見出し画像

和久井清水「尼ヶ紅」

 これは僕が、名作『尼ヶ紅あまがべに』の誕生する過程を目撃した時の話。

 敬愛する泉鏡花先生の弟子になって一ヵ月。僕は大学の授業が終ると、脇目も振らず神楽坂の先生のお宅へ行き、玄関横の三畳で執筆に勤しみつつ、弟子としての仕事をこなしていた。「それにしても」と、僕は筆を置いて、まだなにも書かれていない原稿用紙に肘をついた。
 牛鍋屋の社長、佐々山の若い妻が家庭教師と心中したかに見えた事件を、鏡花先生は見事に解き明かした。そのことを僕は幾たびも思い出す。あの血なまぐさい事件が、鏡花先生の手に掛かり、幻想的で情緒的な物語『悪獣篇』へと変貌するのを目の当たりにして、僕はますます先生に心酔し虜になったのだ。
 恋にも似た気持ちで、その一節を繰り返しそらんじる。
――時しも一面の薄霞うすがすみに、処々つやあるよう、月の影に、雨戸はしんつらなって……。
 佐々山家の蔵で、義理の息子に犯され自ら命を絶った若妻、稲の心情を、逗子の海で溺れる夢を見る女主人公ヒロイン、浦子が代弁する。浦子は夢とうつつの境界を行き来して、ついに悪獣に身をけがされる幻覚を見る。
 稲の奇禍は浦子の幻覚へと形は変えたが、その恐ろしさは現実を超えて、読む者の心胆を寒からしめるのだった。
 舞台が矢来町の佐々山邸ではなく、海辺の町なのは、以前逗子で胃病の療養をしたことが影響しているのだろう。実際には悪獣とは稲を陵辱した義理の息子であり、稲は死んでしまった。息子は官憲の手によって成敗された。しかし鏡花先生の物語では、悪獣は何とも知れぬ怪異であり、突然現れた石工がそれを海辺で祓ったのだった。
 現実を美しいベールで包み、なおかつ怪しく恐ろしい物語に仕立てる手法に、僕はめまいがするほどにときめいた。
 その時、「寺木くん」と先生の声がして襖が開いた。
 僕はびっくりして飛び上がった。
「あ、はい」
 なぜか頬が熱くなる。
「これをポストに投函して欲しいのですが」
「わかりました」
 先生に用を言いつかると、僕はいつも嬉しさのあまりおかしな所から声が出てしまう。今も妙に高い声が頭のてっぺんから出てしまった。
「ふふふ」と先生は笑って、「これは今週末までに到着しなければならない大切な原稿だから、確実にポストに入れてください」と言った。
「はい、大丈夫です。これからすぐに行って参りますから」
 大きな封筒を受け取ると、すぐに外に飛び出した。ポストは牛込停車場ステイションの近くにある。僕は近道をしようと、鏡花邸の裏手に回った。
 すると後ろから先生が追ってきた。
「寺木くん、裏道ではなく表通りを行きなさい。とても大切な原稿ですからね。万が一、賊に襲われて奪われでもしたら困るし、野良犬に襲われてもそばに人がいなければ、だれにも助けてもらえませんから」
 先生は眉根を寄せて僕を見ている。盗賊や野良犬に襲われる事を心底心配しているようだった。
「申し訳ありません。今後は気をつけます」
 表通りに走り出て神楽坂通りを駆け上った。
 大切な原稿をポストに入れる。その役目を仰せつかったことが嬉しかった。
 夏の太陽は照りつけるが、暑さをものともせず意気揚々とポストに向かったのだった。

 あかい。
 このあかはどうだ。
 俺が殺した露西亜兵の血の色。
 紅い。紅い……紅い。
 江崎えざき順吉じゅんきちは昼寝から目覚めた。と同時に低いうなり声を上げた。夢の中で見た色が、刺すように目に飛び込んできたのだ。
 一瞬夢との境界が崩れて、江崎は首を縮め身構えた。だがその色は、庭に植えられた満開の百日紅さるすべりであった。
 また戦争の夢を見ていた。
 江崎は一層の疲れを感じて、胸元に溜まった汗を浴衣の袖で拭った。
 縁側を開け放した八畳の居間に、ぬるい風が申し訳程度に吹き抜けている。その風にはわずかに線香のにおいが混じっていた。
 庭の向こうは墓地なのだ。江崎が妻の光子と一緒に間借りしてるのは、麻布谷町にある慈光院じこういんの離れである。
 慈光院は寛文年間に創建された古刹である。御一新の頃には徳川に縁のある女性にょしょうが、この離れで暮らしていたらしい。庭から墓地が見えることをのぞけば、女中部屋まである立派な離れだった。
 戦争から無事に帰って来られたのはよしとして、そのあとがいけなかった。悪い夢ばかりを見て、どうにも体が思うように動かないのだ。
 光子は友だちと買い物に行った。去年日本橋にできた百貨店デパートメントに行ったのだ。春にも一度行ったのだが、よほど気に入ったとみえ何度も一緒に行こうと誘われた。着物を買う予定もないのに呉服店に行くこともない。江崎がそう言うと、「そういうことをおっしゃるから、具合が悪いのですわ。ああいう賑やかなところへお出かけになれば、きっと気分も良くなりましてよ」と半分諦めたように言う。どう言っても江崎の気が変わらないことを知っているのだ。
 軒下へさげた籠の目白が、豆伊つい豆伊つい吉利吉利きりきりと可愛く囀る。中天にあった太陽が少し傾いて、縁先から八畳へと日が差してきた。
 江崎が再びまどろみかけた時、ふいに目白が騒いだ。続いて「旦那、旦那」と呼ぶ声がする。
「奥様はお出かけですか?」
 庭に六兵衛がのっそりと立っていた。逆光で見えないが、いつものようににやにや笑っているはずだ。六兵衛は寺男で、ちょっと見たところは五十歳くらいの老人に見えるが、江崎と同い年の三十二歳だという。
「いいもんを持ってきましたよ」
「なんだね」
 江崎は身を起こしながら言った。なにかと理由をつけて離れにやって来る六兵衛が、江崎はあまり好きではなかった。いつも光子がいる時を狙ったようにやってくるので、光子も六兵衛を嫌っていた。
 しかし今日は光子がいないことを知っているようである。
「旦那、今日も顔色が悪いですぜ」
 六兵衛は断りもなく縁側に腰掛けて言った。
「そんなんじゃ、奥様もさぞご不満でしょうよ」
 下卑た笑みを日焼けした顔に浮かべた。江崎は気分が悪くなった。帰ってくれ、と言いかけた時、六兵衛は持っていた麻袋をひょいと掲げた。なにか生き物が入っているようで中で動いている。
「すごいもんを見つけたんで、旦那のために生け捕りにしてきましたよ」
 そう言って麻袋の口を少し開け、江崎に見るようにいざなった。
 引き寄せられるようにいざり寄り、首を伸ばして袋の中を見る。
 あっと叫んでのけ反り、口を押さえた。袋の中で大きなまむしが一匹、のたくっていた。
「嫌ですよ、旦那。そんな情けない声を出しちゃ」
 六兵衛が馬鹿にしたように笑う。
「しかしその蝮、真っ赤じゃないか。そんなものは見たことがない」
「ええ、だから持ってきたんです。これのぎもを呑めばどんな病人だって治っちまう。旦那のは気の病ですから覿てきめんですよ」
 さあさあ、と江崎にまな板を持ってこさせ、蛇をその上に置いた。
「俺が押さえていますから、この小刀ナイフでひと思いにおりなさい」
「いや、おまえが殺ってくれ」
「だめですよ。自分で殺るから効果があるんです。まさか怖いわけじゃないですよね、大尉殿。露西亜人を何人も殺って手柄を立てたんでしょう?」
 六兵衛は小刀をそばに置いて、素手でまな板の上に蝮を押さえつけている。とてもじゃないが、蛇を触ることはできなかった。
 江崎の意を察したのか、六兵衛は言った。
「じゃあ、こうしましょう。俺がこうやりますから」
 と言って蝮の頭に小刀を突き立て、まるで鰻をさばく時のようにまな板に固定した。
「さ、早く。ピストルでお撃ちなさい。ピストルは得意でしょう。蝮が死んでしまわないうちに早く」
 急かされて、なにを考える暇もなく箪笥の抽斗から二十六年式拳銃を持ってくると、蝮の赤い目玉を目印に引き金を引いた。
 まな板は砕け、蝮の血がついた破片は縁側に飛び散った。あたりには生臭なまぐさいにおいが満ち、江崎の視界は真っ赤に塗込められた。おぞましい赤に取り込まれないよう、江崎は死に損ないの魚のように息をした。
 六兵衛は蛇の腹を割き、生き肝を取り出した。
 手のひらに載せ、「さあ」と江崎のほうへ差しだす。血まみれの肝はピクピクと脈打っている。
「生きてるうちに呑み込むんです」
 江崎はそれに手を伸ばした。その時、なぜ俺はこの男の言うがままになってしまうのだろう、という考えがよぎった。だが、これを呑まなければ息絶えてしまう気がした。江崎は素直に肝をつまみ上げると、それを呑み下したのだった。だが、生き肝は喉につかえ、いっこうに落ちていかない。江崎が胸を叩いて苦しんでいると、六兵衛は湯飲みに水を入れて持って来た。
「さ、これを飲んで」
 受け取って飲み干す。生き肝のせいなのか口の中一杯に苦い味が広がった。
 そこへ寺の尼がやって来た。
「なにか大きな音がしましたが、なんでございましょう」
 浄照尼じょうしょうにというこの尼は、古くからこの寺にいる尼で光子の遠縁の者だ。浄照尼の紹介でこの離れを借りることになったのだ。何くれと江崎夫婦の世話をしてくれる、六十過ぎの気のいい尼だった。昨年、本堂で転び骨を折ってからいつも杖を突いている。
「なんでもありませんよ。旦那が蝮を撃ち殺したんです」
 六兵衛の言葉が終わらないうちに、あたりの惨状が目に入ったのだろう、「ひっ」と痙攣ひきつけたような悲鳴を上げた。
「なんです、これは。六兵衛、おまえはまた殺生をしたのですね」
「殺したのは俺じゃないと言ってるだろう」
「それじゃあ、おまえの両手の血は何なんです」
 尼と六兵衛が言い争う声を聞きながら、江崎はふらふらと台所に向かった。呑み込んだ肝が胸のあたりにつかえて、息をするのも辛いのだ。水を飲んだが一向によくならない。
 居間に戻ると浄照尼は六兵衛を杖で打ち据えていた。どっちが先に手を出したのか知らないが、六兵衛が血まみれの手で掴みかかったのか、浄照尼の顔や衣が血で汚れていた。仲が悪いのは知っていたが、ここまでとは思わなかった。
「二人とも、いい加減にしたらどうです」
 胸のむかつきをこらえて間に入った。浄照尼の肩を掴んで六兵衛から引きはがす。
 浄照尼が怒りに歪んだ顔で振り向いた。
 江崎は、「あっ」と叫んで後退あとずさった。浄照尼の顔はもとより目も赤く光り、頭巾の取れた頭には箸ほどの太さの小さな無数の蛇が、赤く蠢いていた。
 その赤い色が射られたように目の中に飛び込んできた、と思った瞬間に江崎は意識を失ったのだった。
 光子の帰宅する音で目が覚めた。窓の外は明るく、江崎はなぜ自分が奥の六畳で寝ているのかわからなかった。一人分の布団が敷かれており、ご丁寧に毛布ケットまで掛けてある。
 はっとして、首を伸ばして縁側を見た。血まみれの、あの惨状がそのままではないかと思ったのだ。しかし飛び散ったはずの血は、きれいに拭き取られていた。砕けたまな板の欠片も見当たらない。箪笥の抽斗にはピストルもちゃんと仕舞ってあった。
 あれは夢だったのだろうかと思ったが、胸につかえた生き肝がたしかにある。やはり現実に起こったことらしい。
「あなた、お土産を買って参りましたのよ」
 光子は玄関の方から弾んだ声で、そう言いながら居間に入ってきた。だが、奥の間に敷かれた布団の上でぼんやり座っている江崎を見ると、顔色を変えた。
「まあ、どうなさったの? お加減が悪いんですか?」
「いや、違うんだ。昼に六兵衛が来たんでね、これから昼寝をするところだと話したら、気を利かせて布団を敷いてくれたんだよ。おかげで寝過ぎてしまった」
 光子に心配させないよう、嘘を交えて説明した。
「そうでしたの」
 光子はほっとしたように肩の力を抜いた。
「土産とやらを見せてくれ」
 胸のむかつきをこらえ、強いて笑顔で言った。光子はいそいそとバッグから小さな包みを取り出した。洒落た柄の手巾ハンケチだった。自分用に買ったレエスの手巾も見せ、大事そうに箪笥に仕舞うと夕飯の支度に取りかかった。ここへ来てから二人の女中を雇ったが、なぜか長続きせずすぐに辞めてしまう。浄照尼が探してくれているが、まだ見つからないのである。
 と、庭に六兵衛が顔をのぞかせた。
「旦那、具合はどうです? 急にひっくり返っちまったんで驚きましたよ」
 どうやら心配して様子を見に来たようだ。
「布団に寝かせてくれたのはおまえかい?」
「いえ、あの尼ですよ。俺は蛇の残骸を始末しました」
「そうかい。ありがとう。しかしあの生き肝がこのあたりにつかえて、どうにも気持ちが悪いんだ」
 江崎は胸のあたりをさすった。
「そのうち消化しますよ。心配いりません。それより俺は暇をもらうことにしましたよ。あの尼と顔を突合わせるのはもうごめんだ」
 たしかに六兵衛はここを辞めたほうがいいだろう。浄照尼とあれほど仲が悪いのだから。
「尼には気をつけたほうがいいですぜ」
「なぜだね」
「旦那の体の具合が悪いのはあいつのせいです。奥様と仲がいいのを妬んでいるんですよ」
「まさか」
「いいや、間違いないですよ。旦那を呪っているんです。俺は見たんですよ。墓場からこの家に向かって妙な呪文を唱えていました」
「なぜ私が憎まれにゃならんのだ」
「違いますよ。憎まれているのは奥様です。若くて美しくて、あなたという夫までいる。浄照尼にはないものばかりです。だからまず、旦那を呪い殺して、奥様を苦しめた上で次は奥様を殺すつもりなんです。だから俺は蝮の生き肝を旦那に呑ませたんです。尼の呪いに打ち勝つように」
 六兵衛は、「女の嫉妬は恐ろしい」としみじみと言った。
 長らく仏門で修業を積んだ尼がそんなことをするだろうか、という疑いはあった。だが、近頃の体調の悪さを思うと、六兵衛の言うことが真実らしく聞こえてくる。
「六兵衛、どうすればいい」
「すみませんが俺にはどうしようもない。旦那がなんとかするしかない。奥様を守るんです。自分でならないんです」
 六兵衛は決意を迫るように一歩踏み出した。
「いいですか。あの尼は蝮を使って、また旦那を襲いますよ。今度は間違いなく殺されるでしょう。殺される前にるんですよ。蝮の目玉を狙って撃つんです。ピストルで」
「あなた、どなたか見えてるの?」
 光子が台所の方から前掛けで手を拭きながらやって来た。
「ああ、六兵衛だ。ここを辞めるそうだよ」
 江崎は振り向いて言う。光子は、怪訝な顔で庭先に目を遣った。
 見ると庭から六兵衛の姿は消えていた。
「なんだあいつ。挨拶もしないで帰ったのか」
 光子がなにかを怖れるような顔で江崎を見ていた。

 原稿をポストに入れようとすると、もの凄い威圧感でそばに立っている人がいる。
 尾崎紅葉先生だった。
「どうも、こんにちは」
 僕はへどもどしながら頭を下げると同時に、原稿の入った封筒を投函口に滑り込ませた。
「おまえはたしか、鏡花の弟子だったな。鏡花の原稿か?」
「はい。お使いを頼まれまして」
「ふん。珍しいこともあるものだ」
「珍しい?」
「ああ、鏡花が原稿の投函を人に頼むなんて、信じられん」
 突然、紅葉先生は僕の頭越しに、「そこでなにをやっておるのだ。鏡花」と怒鳴った。
「え? 鏡花?」
 僕が問い掛けると同時に、風のようにだれかが走って来て、紅葉先生の前でばたりと土下座をした。
 鏡花先生だった。
 慌てて僕も土下座をする。
 見れば鏡花先生は手のひらを上に向けていた。これは新しい宗教かなにかなのだろうか。妙だと思いながらも先生に倣った。
 すごく変だ。
 鏡花先生がここにいるのも、土下座をしているのも、まるで教祖を崇めるように手のひらを上に向けているのも。
「なにをやっていたんだ」
 重々しい声が頭の上から降ってくる。
「はっ、確認しておりました」
 鏡花先生は平伏したまま言った。
「またか。それで確認は終わったのか」
 紅葉先生の声は意外にも優しさが籠もっている。
「これから、でございます」
 鏡花先生は立ち上がって袴の埃を払った。
 僕も先生の後ろに隠れるようにして立ち上がった。
「では、さっさと確かめろ」
「それでは失礼して」
 鏡花先生はポストの周りを三遍回り、「終わりました」と一礼して立ち去った。
 その後ろ姿を、紅葉先生と二人見送った。
「あのう、これはどういう……」
「鏡花はな、投函口にちゃんと入ったかどうか、確認しないと気が済まないのだ。昔は延々とポストの周りを確かめていたんだが、今みたいにちょうど俺が通りかかってな、確認するのは三回にしろと言ったんだ」
「はあ」
 僕の声がよほど情けなかったのだろう。紅葉先生は「気にするな」と僕の肩を叩いた。
「おまえを信用していない、というわけじゃないんだ。そういう性分なんだ」と僕の肩を、またバンバンと叩いて行ってしまった。
 気にするなと言われても、鏡花先生は僕がへまをするのではないかと心配で、ずっとあとをつけてきたのだ。僕がそんなに頼りなく見えるのか、と思うと情けない気持ちで心が沈むのだった。 

 光子はその日、叔母に呼ばれ四谷の家に行っていた。一人暮らしの叔母はたいそうな寂しがり屋で、風邪を引いた後なかなか元の調子に戻らず、近頃はたびたび光子を呼ぶのだった。夫の昼食を用意し、叔母のために煮物などを持って朝から出掛けた。すぐに帰ってくるつもりだったが、いつも叔母に引き止められて長居をしてしまう。その日も麻布谷町の寺に着いた時には、昼をずいぶん過ぎていた。
 庫裏の横手の道に差し掛かると、柴折戸しおりどのそばに六兵衛がいた。見ると金槌を手に柴折戸の建て付けをなおしているようだ。あまり会いたくはないが、ここで引き返すのも気まずいので、「ご苦労さま」と声を掛けた。
「お帰りなさいまし。今日はどちらにお出掛けで?」
「ええ、ちょっとそこまで」
 お愛想の笑みが引き攣る。六兵衛が大きな目玉で無遠慮に見つめてくるので気味が悪い。
「旦那はお加減が悪いようですね。昼にちょいとお喋りに行ったんですが、えらく顔色が悪くてね。ちょうど昼飯が終ったところで、横になるとおっしゃるんで布団を敷いて差し上げました」
「まあ、それはお世話様」
 家を出るときは、いつもに比べて元気そうだった。だが、一日のうちで急に具合が悪くなることもある。
 急いで夫のもとに行こうとすると、六兵衛が前に回って話を始める。
「このところ、旦那のお加減はよくありませんね。奥様もさぞご心配でしょう」
 いつになく真情にあふれた面持ちなので、光子はついほだされて「ええ、ほんとうに困ってますの。どうしたら治るのかわからないんですもの」と零した。
「いっそ住いをかえてはどうでしょうね。こんな辛気くさい寺なんぞで暮らしていると、いつまでたっても気が晴れませんよ」
 六兵衛の言うことはもっともだと思う。庭の向こうに墓石やら卒塔婆やらがいつも見えているのは、夫の精神によくないかもしれない。
「俺の親戚が江ノ島で旅館をやってましてね。繁盛して忙しいんで手伝ってくれ、って言うんですよ。俺のために小綺麗な家まで用意してくれたんで、そろそろ身を固めてそっちに行くつもりなんです」
 六兵衛がこの寺を辞めるそうだ、と以前夫が言っていたのはこのことだったらしい。
「それはよかったですわね」
 六兵衛は、江ノ島の旅館についてあれこれと話だし止まらなくなった。ずっと気味の悪い男だと思っていたが、こうして話してみると案外気のいい人なのかもしれない。
 その時、庫裏の向こうから大きな音がした。
 パンという乾いた音は、夫が撃ったピストルの音に違いない。近頃どういうわけか、夫は庭で射撃の練習をするようになったのだ。
 だがこの日、聞こえたのは一発だけだった。しかも発射音のあとに、まるで獣が吠えるような声が聞こえた。長く低く沈鬱な叫びだった。
 光子と六兵衛は思わず顔を見合わせた。
 なにか尋常ならざることが起きている。
 二人は同時に離れに向かって走り出していた。

 鏡花先生は僕のことを、役に立たない弟子だと思っているのではないか。郵便ポストの一件があってから、僕は鬱々として楽しまない日が続いていた。鏡花先生はいつもと変わらず、沈着冷静でほとんど感情を表に出すことはない。そんなところも僕は尊敬していたのだが、冗談めかして、あれはどういうことですかなどと訊くこともできない。ポストの周りを三遍回ったのは、僕のそそっかしい失敗を危惧してのことではないのですよね、と確認したい。紅葉先生は、ああおっしゃったが鏡花先生の口から聞いて安心したかった。
 こうなってみると、弟子にしてもらったことも、実は僕のしつこさに負けて嫌々弟子にしたのではないかと疑いたくなってくる。
 どんなふうに先生との距離をとっていいのか、わからなくなってしまった。丸眼鏡の向こうの理性的な目を、僕はなんとなく恐れるようになっていた。
「寺木くん。すまないが、天井のあれを張り替えてもらえませんか」
 鏡花先生は玄関横の三畳間の襖を、がらりと開けて言った。
「はい。わかりました」
 さっきまでの憂鬱な気分は雲散霧消した。僕は張り切って部屋を飛び出して、三歩ほど行ったところで立ち止まった。
「先生、天井のあれ、とはなんですか?」
「うむ。こっちです」
 居間に入って天井を指さす。
「あそこが一枚、剥がれかかっているでしょう」
 天井の羽目板のすべての継ぎ目には、細長い紙が貼ってある。これは初めてこの家に来た日に、目を回してひっくり返るという失態を演じた時に見ている。赤いトウモロコシがたくさんぶら下がり、雷よけのお札も貼ってあるので、継ぎ目の紙もその類いのものだと思っていた。
「ええっと。どこですか?」
 先生が指さすほうを見ても、どの紙もぴったりと貼り付いているように見える。
「ほら、そこですよ」
 一向に見つけられない僕に業を煮やした先生は、箒を持ってきて、柄でその紙を指し示した。
 目をこらして数十秒間見つめ、ようやく紙の角が一分いちぶほど剥がれているものを見つけた。
「あった。ありました。あの爪の先ほど剥がれている紙ですね」
 鏡花先生は満足そうにうなずいた。
 踏み台を持ってきて上がり紙を剥がすと、それはお札でもなんでもなく、ただの白い紙だった。
「これはなんですか? なぜこんな紙を貼っているんですか?」
 鏡花先生は僕の問いには答えず、剥がした紙を見て言った。
「すごい。こんなに埃が取れている。大したものだ。この紙が受け止めなかったら、私たちはこれを吸い込んでいたのですよ」
 ぐいと腕を伸ばして差し出した紙を見ると、どこにも埃などついていない。
「あのう、どこに埃がついているんですか?」
「見えないのかね。この憎むべきおぞましい埃が」
 僕は顔を極限まで近づけ、目に力を入れた。もし、埃が見えなければ破門されるかもしれない、という恐怖が襲ってくる。
 息を止め、どうか見えてくれと念じると、紙の上に微細な埃が見えた気がした。
「見えました。たしかに見えました。埃です。茶の間の空気中に落下しようと企んだ憎っくき埃が、みごとこの紙に捕らえられています」
 僕と先生は顔を見合わせて笑った。
 そこへ隣家の女中、マツさんがやってきた。裏口から入ったようで、台所のほうから走り込んできた。
「ああ、よかった」
 なにがよかったのか、一人安心顔で、そばにある長火鉢から土瓶を持ち上げ、勝手に湯飲みに湯冷ましをついで飲んでいる。
「マツさん。よかった、というのは……」
 僕が言い終わらないうちに、マツさんは言った。 
「それじゃあ、行きますよ」
「え?」
 僕が頓狂な声を上げたのに対して、鏡花先生は「わかりました」と重々しくうなずいて出かける支度をする。
「ほれ、あんたも行くよ」
 僕はこわごわマツさんの目をのぞき込んだ。以前に赤銅色に光ったのを見て、僕は目を回したのだ。しかし今日は光っていない。
「あのう、どこへ行くのでしょうか?」
「麻布谷町の慈光院だよ。あそこの庵主様が殺されたんだ」

 僕たちは、壁に背中をもたせかけて死んでいる尼僧を見下ろしていた。
 慈光院の離れの縁側には夏の光が差し込んで、風を通していない部屋の中はかなりの暑さだった。
 死体となった浄照尼は、頭巾がとれて剃り上げた頭がむき出しになっており、苦悶を浮かべた顔を一層不気味なものにしていた。紫の衣は血で黒く光り、白足袋は赤く染まっていた。
 一緒に人力車に乗って、ここまでやって来たマツさんは、慈光院の門前で「それじゃあ頼んだよ」と言ってこちらを振り返った。見るとマツさんの目は赤銅色に光っていた。その目を見た瞬間に、僕は自分の役割を思い出したのだった。
『わかりました。任せてください』
 体の中から使命感のようなものが、ふつふつと湧いてくる。
『先生、こちらです』
『うむ』
 鏡花先生も厳しい顔でうなずいた。普段の先生とはずいぶん違っていて、堂々たる風格のために体も一回り大きく見えた。
 そして今も、眼光鋭く浄照尼の遺体を検分している。
「まあ、今回は疑問の余地はありませんな。せっかく来てもらいましたが、犯人ははっきりしています」
 藤ノ木警部がそばでカイゼル髭をひねりながら言った。
「この離れの住人、江崎順吉がピストルで浄照尼の胸を打ち抜いた。ピストルの音を聞いて最初に駆けつけたのが、寺男の六兵衛でしたね。その時の状況を詳しく教えていただけますか」
 僕は藤ノ木警部の話の要点を手帳に書き付けていった。
 六兵衛が庫裏の横手の枝折戸の修理をしていると、離れのほうからピストルの音と男の叫び声が聞こえた。たまたま外出から戻った江崎の妻、光子もそこにいたので、一緒に離れに急いだ。
 すると江崎がピストルを持って、腰を抜かしたように座り込んでいた。その向かい側の壁には浄照尼が左胸から血を流し、こちら向きに座っていた。
 江崎は露西亜との戦争から戻ったあと、精神を病んでいて尼を異常に恐れていたという。
「それは六兵衛の話なんですよね。妻の光子はなんて言ってますか?」
「光子はピストルを持っている江崎を見てショックを受け、気を失ってしまったのです。一度は目を覚ましたのですが、錯乱状態だったので医者を呼んで鎮静剤を打ってもらいました。もうしばらくは目を覚まさないでしょう。江崎のほうも、まったく正気を失っていて話を聞ける状態じゃなくて困っています。まともなのは六兵衛だけなんですから」
 遺体のようすを子細に調べていた鏡花先生が、すっと立ち上がった。
「正気を失っているとは?」
「訳のわからないことを口走っておりましてね」
 江崎は蛇を殺したのだ、とうわごとのように繰り返しているという。江崎夫婦の話が聞けるのはもう少しあとになるようだ。
 鏡花先生が庭へ下りたので、僕もついて行く。
 庭から座敷の中を角度を変えながら、しばらくの間見ていた。そのうちに庭を出て、墓場をうろうろと歩き回った。
「見てご覧なさい。道ができている」
「え、そうですか? どこにですか?」
 鏡花先生は少しイラついて、「ほら、こちらから向こうに、人の踏みしめた跡があるでしょう」と言った。
 僕はまたしても目をこらして、先生の指さす所を見つめた。息を止めて数分。かすかに人が踏みしめた跡のようなものがある。それは裏道へと続いており、反対側は墓地の奥にある大きな家へと続いているようだった。
「見えました! ここから、こっちと、それから向こうへ」
「うむ」
 鏡花先生は大きくうなずいた。お褒めの言葉があるかと思ったが、特になかった。
 僕たちはその道をたどり、墓地の奥へと歩いていった。
 大きな二階建ての家は学生相手の下宿屋のようだ。学生が三人、玄関の前で煙草を吸いながら雑談をしている。
「ちょっと、お伺いしますが」
 鏡花先生は丁寧に頭を下げて言った。
「向こうの裏道へ行くのに、墓場を通っていますね」
 墓場を通っていることに文句を言われると思ったのか、三人とも気まずそうに顔を見合わせた。裏道に行くための近道なのだ、というようなことを、もごもごと言う。
 先生は、裏道へ出るためには、慈光院の離れの前を通らなければならない、離れで怪しい人影を見なかったかと訊ねる。なんだそんなことか、とほっとしたように背の高い男が話しだした。
「特に怪しい人物は見なかったですよ。あそこのご主人と奥さんが、仲よさそうに縁側にいるのをよく見かけるだけです」
 すると後ろから小太りで髪を短く刈り上げた男が口を挟んだ。
「なんだ知らないのか。近頃はみんなが物騒だと言ってそこを通るのを敬遠していたじゃないか」
「そうだよ。あそこの旦那は最近、少し変だからな。目の焦点があっていないというか」
 もう一人の角帽を被った男も、さも気味悪そうに言った。
 それなのに、庭に立てた的に向かって拳銃を撃っているのだという。いつ流れ弾が飛んでくるかわからないので、みんな近道をするのはやめているのだそうだ。
 鏡花先生は、的はどんな的だったか、とかそばにだれかいなかったか、などと細かく訊いた。
 離れに戻ると、ちょうど若い巡査がやってきて、藤ノ木警部に耳打ちをした。
「以前、ここで女中をしていたおトキという女が来ているそうです」
 庫裏のほうに待たせているので、一緒に行きましょうと藤ノ木警部は言う。離れから長い渡り廊下を通って行くと板の間に出た。板の間を真っ直ぐに進むと本堂に出る廊下があり、右手には台所と土間。左手には中央に囲炉裏を切った居間がある。
 囲炉裏端には、おトキらしい中年の女が肩を落として座っていた。髪だけは豊かでつやつやとしているが、顔の皮膚はたるんで年相応に老けている。
 藤ノ木警部が向かいに座り、その横に鏡花先生が座った。僕は鏡花先生の少し後ろに陣取って、手帳と鉛筆を手に、一言も聞き漏らすまいと身を固くした。
「あなたは半年前まで江崎さんのところの女中だったそうですね。今日はなぜこの寺に来たのですか?」
 藤ノ木警部は厳かな声と態度で訊いた。おトキは大きな体を縮こめるようにして答える。
「庵主様から今日のお昼に来るようにと言われていたんです」
「でも、あなたはさっきここに来たのですよね」
「はい」
 おトキは自分が悪いことをしたかのように、泣きそうな顔になった。
「一度、正午に来たんです。でも、庵主様はいらっしゃらなくて。それで、私は時間を間違えたのだと思いました」
 浄照尼は朝のお勤めを終えた後に朝食を取る。昼食はいつも遅めで、午後二時頃になるのだった。
 おトキは「お昼に来い」と言われて十二時ちょうどに来たが、浄照尼の姿が見えないので、お昼というのは、お昼ご飯を食べる時間のことだったのかと思い、出直してきたのだそうだ。
「庵主様はどんな用事であなたを呼んだのですか?」
「はっきりとは聞いていませんが、六兵衛がここを辞めるかもしれないので、人手が足りなくなるという話じゃないかと思ってました。実を言うと、私は六兵衛と合わなくてここを辞めたんです。どうもあの人が気持ち悪くて。そのことは庵主様も知っていたので、またここで働かないかというお話かなと思っていました」
 その庵主が死んでしまって、おトキはひどくショックを受けているようである。
「庵主様と江崎さんの関係はどうでしたか? なにか揉めているようなことはありませんでしたか?」
「私は辞めてから半年たちますが、時々庵主様と会っていました。でも、そういう話は聞いていません。庵主様も旦那様もとてもいいかたです。それに奥様も」
 江崎が浄照尼を殺すなどということは信じられない、と言って涙を拭った。
「江崎は庵主様を怖れている、という話を聞きましたが」
「そんなことはないと思います」
 おトキはきっぱりと言ったが、辞めてから半年たっているのだから、あまりあてにはならないだろう。
「庵主様を恨んでいるような人はいませんでしたか?」
 鏡花先生が、そう訊いた。僕と藤ノ木警部はちょっと驚いて先生を見た。状況からして江崎が浄照尼を射殺したことは疑いないのに、なぜそんなことを訊くのだろう。
 おトキは首を横に振った。
「庵主様は人に恨まれるようなかたではありません。みんなに尊敬されていましたし、好かれていました。でも、六兵衛だけは庵主様を馬鹿にするようなところがあって、庵主様も六兵衛のことは嫌っていたと思います」
「なぜ六兵衛は庵主様を馬鹿にするのですか?」
「あの男は性格が曲がっているんだと思います。庵主様のような立派なかたを嫌うなんてどうかしてます。ですから近頃では庵主様のほうも六兵衛を疎んでいました。嫁をもらって江ノ島に行くなんて言ってましたけど、あんな男の嫁になる人なんかいませんよ」 
 おトキはいかにも腹立たしい、というように言った。
「江ノ島?」
「はい。親戚がそこで旅館をやっているので、手伝いに行くそうです。まるで結婚する相手も決まっているみたいに、得意げに話してました」
 鏡花先生は眼鏡の奥の目を、すっと細めて「なるほど」とつぶやいた。
 江崎の妻、光子が目を覚ましたというので、おトキと入れ替わりにやってくる。
 巡査に手を取られ、歩いてくる姿が幽鬼のようだ。美しい顔立ちをしているだけに、いつか見た幽霊画を思い出した。
「ご主人と庵主様との関係に問題はありませんでしたかな」
 藤ノ木警部がそう訊くと、光子は激しく首を横に振り、手巾を顔に当てて泣きだした。
「主人が庵主様を殺す理由なんてなにもありません。何かの間違いです。きっと間違いなんです」
 光子は声を上げて泣いた。
 間違えて殺したと言いたいのか、それとも江崎が殺したというのが間違いなのか、どちらとも取れる言い方をした。
 藤ノ木警部は、光子が泣き止むのを待って再び口を開いた。
「ご主人が庵主様を怖れていた、という話を聞きましたが、本当のところはどうなんですか?」
「主人と庵主様は以前は仲はよかったんです」
「ということは、近頃はよくなかったということですか?」
 光子は渋々、という感じでうなずいた。
「主人は病気なんだと思います。戦争から帰ってからは、悪い夢を見てうなされることがあったのですが、最近はそれがひどくなって、昼間でも悪夢を見るようです」
「昼間?」
「ええ、どういうわけか、よく昼寝をするようになって、起きているのか眠っているのかわからない感じで、おかしなことを言ったりするようになりました。
「おかしなこととは、どんなことですか?」
「主人の目には何かが見えていたみたいで、蛇がいるとか、六兵衛さんがいるとか」
「医者には診せていたのですか?」
「いいえ、主人はお医者が嫌いでしたので。六兵衛さんが持ってきてくれた蛇の……」
 とそこまで言って光子は手巾を一度口に押し当てた。
「蛇の肝を呑んだので、きっと元気になると言っていました。でも、少しもよくならなくて、余計に悪くなったような気がします」
 光子は口に当てていた手巾を今度は目に当てた。
「今日は朝から出かけていたそうですね」
「はい。叔母の家に行っておりました」
「そして帰ってきたら銃声が聞こえたのですね」
「はい」
 柴折戸の修理をしていた六兵衛と立ち話をしていると、ピストルの音が一発聞こえた。六兵衛と一緒に急いで庭を横切って離れのほうに行った。縁側は開け放してあり、夫の江崎がピストルを手に持ったまま放心したように座り込んでいた。
 六兵衛は縁側から駆け上がって、江崎の正面にあるものを見て光子へ振り返った。
『奥さん、こっちに来ちゃいけない。庵主様が撃たれて死んでいる』
 六兵衛は縁側から飛び降りて、光子を庫裏に連れて行った。
『旦那が殺したようですね。胸に大きな穴が開いていましたよ』
 光子はそれを聞いて気を失ってしまった。
 思い出しても恐ろしいのだろう。青ざめた顔で身を震わせている。
「では、あなたは庵主様の遺体は見ていないのですね」
 鏡花先生がまるで光子を責めるように言う。
「はい」
 光子は震える声で答えた。
「奥さん、家の中でなくなったものがあるはずです」
 鏡花先生は光子と警部を促して離れに向かった。なくなったものを探すなど、たとえ自分の家でも難しいのではないだろうか。
 しかし先生は、「白い布で、たぶんそれは大きなもの」と言った。
 カーテンか敷布、あとはテーブルクロスくらいしか思いつかない。
 光子はまっすぐに箪笥の前に行って引き出しを開け、敷布の枚数を数えた。
「敷布が一枚足りません」
「警部、六兵衛はどこにいますか?」
 鏡花先生は珍しく慌てている。
「さっき家に帰っていいと言いましたが」
 警部は若い巡査を呼んで、六兵衛を連れてくるように言った。
「もし、ゴミを焼いていたらやめさせてください」
 鏡花先生は巡査にそう言って、急ぐようにと付け加えた。
 少しして巡査が六兵衛を連れてきた。
「ゴミを焼いておりましたので、水を掛けて消しました」
「いったいなんだよ。俺がなにをしたっていうんだ」
 六兵衛は巡査に掴まれた腕を乱暴に振りほどいた。
 鏡花先生はずいと六兵衛の前に進み出て、鼻先に指を突きつけた。
「六兵衛、庵主様を殺したのはおまえだな。そして江崎さんに罪を着せようとした」
「なに言ってるんだ。俺は奥さんと一緒にいる時に銃声を聞いたんだ。旦那が庵主様を殺したのは、奥さんだって見ているんだぞ」
「奥さんは見ていない。奥さんが見たのは、ピストルを撃ったあとのご主人の姿です。庭からは江崎さんの姿は見えますが、庵主様の遺体は見えなかった。おまえは遺体を見せないように、奥さんを庫裏に連れていったのです。そして遺体からあるものを持ち去った。
 柴折戸の修理をしていたというのも、奥さんを待ち伏せしていたのでしょう。江崎さんがピストルを撃つまでは、うまいことを言って引き留めておくつもりだったのですね。
 銃声が鳴ったあと、もし奥さんが庵主様の遺体を見ていたら、とんでもないものを目にしていたでしょうね」
 六兵衛は目をそらして「ふん」と負け惜しみのように鼻を鳴らした。
 鏡花先生は巡査に、六兵衛がゴミと一緒に焼こうとしていた敷布を持ってこさせた。
 水に濡れた敷布は半分ほどが焦げていたが、中央からやや上側に大きな穴が開いていた。その穴の周りには、塗料で丸く二重に円が描かれていた。
「鏡花先生、これはどういうわけですか?」
 藤ノ木警部が髭をひねりながら訊く。僕もまったくわけがわからなかった。
「六兵衛はなんらかの方法で庵主様を殺したのですよ。たぶん鋭利な刃物ではないでしょうか。私の予想では、その凶器は江崎さんの持ち物の中から見つかるでしょう。おトキさんが正午にこの寺にやって来た時には、すでに六兵衛によって殺されていたのです。
 庵主様が殺された時、江崎さんは六兵衛によって飲まされた薬で眠っていたはずです。これもあとで藤ノ木警部が明らかにしてくれるでしょう。
 六兵衛は二重の円を描いた敷布を庵主様の遺体に掛けた。円の中心がぴったりと左胸の刺し傷に重なるように。江崎さんは近頃、射撃の練習をしていました。練習には的を使っていましたね。そうですね?」
 光子はうなずいた。
「的にはこれと同じ二重の円が描かれていたはずです。二重の円は伝統的に蛇の目を表現しています。六兵衛は蛇を殺すようにと暗示を掛けていたかもしれません。薬で朦朧としていた江崎さんは、庵主様に掛けられた敷布の的を撃ってしまったのです。私は銃創にわずかな焦げた繊維が付着しているのを見つけました。それは庵主様の衣とは違っていて、もとは白い木綿ではないかと思われました。
 もし江崎さんがピストルを撃たなくても、なんらかの理由をつけて敷布を密かに取り除き、江崎さんが殺したとするつもりだったはずです。ですから真に庵主様を殺害した凶器はこの離れにあるのではないかと思うのです」
 六兵衛はふてくされたようすで、「なんで俺が庵主様を殺さなきゃならないんだ」と言った。
「おまえは庵主様を嫌っていた。そして嫁をもらって江ノ島に行くと言っていました。江崎さんを犯人に仕立て上げ、夫が殺人犯となり打ちのめされている光子さんを口説いて、一緒に江ノ島に行くつもりだったのではないですか。おまえがいくら否定しても、敷布を焼こうとしたのがなによりの証拠です。ねえそうでしょう? 藤ノ木警部」
 警部ははっとして「そう。その通りだ。六兵衛を署に連行しろ」とそばにいた巡査に命じた。

 慈光院を出ると、どこからともなくマツさんが現れた。
「どうだった? 犯人はわかったのかい?」
「ええ、先生が見事、真犯人を言い当てました」
 僕は得意になって言った。しかし先生は、「真犯人を特定するのは警察ですよ。これから証拠固めをすることになるでしょう」と謙虚に答えた。
 マツさんは皺のよった顔でにやりと笑った。なにか言うかと思ったら、なにも言わない。僕の頭にふと疑問が浮かんだ。むしろ、さっきまでなんとも思っていなかったのが不思議なくらいだ。
「マツさんはどうして僕たちをここに連れて来たのですか?」
「過ちが行なわれようとしていたからだよ」
 僕はその通りだと思い、心の中で深くうなずいた。もし鏡花先生がいなかったら、ピストルを撃った江崎が浄照尼を殺したのだ、とだれも疑わなかっただろう。
 少し遅れて、なぜマツさんがそれを知っていて、なぜ鏡花先生をここへ連れて来たのか、という質問の答えになっていないことに気付いた。
 僕が重ねて訊ねようとした時、鏡花先生が空を指さした。
「ご覧なさい。あの夕焼けを」
 まだ青さの残る空に、刷毛で一振り描いたような雲が浮かんでいた。雲は濃い紅色に染まっていた。
「尼が紅だねえ」
 マツさんが感に堪えないように言う。
「なんですか? それは」
「ああいう夕焼け雲を『尼が紅』というのだよ」
 鏡花先生が代わりに答えた。
 僕たちは空を見上げ、亡くなった浄照尼を悼んだ。鏡花先生が口の中で「尼が紅」と何度も繰り返す。たぶん、次の作品のタイトルにするつもりなのだろう。

 慈光院の事件があってから、五日ほどたったある日、藤ノ木警部の遣いだという若い巡査がやってきた。鏡花先生が言ったとおり、江崎の書類箱から小刀ナイフが見つかった。それは新聞紙に包まれており、血を洗い流したあとがあったという。光子に確かめると、江崎の小刀ではないと言う。六兵衛の家からは抱水ほうすいクロラールが見つかった。度々、江崎に飲ませてどのくらいの時間で目覚めるかを実験していたらしい。
 厳しい取り調べが始まって間もなく、六兵衛は自供を始めた。動機や殺害方法も、おおむね鏡花先生の推理通りだった。
 鏡花先生のおかげで、正しい裁きが行なわれることは、僕にとってもこの上ない喜びのはずだ。
 だが、僕の心は沈んだままで少しも喜びを感じることができなかった。なぜならあの日、慈光院から戻って僕と先生、そしてすずさんの三人でお茶を飲んでいると、先生がいつになく慌てたようすで立ち上がった。
 飲みかけの湯飲みに手で蓋をしながら、「寺木くん」と僕を叱ったのだ。
「あそこの紙を貼っていないじゃないですか。埃が落ちてくるじゃないか」
 先生は顎で天井を指した。あの紙を剥がしたところで、マツさんに呼ばれ出掛けてしまったのを思い出した。
「申し訳ありません」
 僕は畳に額をこすりつけて謝り、すぐに踏み台を持ってきた。すずさんが細長く切った紙と糊を手渡してくれた。
 羽目板に紙は貼ったが、僕は自分の失敗が許せなかった。温厚な先生が、普段よりちょっとだけ声を大きくして僕を叱ったのも、かなりショックだったのだ。
 あれから何日もたつのに、僕は気持ちを立て直すことができないでいた。先生の前では変わりなく振る舞っていたが、こうやって玄関脇の三畳に一人でいると、鬱々とした気分に襲われるのだった。
「寺木くん、すまないがあんパンを買ってきてくれませんか」
 先生が襖を開けて、ほんとうに済まなそうな顔で言う。
「なんだか急に食べたくなってね」
「わかりました。すぐに行って参ります」
 僕は弾けるように立ち上がると、外へ飛び出した。さっきまでの憂鬱な気分はどこかに消えていた。
 先生は今、『尼ヶ紅』の執筆中である。あの事件が今度はどんな物語になるのか、僕は楽しみでならない。自分の買ってきたあんパンがその一助になるのだと思うと、嬉しくてたまらないのだ。
 紅色に染まったちぎれ雲が、ゆっくりと流れていった。
 

〈了〉

 

和久井清水(わくい・きよみ)
 北海道生まれ。内田康夫の未完作品を書き継ぐ〈『孤道』完結プロジェクト〉にて最優秀賞を受賞、二〇一九年『孤道 完結編 金色の眠り』(講談社文庫)にてデビュー。近作に『水際のメメント きたまち建築事務所のリフォームカルテ』(講談社文庫)、『かなりあ堂迷鳥草子』(講談社文庫)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?