよかった。
 詐欺だ詐欺。くそっ、何で今までそんなことに気づかなかったんだろう。
 でもあの男に騙されたおかげで、俺は変わることができた。郁子との生活が変わった。そのことを思えば三万円なんて問題じゃない。そうだ、俺はあの男に騙されたんだ。わはははは。ああ、馬鹿な俺――
 午前八時七分、電車が平井の下車駅に着いた。平井は軽い足取りで改札を抜け、職場につながる地下道に降りていった。

   ◇ ◇ ◇

 二月三日金曜日、午前八時十分。
 枕元に置いたタブレットのアラームで目が覚めた。夢を見ることもなく、九時間ぐっすり眠ることができた。
 パジャマのままでキッチンに立つ。昨夜タイマーをセットしておいた炊飯器から白い蒸気が勢いよく吹きだし、部屋にはまもなく炊きあがる白米の匂いが充満していた。セラミックスのミルクパンに水とだしパック、味噌パウダーを入れレンジにセットする。そのまま寝室にもどって、ベッドの下の衣装ケースから下着を取り出し、ひやりとした空気の中で手早く着替える。
 朝食はいつものように、納豆、豆腐とワカメの味噌汁、玉子二つの目玉焼き、白菜のキムチ、そして炊きたての白飯だ。約三十分かけて食事をすませ、タブレットに呼び出したローカルニュースを丹念に読む。今日の計画に支障をきたしそうな事件や事故はないようだ。
 時刻は午前九時三十分を少し過ぎた。トイレに入る。便座に腰掛け、頭の中で本日前半の計画を再確認する。
 まず正午少し前に平井の勤務先へ出かける。平井は十二時十五分過ぎに昼食のために部下数人と一緒に近くの定食屋へ入り、十二時五十分頃再び職場にもどるはずだ。これを定食屋の隣にある喫茶店の中から確認しておく。その後、平井の帰宅経路通りに電車を乗り継ぎ、平井宅の最寄り駅で下車。駅のコインロッカーに、平井郁子を殺した後に着替える上着とスラックスを預けておく。つぎに駅から徒歩で持ち帰り弁当の店に行く。そこに平井郁子がいるはずだ。平井郁子が立つレジで昼食用のからあげ弁当を買い、名札と顔で本人ということを確認しておく。万が一にも人違いがあってはならないから、直前のチェックをおろそかにしてはいけない。こうして二人の行動が普段と変わらないことを確認できたら、いったんこの部屋に戻り、からあげ弁当を食べ、休憩の後、ストレッチで体をほぐす。そして夕刻を待つ。
 本日前半分の最終シミュレーションはこれで終わり。
 私はすっきりとした気分でトイレを出ると、歯を磨くために洗面所の鏡の前に立った。

 午後五時、天気予報は当たったようで、雪まじり北風が窓のガラスをカタカタとゆすりだした。私は焦げ茶色のスラックスに紺色のウールのセーター、そして黒い牛革のロングコートという出で立ちで部屋を出た。コートの内ポケットにアドペーパーでくるんだ果物ナイフを忍ばせてある。ドアに鍵をかけてから手袋をはめ、毛糸のスキー帽はスラックスの尻のポケットにつっこんでおく。履き慣れないジョギングシューズのせいで歩き方が少し不自然かもしれないが、監視カメラのアラートを起動させるほどではないはずだ。
 午後五時四十分、中央公園に着いた。平井郁子はちょうどパート先の持ち帰り弁当屋を出た頃だ。あと二十分弱でこの公園の前を通過し自宅の玄関前に立つだろう。私はすっかり暗くなり人気の絶えた公園の遊歩道をゆっくりと歩いた。風は弱まり、いつの間にか雪もやんでいる。
 午後五時五十七分、平井郁子が帰ってきた。公園前の街灯の下を通過する時に本人であることを確認する。目尻の皺の脇に黒子も見えた。間違いない。ダウンジャケットを着ているがマフラーは巻いていない。好都合である。私は公園の植え込みの陰から道路に出た。約五メートル前に彼女の背中がある。私はポケットからスキー帽を取り出し、歩きながら耳を覆うところまで深くかぶった。すっと彼女の姿が視界から消える。平井宅の敷地に入ったのだ。私はそのままのスピードで後を追った。彼女は玄関のドアの前に立ち、手提げバッグから鍵を取り出そうとしていた。私はコートの合わせ目から右手を内ポケットへ差し込み、果物ナイフの柄を逆手に握った。彼女は少し前屈みの姿勢になり左手をドアのノブにかけた。私は果物ナイフをそっと抜き出しその真後ろに立った。彼女はスマートキーを取り出すためにダウンジャケットのポケットに右手を差し入れた。私は革手袋をはめた左手で彼女の口を覆い胸元に引き寄せた。彼女はドアノブをつかんだまま、こちらに倒れ込んできた。手袋越しに体温を感じる。私は右手に持った果物ナイフの刃を彼女の左の首筋に当て、首をぐるりと半周するように力を込めて手前に引いた。

 私の腕の中で一人の人間の命が消えてゆく。ああ、そして――今、命が絶えた。
 私は人を殺した。
 長年の夢がようやくかなった。
 
 私は彼女の体を仰向けにして、その場に横たえた。彼女は驚きの表情を顔に張り付かせたまま、私を見上げていた。その視線は私を突き抜け遙か上空を目指しているようでもあり、すぐ目の前の虚空を見ているようでもあった。
 彼女の体の下からゆるゆると広がりはじめた血溜まりで靴をぬらさないよう素早く後ずさる。果物ナイフは玄関脇の植木鉢の向こうへ投げ捨てた。私は門柱の陰から顔を半分だけ出し、通りの様子をうかがった。左右の見通し距離はともに約五十メートル。人影は無い。私は中央公園へ向かって右足を踏み出した。
 中央公園の公衆便所の中で返り血の有無をチェックした。黒い服装のおかげで少なくとも一目見てわかるような血の痕は無かった。このままの格好で駅に向かっても大丈夫だろう。私は腕時計で時刻を確認した。
 午後六時八分。
 平井のアリバイは成立した。

   ◇ ◇ ◇

 二月三日金曜日、午後七時二十分。
 平井は中央公園の前を通り過ぎたところで違和感を覚えた。理由はすぐにわかった。自宅の門灯が暗いままなのだ。全身の血が凍り、次の瞬間に沸騰した。
 やられたか?
 今朝思いついた「詐欺で騙された」という考えに満足し、弛緩していた気持ちが吹き飛んだ。
 平井はほとんど無呼吸で自宅の前まで走った。
 どの窓にも明かりは無かった。平井は玄関のドアに飛びつき、ノブを力任せに回したが施錠されたままだった。呼び鈴のボタンを押す。家の中でブザーの音が鳴っている。応答は無い。
 平井は自分の鍵を使うということさえ忘れ、玄関のドアと格闘を続けた。
「あ、トミさん帰ってたの。ごめんなさい」
 反射的に平井が振り向くと、郁子が立っていた。
「ど、どうしたんだ。何でこんな時間に家にいないんだよ」
「パートの帰りにね、三上さんのところに寄せてもらったのよ。岩手の実家から牡蠣を送ってきたからお裾分けしてあげるって言われちゃってさ。ものだけもらってすぐに帰るわけにも行かないから、ちょっとお茶してたら遅くなっちゃった。ぎりぎりトミさんより早く帰れるかなと思ったけど、負けちゃったね。ほら見てすごいでしょ、殻つきの牡蠣よ。今夜は牡蠣鍋にするからね」
 郁子は走って帰ってきたらしく、はあはあと白い息を吐きながら一気に事情を話した。平井は大きな安堵で思わず涙ぐみそうになったが、暗闇のおかげでその表情は郁子に気づかれずにすんだ。
「帰ったら鍵かかってるし、真っ暗だし――」
「ごめんごめん。でもトミさん鍵持ってるでしょ」
「あ、ああ」
「なんだかドア壊しそうになってたよ」
 郁子は笑いながらドアを開けると、お帰りなさいと言って平井を先に家の中に入れた。郁子の首筋からはいつもの香水の香りが微かに漂った。

   ◇ ◇ ◇ 

 二月三日金曜日、午後九時二十分。
 私は居酒屋『よたろう』の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい。こちら空いてます、どうぞ」
 私は店の主人に勧められた奥のカウンター席に座った。
「ご注文をどうぞ」
「刺身の盛り合わせと、おでんを適当にみつくろってもらえるかな。あとビールは生の大を」
 三分と待たないうちに注文の品が目の前に並べられた。たっぷりと醤油をまぶした三匹の甘エビを一度に口へ放り込み、ビールでのどの奥に流し込む。店内は七分の入りで、そのほとんどが一人客らしく静かな時間が流れている。
 カラカラと軽やかな音を立てて格子戸が開いた。
「ああ、さぶいねえ。また雪が降ってきたよ」
「いらっしゃい」
 心地よく暖まっていた空気が入り口から吹き込んだ冷気でかき乱され、おでんの鍋から白い湯気が盛んに立ちのぼる。新しい客はそのまま入り口近くの席に座るなり、店の主人に話しかけた。
「近所でなんか事件でもあったみたいだよ。さっきから何台もパトカーが走り回ってるしさ」
「でもサイレンが聞こえんな」
「それがかえって不気味なんだよ。サイレンの音を消したままで、赤いランプを回したやつがそこら中にいるんだから」
 静かな店内で交わされる会話は他の客に嫌でも聞こえる。私の右隣にいた男が話に割り込んだ。
「大きな事件だったらもうローカルのニュースチャンネルでやってんじゃないの。おやっさんちょっと映してくれや」
「おうよ、ちょいと見てみっか」
 店内奥の天井近くに据え付けられた大型ディスプレイのスイッチが入れられた。店の主人が慣れた手つきでリモコンを操作しリアルタイムルニュースのリストを表示させる。
「5番でいいよ。ローカルではそこが一番速いんだ」
 別の男が声をかける。画面はニュース番組らしいセットを映し出した。
『先月発覚した風力発電所の耐震強度偽装問題で、新たに三棟の大型風車でも偽装工作が行われていることが発覚しました』
 一分程度の取材映像に続き、ニュースキャスターが3Dの設計図を回転させながら耐震強度の解説を始めた。
「やってないなあ」
「大した事件じゃないんだろ」
 入り口の格子戸が勢いよく開けられ、三人連れの客が入ってきた。
 モニターの表示は次のニュースに移った。
『ただいま新たなニュースが入りましたのでお伝えします。本日午後七時三十分頃、T市M町の平井富夫さん宅において、妻の郁子さんが玄関前で首から血を流して倒れているのを、仕事から帰宅した夫の平井さんが発見し警察へ通報しました。郁子さんは直ちに市内の病院へ運ばれましたが、頸動脈を鋭利な刃物で切断されており、搬送先の病院で死亡が確認されました。S県警は殺人事件として捜査本部を設置するとともに、T市内および周辺の市に緊急の警戒態勢を敷きました。平井さん宅は閑静な住宅街の中にあり――』
 最初ざわついていた客達が一人、二人と話をやめ、気がつくと全員が息を詰めてテレビに見入っていた。ニュースキャスターが原稿を読み上げる声と、くつくつと煮えるおでんの鍋の音だけが店内に響いていた。
「殺人事件だってよう。M町ってここから十分てとこじゃないか」
「おいおい、うちもM町だよ。ん? 平井って聞いたことあるような――」
「知り合いかい」
「いや、そうじゃないんだが」
「平井さんって、あの中央公園のそばにある家じゃないかなあ」
 私の左隣りに座っていた五十代半ばの男が店の主人に声をかけた。
 私は皿の上で大根を二つに割り、カラシをたっぷりとぬって口に運んだ。つんと刺激が鼻から目に抜け、涙が滲む。
「あそこは子供がいないんだが、夫婦仲が良いっていうんで、近所じゃ結構有名なんだよ」
 隣の男は訳知り顔で説明を付け加える。
 店の主人はテレビを見上げながらため息をついた。
「へぇー、そりゃあますます気の毒だよなあ。うちのかみさんなんかが殺されたら真っ先に俺が疑われるよ」
 ローカルニュースはすでにつぎの内容に移っていたが、店内は身近に起きた殺人事件の話題一色に染まっていた。私は一人、話の輪からはずれておでんと刺身を平らげていった。
「お勘定頼みます」
 私が声をかけると店の主人は客との話を打ち切り、仕事の顔へもどった。
「はい、どうもありがとうございます。えーと、全部で二千三百円になります」
「ここ、現金払いでもいいんだよね」
「大丈夫ですよ」
 私は内ポケットから紙ナフキンを取り出した。中には平井富夫から受け取った三万円が入っている。この金を最初に使うのは平井の依頼を滞りなく実行できたときと決めていた。私は折り畳まれた紙ナフキンを開き、真新しい一万円札を一枚抜き取って、店の主人に渡した。
「一万円お預かりしま――おや、お客さん、この一万円札使ってもいいんですか」
「この店じゃその札は使えないのか」
「いや、うちはかまいませんが」
「なら、それでお勘定を頼むよ」
「あ、はい。じゃあ七千七百円のお返しです」
 私と店の主人のやりとりは、まわりの客の興味を引いたようで、また左隣の男が話しに入ってきた。
「おやっさん、お札がどうかしたのかい」
「ほら、見てみな。見たらちゃんと返しなよ」
 店の主人はカウンター越しに私の支払った紙幣を男に手渡した。私は釣り銭を財布にしまい、席を立った。
「おお、こりゃ福沢諭吉の一万円札じゃないか。ずいぶん久しぶりに見たなあ。こんなのがまだ新札であるんだねえ」
「そういや、いつから渋沢栄一になったんだっけ」
「たしか令和の初めの頃だったから、もう十年は経つんじゃないか」
「今年が令和十六年で、渋沢栄一に切り替わったのが令和六年だから、ちょうど十年だよ」
「よく覚えてんな」
「銀行勤務なんでね」
「なるほど」
「でもさあ、やっぱり昔の札の方が趣あるよなあ。ほら見てみな。裏だって鳳凰だぜ」
 旧札で盛り上がる客達の話を背中で聞きながら私は店を出た。夕方にはやんでいた雪が再び降り始めたらしく、歩道はうっすらと白くなっていた。
 振り返ると『よたろう』の真新しい暖簾が揺れていた。風も出てきたようだ。
 私は駅に向かって歩き始めた。すぐ脇を赤色灯を回転させた無人パトカーが音もなく追い抜いていった。

   ◇ ◇ ◇

 令和五年二月三日金曜日、午後十一時四十分。
 平井は静かな寝息をたてる郁子の横顔を穏やかな気持ちで眺めていた。
 今のこの気持ちを忘れないようにしよう。これからもずっと郁子を大切にしよう。
 平井は自分の布団に潜り込むと、天井を見上げた。寝室には夕食の牡蠣鍋の匂いが微かに漂っていた。平井は一つ深呼吸をしてから目を閉じた。

画像/John Hain(Pixabay)


深津十一(ふかつ・じゅういち)
一九六三年京都府生まれ。第十一回このミステリーがすごい!大賞優秀賞受賞作『「童石」をめぐる奇妙な物語』(宝島社)でデビュー。他の著書に『花工房ノンノの秘密 死をささやく青い花』(宝島社文庫)、『 デス・サイン 死神のいる教室』(宝島社文庫)、『デス・ミッション』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など。近作に『秘仏探偵の鑑定紀行』(宝島社文庫)。

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