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トミオ石(2)

深津十一

トミオ石(1)からの続きです。
次第に石の魔力にとり憑かれていく理科教師・小谷は……
不思議で少し不気味な短編小説、完結編です。

 喉元過ぎれば――ということになるのだろうか。
 男の家から逃げ帰った先週土曜日の夜には、布団の中で、もう二度と関わり合いを持つまいと決めたはずなのに、週半ばの昨日あたりからその決心がぐらつき始めている。
 学校生活自体は順調だった。
 初日の授業でのくすくす笑いの理由もわかったし、あの日に男の家に同行した三人の生徒たちが私に親しみを持ったようで、それが他の生徒たちにも徐々に伝わりはじめているのを感じていた。少しタイミングが遅くなったが、すべてのクラスで恒例の鈴石の披露も行い、どこからも上々の反応が返ってきた。
 こうして気持ちにゆとりができたからだろうか、授業の空き時間や放課後に、ふと気がつけば男の持つ珍しい石のことを考えている、ということが多くなってきた。

 ――珍しい石がまだたくさんあるんだけどな。じゃあまた来週ね。

 魚石は結局偽物だったが、別の珍しい石があり、それは間違いなく本物だという。
 水入り針水晶などとは別次元の、魚石と同じような珍しい石の本物があるというのなら、それを見たくないわけがない。
 男の家では、たしかに気味の悪い思いはした。だけど実質的な被害を受けたわけではない。冷静に思い返してみれば、男の言動は始終やわらかな物腰だった。ただ私のこれまでの常識から少しばかりはみ出していただけのことだ。
 七十万円で買った石を割ってはいけないと誰が決めたのか。
 床が一面石だらけであることに、なんの問題があるというのか。
 放課後になると一人理科準備室に籠もり、淹れたてのコーヒーをすすりながら、自分自身への言いわけばかりを考え続けた。

 土曜日が来た。
 私は村の商店街で買った和菓子の詰め合わせを手土産に、男の家を訪ねた。
 門をくぐって正面の母屋を見ると、男の母親と思われる和服姿の老女が、先日の夕刻と同じ目つきでこちらを睨んで立っていた。明るければ大丈夫。一瞬のためらいを追い払い、私は老女に向かってゆっくりと歩み寄った。
「S中学校で理科の教師をしている小谷といいます。先日はちゃんとご挨拶もできず、失礼しました」
 私の挨拶に老女はなんの反応も示さないまま、ふいと背を向け、古びた玄関のうす暗がりの奥へと入っていった。
 耳が遠いのだろうか。それにしたって無反応とはずいぶん失礼ではないか。いや、もしかしたら認知症なのかもしれない。ならば――
「やあ先生、いらっしゃい」
 振り向くと男が笑って立っていた。
 相変わらずのグレーのスーツに山吹色のネクタイ、腹話術人形のような目鼻立ちと少し語尾のかすれたキンキン声。もう三度目だというのに、尾てい骨のあたりがむずむずする。
「この前はあわただしく帰ってしまってすいませんでした。それで、あの、もしよければ、また石を見せていただけないかと思いまして」
「ボクも先生に石を見せたくて楽しみに待ってたんですよ。今日のは間違いなく本物だからね。ぜひぜひ見てください。さ、どうぞどうぞ」
 男はいそいそとした仕草で先に立ち、先日と同じように離れの戸をガタピシとやりはじめた。わずかに生まれた空白の時間。私は背中を指で押されるような視線を感じて振り返った。そこには母屋があるばかりで人の姿はなかった。ただ、先ほどまで開け放しだった玄関の格子戸がいつの間にか閉じられてた。

 金庫から取り出されたのは、ガーゼに包まれたソフトボール大の石だった。男はどうぞと私の右手にその石を乗せてくれた。見た目よりも持ち重りのするそれは、全体に光沢のある薄茶色で、厚みのあるソラマメのような形状をしており、軽くくぼませた手のひらにほどよく馴染んだ。
 で、この石はなにがどう珍しいというのだろう。
 私が質問する前に、男はまたもや意図の読めないことを言いだした。
「この石はね、ハンマーじゃなくて、万力で締めつけて割る方が面白いはずだよ」
「また割ってしまうんですか?」
「もちろん。割って、中身がどうなってるかを見なけりゃスッキリしないでしょ?」
 どんな方法かは別にして、男はとにかく石を割らなければ気が済まないらしい。床一面の惨状がなによりの証拠である。
「ほら、この一番大きい万力を使いましょう。そうだな、ガーゼごと挟んじゃおうか」
 ソラマメ型の石は私の手から取り上げられ、作業台に取り付けられた無骨な万力にがっちりと挟み込まれた。
「準備完了。さ、先生どうぞ」
「私が?」
「うん、できるだけゆっくりね」
 男に勧められるまま万力のハンドルに手を掛け、こわごわと回してみる。
 最初、軽々と動いたハンドルは、四分の一ほど回したところで軽い抵抗を伝えてきた。
 ここからだな。
 手首の角度を少し変え、さらに力を込める。

 んぎゃあ。

 思わずハンドルから手を離した。
 なんだ? 今のは。
 私は男の顔を見た。
 男はその目に歓びの光を宿らせて、万力に挟まれた石に刺すような視線を注いでいる。
「あの、今、声みたいなのが」
「うん、ボクにも聞こえたよ。やっぱり本物だったね」
「この石、なんなんですか?」
 男はようやく石から視線を外し、私を見た。
「赤子石ですよ。今、鳴いたじゃないですか」
 アカゴイシ? 赤子石か?
 これも初耳だったが、名前がわかればくわしい説明は不要だった。
 だって、たしかに鳴いた、いや泣いたのだ。
「さ、先生、一気に回して。中途半端に締めつけたままだと、石が可哀想だよ」
 男は私の手に手を添えて万力のハンドルをつかませると、怖じ気づく私の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「石の中がどうなっているのか、見たくないの?」
 私は息を止め、ハンドルを握る手に体重を乗せて、押し下げた。

 ぐげ。

 厭な音とともに石は二つに割れ、ガーゼごと床に落ちた。
 男は素早くそれらを拾い上げると、左右の手に分けた二つのかけらの断面を交互に眺め、満足そうな笑みを浮かべた。
「ほら、先生、中身はこんなだよ」
 目の前に突き出された二つの断面は淡いクリーム色をしており、それぞれの中心に曲玉のような形の赤黒い模様があった。
 なんだろう。
 どこかで見たことのあるその形状に、なぜか私の不安は大きく育っていく。
 あ、そうか。
 まだ月齢の浅い、人間の胎児にそっくりなのだ。
 もしかして私は、取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。
 おののきと同時に、射精直前におとずれるのと同じあの快感が、背骨を駆け上がってきた。だめだ。これ以上踏み込んではだめだ。
 くすくすくす。
 男が石の断面の匂いを嗅ぎながら笑っている。
 軽い立ちくらみ。
 ごろがらん。
 男が石のかけらを床に投げ捨てる音が、頭の中に反響する。
 熱い塊が腰の奥で弾けた。

 この日以来、私は、三日と空けずに男の家に通うようになった。

   ◇ ◇ ◇

 ピンポン玉大の腎臓結石。
 割った断面に文字が現れる仮名石。
 庭の中を勝手に動き回るというイザリ石。
 風化して目鼻の見分けもつかなくなった石仏。
 男は毎回、予想もしえない石を準備して私を待っていた。
 聞けば、月に何度か男の家を訪れる石屋から買っているのだという。
 安いものでも数万円、真偽が定かでなくても、魚石や赤子石クラスの石なら百万円前後を支払うらしい。
 そしてどの石も必ず割るのだ。
 男はハンマーの一撃で割るという方法を好んだが、私は万力でじわじわと石を締め付けていくという行為に嵌っていた。あの日、赤子石を割ったとき、ハンドル越しに伝わってきた、石の苦痛を思わせる感触が癖になったのだと思う。だがそれを認めるのはあまりに不道徳な気がして、ハンマーで割るときの破片の飛散が怖いということにしていた。
 それにしても、男はなぜ全ての石を割るのか。
 実はまだその理由がよくわかっていない。
 魚石や赤子石、仮名石を割ってみたいという気持ちは理解できる。
 でも古い石仏は、なぜ割る必要があったのか。
 最近では、離れで過ごす非日常的時間は当たり前になりつつあったが、微笑みながらお地蔵さまにハンマーを打ちつける男の顔を見たときは、さすがにこんなことをしていいのだろうかという疑問と怖れに胸の底が冷えた。そして、もうここへ来るのはやめようと心に決めるのだが、日が改まれば、男が次に入手するという石が「本物」であることを願う自分がいるのだった。

 ある日の夕刻のことである。翌日の実験準備を大急ぎで済ませ、いつものように男の家を訪れ門をくぐろうとすると、母屋の方から女性の金切り声とそれに続く罵倒の声が聞こえてきた。
 何事かと立ちすくみ、いつでも逃げ出せる体勢をとりながら薄闇の向こうを透かし見た。
 すると間もなく、母屋の玄関の格子戸が開き男が出てきた。男はそのまま庭を横切っていつもの離れに入っていった。離れの扉の隙間から洩れる光に照らされ一瞬見えた横顔は、明らかに不機嫌そうで、男の笑った顔しか知らない私にとってそれは、妙に生々しく、グロテスクに映った。
 今日の訪問はやめにしようかと悩んでいると、黒いスーツに身を包んだ長身の人影が、大きなトランクを手に、離れから出てきた。
 服を着せた竹竿のような人影は、まっすぐにこちらに向かって歩いてくる。濃くなる一方の夕闇のせいで、その表情はほとんど判別できない。右手に持つトランクがよほど重いのか、体全体が反対側に大きく傾いている。
 外灯がその顔を照らした。
 面長の、若い男だった。
 すれ違いざま、若い男は愛想の良い笑顔をで会釈をし、「林さんがお待ちですよ」と告げた。

「やあ、いらっしゃい」
 意を決して離れに入った私を、男はいつもと変わらない笑顔で迎え入れた。
「今、ちょうど新しい石が手に入ったんですよ。少々値は張ったけどね、本物だよ」
 招かれるままに作業台に向かうと、白地の表面に細かな赤い筋が網の目のように走る丸い石が、ハンマーと万力の横に一つずつ置かれていた。黒目のない眼球が二個、並んでいるかのようだった。
 それを見たとたん、心に芽生えかけていた躊躇いは消し飛んだ。
 早く割ってみたい。
 そう思った。

   ◇ ◇ ◇

「小谷先生は最近、トミーの家に入り浸ってるそうじゃないですか」
 同世代の教師たちの飲み会に誘われて、珍しく二次会まで付き合った居酒屋で、隣に座った数学教師が酒臭い息で絡んできた。生徒に向かってS村はド田舎だの閉鎖的だの言うイヤな奴である。
「生徒たちもみんな知ってますよ」
 だからどうしたというのだ。
 返事をすることさえ煩わしく、私は黙ってビールのジョッキを空けた。
「トミーの石狂いは常軌を逸してますからね。入り婿の親父さんも相当な石マニアだったって噂だけど、ある日突然行方不明になって、もう十年も誰も姿を見てないらしいし。息子のトミーがこれまた輪をかけた石キチになってしまって、先々代の資産もほとんど残ってないみたいですからね。おかげでトミーとお袋さんは相当険悪な状態らしいですな。しっかし、いい歳をした大人が山ほど石ころを買い込んで、何やってるんでしょうかね」
 無視して焼き鳥を齧っていると、数学教師はフンと聞えよがしな鼻息をたてた。
「しかし先生、大丈夫なんですか? なんだか最近は、授業でも石の話ばっかりしてるって聞きましたよ」
 理科の時間に石の話をしてなにが悪い。お前みたいに、日曜日に隣町の進学塾で採点のバイトしてるわけじゃないんだ。
「小谷先生、聞いてます?」
 私は大げさにため息をついてみせた。
 数学教師は顔を赤黒く染め、血走った目玉を剥いた。
「あんた、生徒たちになんて呼ばれてるか知ってるのか? コニーだよ、コニー。トミーのお仲間だからコニーだってよ。気持ち悪いんだよ。石キチの引き籠もり野郎がよ」
 ほうら、地が出た。それがお前の本性だ。
「お、どうした、お二人さん。珍しい組み合わせが熱く語り合ってるじゃないの」
 国語教師が割り込んできた。不穏な空気を察してのすばやい調停介入というところだろう。良い人なのだが、お節介が鼻につく。
「私の態度が気に入らないそうです」
 数学教師は黙り込んだまま、陰険な目つきでこちらを睨んでいる。
「おや、それは穏やかじゃないね。ちっちゃい学校の数少ない同僚なんだから、仲良くいきましょうや」
「ほんと、おっしゃるとおりですね」
 馬鹿どもめ。
 私はトイレに行くからと、二人を押しのけて席を立った。

   ◇ ◇ ◇

「はじめてここにお邪魔したときお見せした、水入り水晶のこと覚えておられますか?」
「うん、すごく透き通っていたきれいなやつね」
「林さんは、見るなり『つまんない石』って、おっしゃったでしょう」
「そうだっけ。あ、もしかして、まだ怒ってるの?」
「たしかにあのときは、なんだ? って思いました。でも今ならよくわかります。つまんないっておっしゃった理由が」
「理由? なんだっけ、よく覚えてないや。ごめんね」
「気にしないでください、私が勝手に語っているだけですから。語りついでに、もう少しいいですか。私、最近は道端に落ちているごく普通の石を見ても、あれを割ると中身はどうなっているんだろうって思うようになったんです。それってたぶん、中身が見えないからなんですね。見えないから想像が膨らむ。そして割って中身を確認したくなる。でも私が持ってきた水入り水晶は丸見えなんですよね。だって透き通っていますからね。割らなくたって中の様子がぜんぶわかる。そりゃつまんないですよね。割る価値ゼロです。だったら中身の見えないただの石ころの方がよっぽどいいです。見えないからこそ見たい。林さんが石を割りたいって思う気持ち、今ならようくわかります。ああ、すいませんね。こんな夜遅くに、酔っぱらいが押し掛けて、ぐだぐだしゃべってしまって」
「ぜんぜんオッケーですよ。ボク、ほとんど寝ないから夜はいつもヒマなの。でも先生、それだけじゃあないんだなあ」
「ん? なにがでしょう」
「ボクが石を割るのはね、中身が見たいからってだけじゃあないんだなあ」
「違うんですか」
「違わなくはないけど、それだけじゃないの。石ってね、割ってしまったら台無しでしょ。高価な石とか、珍しい石とか、お地蔵さまを割るなんて、とんでもないことでしょ。それを割るのが気持ちいいの」
「はあ」
「だからさ、そこらで自分で拾った石を割ってもつまんないわけ。でも誰かが拾った石を百円で買って割ったら、百円分だけ気持ちいいの。千円なら千円分ね。それだけのこと」
「うーん、深いですねえ」
「深い? なんだかよくわかんないな。そうだ、お茶でも飲む?」

   ◇ ◇ ◇

 最近は、放課後のほとんどの時間を理科準備室で過ごしている。
 もともと居心地の良い職員室ではなかったが、先日の飲み会以降、同僚たちの私を見る目が明らかに変わったのだ。どうせあの数学教師があることないこと吹聴して回っているのだろう。もしかしたら国語教師も加担しているかもしれない。
 だけど、そんなことはどうでもいい。
 強がりでもなんでもなく、本心からそう思っている。
 おかげで低俗な雑談につき合う必要もなくなり、自由に使える自分の時間がたくさん確保できるようになった。時間はもちろん石のために使う。
 今日、理科準備室に備え付けの細長い作業机の端に、大型の万力を取りつけた。通信販売で、定価から二割引きの八千円。かなり良いものを選んだ。挟んで固定するだけではなく、割らなければいけないからだ。

 吹奏楽部のホルンの音が遠く聞こえている。
 鼻先に持ち上げたカップからは香ばしい湯気が立ち上ってくる。
 鈍い金属光沢を放つ、武骨さと機能美を兼ね備えた真新しい工具は、いくら眺めても飽きることがない。
 至福の時間だ。
 さて、最初はなにを割ろうか。
 第一候補として「鈴石」を考えてはいるのだが、中身は見えないとはいえ、結果が分かっているというのが物足りない。それに来年春の授業のつかみで使えなくなってしまうのも躊躇する理由だった。
 コツコツと窓ガラスが鳴った。
 すっかり見慣れた腹話術の人形顔が、窓枠の向こうでひこひこと上下している。
 まだ部活の生徒がたくさん残っている時間なのに、どうしたというのだろう。
 私は窓を全開にして、男に微笑みを投げた。
「やあ、いらっしゃい」
 男の大きな目がくるりと回り、口がパクパクと開閉する。
「この前お話しした石、手に入りましたよ」
「香玉(こうぎょく)、でしたっけ?」
「うん、そう」
「本物でしょうか」
「たぶんね」
 香玉。
 男の家に出入りしているいつもの石屋が、近々入荷するかもしれないと予告していた珍品の一つで、どうやら私が好むタイプの石らしい。
 ああ、早く見てみたい。
 そして、割りたい。
「勤務時間がまだ三十分ほど残ってるんですよ。終わったらすぐにうかがいますね」
「来なくていいよ」
「え?」
 なにか気に障ることでも言ってしまったのだろうか。
 思いもしなかった男の言葉に、顔から血の気が引くのがわかった。
「今日は銀行にお金を下ろしにきてね、ついでだから持ってきたの。ほら、これ」
 下から伸びてきた手には、鶏卵を薄紫に染めたかのような石が握られていた。
 そういうことか。
 安堵のあまり、涙が出そうになった。
「ちょっと、触らせてもらっていいですか」
「いいよ」
 なんとも美しい石だった。
 これまで男が見せてくれた石はどれも、珍しさ、奇抜さの点で申し分ないものであったが、外見的にはごく普通か、もしくは醜悪なものばかりであった。
 だけどこいつはどうだ。人工的な研磨では出せない微かなざらつきを保った滑らかさ、鶏卵という究極のフォルム、そして高貴さの漂う古代紫、まさに宝石。
 石を鼻の高さに持ち上げる。目を閉じ、ゆっくりと息を吸う。
 無臭だ。
 ならば、やはり――
「それ、あげるよ」
 驚いて目を開く。
「万力、買ったんだね。さっそく使えるよ」
 男は窓枠に手を掛けて伸び上がり、部屋の中をのぞき込んでいた。
 かっと顔が熱くなる。
 身悶えするほどに恥ずかしかった。
「石屋さんはね、たぶん本物だって言ってたんだけどさ、それにしてはちょっと安いんだよね。だからあまり期待しないでね」
 ああ、そうだ。肝心なことを忘れるところだった。
「これ、いくらで買われたんですか?」
「四万円」
 なるほど微妙だ。以前、男が説明してくれたような本物の香玉なら、少なくともその倍であってもおかしくはない。
 ならば、そうするまでだ。
「十万円で買い取らせてください」
「ん? 十万円?」
 男は私の顔を不思議そうに見つめていたが、やがて思い当たることがあったらしく、心底嬉しそうな笑顔になった。
「先生も、わかってきたんだね」
 そう言って、一瞬男が見せた真顔に、私は震えた。

 男は「またね」と言って、帰っていった。やがて部活の生徒たちも全て下校した。となればこの時間、残業常連組の数人が職員室に残っているだけのはずだ。彼らがこの理科準備室を覗くことはまずない。おそらく数学教師の差し金だろう、先週あたりから、仕事上のよほどの用件がない限り、私と話をしようとする教師は誰もいなくなっていた。
 それでも念のためにドアを施錠した。十万円も出して手に入れた石である。本当なら専用のケースに入れて飾っておいても良いぐらいの代物だ。それをあえて割る、という行為がもたらす、泣きたくなるようなあの感覚を、あいつらに邪魔されるなんてことが万に一つでもあってはならない。そんなこと、絶対に許さない。
 さて、準備だ。
 卵型という形状をしっかりと固定するために、ろ紙を数枚重ねてクッション代わりとし、万力と石の間に挟み込む。ハンドルを慎重に回し、力がかかりすぎないで、かつ石が動かないバランスを探る。
 ようし、ここだ。
 上質の香玉を割ると、えもいわれぬ芳香が漂い出し、それを胸の奥深く吸い込めば、桃源郷をさまよう心地になるという。私はビーカーに注いだ蒸留水で丹念に口をゆすぎ、先ほど飲んだコーヒーの残り香を一掃した。
 ハンドルを両手で握る。ひやりと硬い。無機質で冷酷な感触に背中がぞくぞくする。石の表面から目を離さないように注意しながら、ゆっくりと体重を乗せていく。軽い抵抗を感じる。石が嫌がっている。そこをさらに押す。
 髪の毛の十分の一あるかないかという細い筋が一本、表面を走った。
 うっ。
 雨上がりの朝、アスファルトの上で車に轢かれたトノサマガエルが放つ、あの生臭さが鼻に来た。構わずさらに力を込める。無数のひび割れが瞬時に表面を覆い、夏場のゴミ集積場で嗅ぐ生ゴミの臭いが、のぞきこんだ顔面にドカンと来た。
 喉の奥からこみ上げてくるものを、飲み込む唾液で押し戻す。
 口を閉じ、鼻から、胸の奥深く息を吸い込む。
 生ゴミから染み出す腐汁の味が口いっぱいに広がる。
 私は堪えきれなくなり、大量に吐いた。

   ◇ ◇ ◇

「ねえ先生、聞いてくれる。ついに手に入りそうなんだ、鬼石が」
「オニイシ?」
「そう、石屋さんにずっと探してもらってたの。本物ならいくらでも出すからって」
「で、それは本物なんですか」
「うん、石屋さんがね、間違いなく本物ですって、言ってた」
 男は作業台に両肘をつき、組んだ手の甲にあごを乗せ、夢見心地の表情だった。
「ああ、やっとだ。やっと、あのうるさい――」
 男はそこで口をつぐむと、怖い目でこちらを見た。
「ボク、今、なんて言った?」
 心臓が止まりそうになる。
「間違いなく本物だと、石屋さんが言ってたと」
 私はとっさに無難な答えを口にした。
 男の大きな目がくるりと回り、いつもの笑顔にもどる。
 私はひそかに胸をなで下ろした。
「どういう石なんですか、オニイシって」
「鬼みたいな石だよ」
「そのまんまですね。じゃあ、角が生えているとか、赤くてごつごつしているとか?」
「見た目じゃないの、好物が同じってこと」
「鉱物? 鬼の鉱物? よくわかりません。で、本物の鬼石だったら、いくら払うんですか」
「四百万」
 さらりと出た金額は、これまでに聞いた中で最高額だった。男にとってそれだけの価値がある石ということなのだろう。でもそれを――
「やっぱり、割るんですよね」
「うん、割るよ。準備ができたらね。でも一気には割らないつもりさ。万力でね、ゆっくり時間をかけて、そうだな、できれば三日ぐらいじわじわ締めて割りたいな」
「楽しみですね。手に入れたら、もちろん見せてもらえますよね」
「あ、うん。じゃあ割るときに呼ぶから、それまで待っててね」
 初めて聞く歯切れの悪い返事に、あれっと首をかしげたが、さほど気にとめることはなかった。
 そして――
 この日を最後に、男は、私の前から姿を消した。

   ◇ ◇ ◇

 男の家に向かっている。
 古雑巾の色をした空の下、息を切らして田舎道を歩いている。
 鬼石を割るのを見に来いと、呼ばれたからではない。いつまで待っても一向に声がかからないのでしびれを切らし、こちらから押しかけるのだ。
 一週間我慢した。男が鬼石を入手したであろう日から一週間である。
 今日呼ばれるか、明日には声がかかるかと、まだ見ぬ鬼石に想像を逞しくしながら待つ日々は、もどかしいながらも楽しくもあった。が、四日目が過ぎたとき、もしかしたら、もう石を割ってしまっているかもしれないという疑念が生まれた。そのときから、楽しみは身を妬く苦痛に取って代わられた。そして今朝、目が覚めて、ああもう土曜日なのだと思ったら、我慢ができなかったのだ。

 離れの引き戸は固く閉ざされていた。林さんと大声で呼び、拳で何度も叩いたが、返事はなく、人の気配も感じられなかった。
「トミオになにかご用ですか」
 すぐ後ろから声をかけられた。
 悲鳴を上げそうになるのをかろうじてこらえ、振り向くと、和服に身を包んだ小柄な老女が立っていた。
 男の母親だった。
 いつもの悪意に満ちた目つきではなく、感情の起伏を読み取らせない静かな目だ。加えて、すっと背筋の伸びた立ち姿には気品すら漂っている。
 まるで別人だ。
「あ、私、S中学校の小谷と申します。いつも息子さんにお世話になっている者です」
「存じ上げております」
「それで、あの、息子さんは」
「トミオはもうここにはおりません。戻ってもまいりません」
 なんだ? どういうことだ?
「ですからお引き取り下さい。この先、お訪ねいただくこともご遠慮ください」
「あの、いったいどこに」
 老女はすでに背を向けていた。すっすっと足を運び母屋の方へと去っていく。
 待て、待ってくれ。息子のことはどうでもいいから、教えてくれ。あの石は、鬼石は、もう割ってしまったのか?
「鬼石、鬼石はどうなりました?」
 思わず叫んでいた。
 老女の足が止まった。ゆっくりと振り返る。
 口角が吊りあがっている。目に歓びの光が宿っている。
 結局、老女は一言も発しないまま背を向けると、母屋の玄関へと消えた。

 呆然としたまま門を出ると、そこに石屋がいた。スーツを着た物干し竿が大きなトランクを右手に、傾いた姿勢で立っていた。
「こんにちは」
 石屋はその長身を折り曲げるようにして私に頭を下げた。
 なんというタイミング。私はトランクを持つ男の腕をきつくつかんだ。
「あいつはどこへ行ったんだ? あんた知らないか」
「林さん、お留守なのですか?」
「どこかへ行って、もう戻らないとか言うんだ」
 石屋はその背をさらに伸ばして門の向こうをのぞきこんだ。
「それは困りました。今日は石の代金をいただきに来たのですが」
「それって、鬼石のか?」
 石屋の体がびくりと反応し、一瞬、凄い目になった。
「鬼石のこと、林さんからお聞きになったのですか」
「名前しか教えてくれなかったけどね。あいつは本物が手に入るって大喜びだった。割るときは呼ぶからって約束したのに、いつまでたっても何の音沙汰もないから来てみたら、お袋さんが出てきて追い返されたんだ」
「ほう、お母様は居られるのですね。ふむ。なるほど、また同じことが――。では今回も、代金はお母様からいただきましょう」
 石屋は一人納得して、門に向かって歩き出した。
「おい、ちょっと、鬼石ってなんだよ。どんな石なんだ」
 石屋は首だけで振り向き、眉根を寄せた。
「名前の通り、怖い石です」
 それ以上はなにも聞くなと、言外に強い拒絶を感じさせる声だった。

   ◇ ◇ ◇

 十日が過ぎた。
 石への禁断症状は限界を迎えていた。割って歓びを得られる石がもうないのだ。鈴石も水入り針水晶もとっくに割ってしまっている。そのほかのコレクションもすべて割り尽くした。石屋になんとか連絡がつかないかと、三日前、男の家を訪ねてみたが、男の母親に鼻で笑われ追い返された。仕方がないので帰り道、大川の河原で石を拾って割ってみたが、なんの感動もなく、虚しさが増すばかりであった。

 理科の授業で生徒たちに声をかけてみた。
「どんな石でも構いません。私のところに持ってきてくれたら、何個でも買い取ります」
 とたんに教室は静まり返った。四月の、最初の授業でくすくす笑いをとがめた時の、あの気まずい空気が教室中に満ちるのを感じた。

 私は、何かまずいことを言ったのだろうか?

「先生。最近、トミーがいなくなっちゃったでしょ。なにがあったのか知ってる?」
 放課後、廊下を理科準備室に向かって歩いていると、二年一組の山崎が背中をつつき、そっと声をかけてきた。
「なんで、それを私に聞くんだ?」
「だって、先生はトミーの友達でしょ」
 なるほど。
「ところで山崎、石、持ってきてくれないか。高く買うぞ」
「え、いや、オレはいいです」
 なぜか山崎は顔をひきつらせ、薄暗い廊下の奥へと走り去った。

 理科準備室のドアを開け、手さぐりで壁のスイッチを押す。細長い室内を、蛍光灯の冷たい光が青白く照らす。生ゴミの匂いがまだ残っている。
 私は床に散らばった石のかけらを踏み越えて、作業机の先にある作りつけの収納棚に向かった。そこには少ないながらも教材用の鉱物や石がある。もちろん学校の備品だ。これらに手を出したら、校長からの厳重注意はまぬがれないだろう。そう、だからこそ割る価値がある。すでに半分ほどは細かく砕かれ、床のガラクタに混ざり込んでいる。
 さて、今日はどれを割ろうか。黄鉄鉱の結晶と方解石あたりをいっとくか。
 コツコツと窓が叩かれた。
 トミー?
 私は床の石を蹴散らし、窓に駆け寄ると、カーテンを力まかせに開いた。
 まさか、そんな。
 腹話術の人形顔と山吹色のネクタイを期待したその位置に、老女の顔が白く浮かんでいた。男の母親が、夕闇立ち込める中庭に立っていたのだ。
 老女の眼力にうながされ、私は窓を開けた。
「こんばんは」
 先日の冷徹さとは打って変わった、柔らかくどこか媚を含んだような声だった。
 私は言葉に詰まり、黙って頭を下げた。
「先だっては大変失礼をいたしました。今日、うかがいましたのは、息子がお世話になっていた石屋さんから、あらためて小谷様を紹介していただいたからなのでございます」
 石屋? あの石屋が私を紹介したというのか。
「あの、どういったご用件でしょう」
「この中の石を、買っていただけないでしょうか」
 老女は手に下げていた紫色の風呂敷包みを胸の高さに持ち上げた。
 まさか、鬼石?
 皮膚の下を無数の虫が走った。
「拝見してもよろしいですか」
「どうぞ」
 老母は手の上で風呂敷包みをさらりと解き、現れた拳大の石を、窓枠越しに差し出した。
 左の手のひらで受け、右手を添える。
 異様に重い。それになんだか湿っぽい。これまで手にしたことのない感触だ。
 目の高さに持ち上げ、じっくりと観察する。
 形状と表面の凹凸具合は胡桃の殻によく似ている。色は全体に暗いグレーだ。百八十度回転させ、向こう側になっていた面を手前に見る。
 ん? これは。
 ちょうど私の小指ほどの長さと幅がある山吹色の帯が一本、まっすぐ縦に走っていた。
 何かの鉱物の貫入だろうか。なぜかちくちくと記憶を刺激する配色だった。
 これが鬼石なのか。
 だとすれば、鬼石とはいったいどういう石なのだ。
「小谷様はあれを使って、石を割られるのですね」
 老女は鶴のように首を伸ばして室内をのぞきこみ、作業机の万力に、粘りつくような視線を投げた。
「ええ、まあ」
「あんなのに挟まれたらさぞかし痛いでしょうねえ」
 石が動いた、ような気がした。
「あの、この石は、鬼石でしょうか?」
 私は思い切ってたずねた。
「鬼石?」
「違うのですか」
「あなた、これが鬼に見えまして?」
 ざわ。背中を冷たいものが走り抜けた。
 くすんだグレーの下地に、一筋の鮮やかな山吹色の帯。
 そうなのか。そういうことなのか?
 ならば、
 割りたい。万力で締め上げ、押し潰すようにして割りたい。
 抑えきれない衝動が、尾てい骨の先端に生まれ、背骨を熱く這いあがってくる。
「買います。今すぐ買います。いくらで売ってもらえますか?」
 大きな声が出た。
 すると――
 手の中の石が、小さく身をよじった。

                    〈了〉

あとがき(文:深津十一)
 伝説の中に登場する石、実在する石、完全な創作上の石等々、虚実織り交ぜた石たちの物語はいかがだったでしょうか。
 この作品はデビュー前に書いたものです。当時はSF色の強い小説ばかりを書いて公募の新人賞に片端から応募していました。そんな状況の中、ある資料で長崎に伝わる「魚石(ぎょせき)」という奇妙な石のことを知り、これをもとにしてホラー小説が書けるのではないかと考えて、作品の方向性を変えてみました。選考の結果、受賞には至りませんでしたが、石を題材にした小説をもう少し突き詰めてみたいという思いがあり、ストーリーを一から組み立て直し、長編化したものが別の新人賞(このミス大賞)で入賞し、デビューに至りました。今の自分にとって、いろいろな意味で大きなターニングポイントになった作品です。



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