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既晴「復讐計画」 訳/阿部禾律

Ⅰ 殺意

 二年余りかけて徐々に柯仲習は酒を飲む習慣をつけた。
 もともと酒は全く飲まなかった。しかし、それは彼女を失う前の事。飲酒という選択は、決して辛い何かを忘れるためなんかではない、ただ冷静になりたいからだ。
 構想を練るために酒を飲む。
 構想を練るためだけに酒を飲む。こんな話をしても誰も信じてくれない事は分かっている。まあ、誰にも言うわけがないが。事実、彼の最大の秘密だ。簡単に言うと、飲むのは彼女の死から立ち直れずにいる柯仲習が選択した自己防衛的な行為だろうと思わせるためだ。
 周りから実は大丈夫だと思われたくなかった。それに、実は腹の中に別の企みがあるなんて気付かれたくなかった。
 本当の目的は、酒に溺れているふりをして、ある人物の警戒心をなくす事。
 今晩ももちろん酒を飲む。だが、これまでとは違って酔い潰れたりはしない。はっきり言って酔いなど皆無だ。なぜなら、柯仲習はやる。彼女のために復讐する。
「うぇい! 仲習、飲もう飲もう、もう一軒どうよ?」
 屋台の賑わいにも許襄治のでかい声はかき消される事はなかった。いつもは大人しい彼も、酒が入ると途端に気が大きく、まるで抑圧されていたものを一気に吐き出すかのようになって、放出し終わると急に倒れ込む。そして、翌朝になると二日酔いの眼差しのまままた大人しくなる。
 柯仲習は彼のそんな性格が好きだった。本当のところ一緒に飲むのが楽しかった。
 しかし、彼女のために復讐した後は、もう酒は飲まないと思った。もともと酒に興味がないし、必要ない。というわけで、これが彼との最後の飲み会になった。
 腕時計をちらっと見る、十二時四十分。そろそろだ。
「……おっと、襄治先輩、飲み過ぎちゃった、もう飲めないですよ……見てください、十二時過ぎちゃったじゃないですか!」許襄治の目の前に左腕を向けた。
「……先輩、先輩の家に泊まらせてください……」
「宿舎に帰らないのか?」
「そんな遠くまで歩けないですよ……」
 わざとふらついて、テーブルの上のピーナッツの殻の中に左腕をだらんと置いた。
「もう駄目なら強制はしない、今日はここまでだ! おいおい、ふらふらじゃないかよ……」
 体を起こして歩くと許襄治も本当は少しふらついていた。彼が伝票を取り、柯仲習は悠々と座ったままで起こしてくれるのを待つ。待つと見せかけて、何か悟られてはいないかと、まだ酒が残るガラスのコップに映る自分の顔を観察していた。
 屋台を出た後、酔い潰れたふりをして彼に身を預け、一緒にふらつきながら歩いて帰った。街灯がぼんやりと道を照らし、月光はほの白く、人一人いない。車だけがびゅんびゅんと脇を通り過ぎて行く。
 許襄治は彼女がいない。一人でワンルームを借りて住んでいた。築三十五年以上の古いマンションで管理もずさんなので、家賃は激安だった。おぼつかない指先でポケットから鍵を取り出している。酒にこっそり仕込んだ睡眠薬が効いてきたようだなと思った。
 ドアを開けて中に入れてくれた。その時、わざとよろけて、どのくらいまだ相手の力が残っているのか試してみた。なんとかベッドの方へ引きずられ、すぐさまベッドに倒れ込んでやった。一方、彼はベッド横のクローゼットの所に転がって、すぐにいびきをかき始めた。ぐっすりと眠っているようだ。
 やっと殺せる。
 しかし、許襄治は殺害のターゲットではない。完璧な殺人計画というものは、ターゲットに直接酒を飲ませて一緒に帰るような事などしない。
 柯仲習は、ただアリバイ作りに彼を利用しただけだった。

Ⅱ ステップ1

 方德杉は十八の時、高専をサボって中退した。その年、父親は事業に失敗して自殺、母親は蒸発して行方知らずになり、ただ一人残された。まだ若くて血気盛んだったし、学校に行く意味が見出せず、目標もないままヤクザになって、ずるずると三年間過ごした。
 しかし、頭が切れるわけでもないので、ヤクザになってもパッとしなかった。ヤクザの世界は一般人とかけ離れていて、酷くて、極端で、知恵がなければ勇気だけでは長くは生きられない。実際、彼は生き延びるために、足を洗ったと言い訳をして、地元の輩とはつるまなくなった。
 一念発起した彼は、まっとうな道を生きるため、何着かの服だけ入ったスーツケース一つで二十数年を過ごした高雄を離れて、台北で生活すべく片道切符で向かった。
 現在の方德杉は、運送会社「迅興快運」のドライバーだ。少ない給料だが、小さなアパートを借りて、衣食住にも困らず、時々同僚達と高級レストランで食事して世間を見下す事もできる。
 仕事は楽ではない。毎週月、水、金の夜十時半に必ず会社に行ってから、大型トラックで郊外の地点に向かい、鶏を載せてくる。そこが鶏卸売市場の卸元、引受け地点だ。時々搭載作業を手伝わなければいけない事もある。そして、鶏を満載にした大型トラックを運転して市内の卸売市場へと納品に向かう。もちろん、荷下ろしの手伝いをさせられる事もある。そうやって行き来する事一晩に三往復。全ての鶏を運んだ後、トラックを運送会社に返しに行く。だが、それができるのは綺麗に洗車して鶏の臭いを消し去ってからの話だ。いつも仕事が終わるのは朝日が燦々と輝く午前六時以後。アパートに帰るともうくたくたで倒れ込み、午後になってやっとベッドから起き上がる。
 ヤクザから足を洗って、単純で平凡な生活を満喫していた。そんな生活が物足りない時もあるが、退屈だとは思わなかった。
 なのに、三月十四日のあの日、一晩であんなに何度もおかしな事が起こるとは!
 水曜日の事だった。いつもどおり自転車で会社に行ってタイムカードを押す。
「杉ちゃん! 今日は二往復でいいよ!」社長がタバコを吸いながら言う。「さっき電話が来て、今日はそんなに多くないからってさ!」
「あ……分かりました」
「一往復少ないんだから、今日は二往復分しか給料出さないよ!」
 その時、彼は心の中で何十回も悪態をついたが、長い物には巻かれるしかない、表情は相変わらずのほほんとしたままだ。
「どうしたんですか?」
「まただよ、あいつらお役人め、おかしな真似しやがって! 何が病死鶏肉だよ! 鶏組合の損失まで俺たちが被るって……」
 社長はまた文句を言い始めた。彼の思いどおりに事が進まないと会社が今すぐ潰れるかのようだ。しかしその時、彼は社長と一緒になって怒るどころか、病死鶏肉とは一体何の事なのかよく分からないままだった。
 相づちを打ちつつ鍵を持って道路に向かい、会社の門を出て、遂に辛辣な言葉を並べ立てる社長と離れる事ができた。
 運送会社はもとから車庫がない。会社のトラックは全て路上駐車で、街の至る所に止めてある。違法駐車だらけだし、違反切符を切られても大きな駐車場用の土地を買うよりも安い。これが社長の節約テクニックの一つだ。そして、そのうち何台かはメンテナンスに金が掛かるから乗るなと言われて放置されたままだった。
 彼は道を二度曲がって、会社から約百メートルの所に停めてある自分の乗り馴れたトラックを見付けた。路駐してあるトラックは、まるで大きな鉄の棚のように遠くから見てもそびえ立っていた。
 時計を見ると、十時五十二分。大体のいつもの出発時刻だ。給料が減るのは面白くないが、二往復だけならきっと今晩は早く帰って休める。
 何度か道を曲がって、近所の私立大学の前を通った。ここはお決まりのルートだ。AMラジオをつけると、DJの男女がお互いの結婚生活について話している。笑える下ネタ以外つまらない。でも、台北連労工の労働者達はほぼ標準国語を使わないし、この俗っぽい番組でだけ馴れ親しんだ懐かしい南部訛りの台湾語が聞けた。鼓膜は音波振動を受け取っていたが、頭の中は真っ白、上の空でふわふわと空想にふけ始めた……
 頭の中が運転中のある出来事から思い付いた考えで一杯だった。トラックが大学の裏門のあの必ず通る小道を走っている時、突如ちょっとした閃きがあったのだ。
 この小道の曲がり角の所に、いつも不思議な男が立っている。
 でも、男が現れる時間帯は、今ではなくて次の往復の時だ。
 薄暗い街灯の下、男の影は曖昧で、何を待っているのか分からない。
 その男はいつも腕時計を見ていて、そして、顔を上げてトラックに目を向ける。俺の事をじっと見つめているみたいだ。でも、街灯の光が弱すぎて、男の顔つきは全く分からない。
 方德杉の乏しい記憶の中でも、あの不思議な男は何度も見掛けている……
 一体何を待っているんだろう? 何を見つめているんだろう?
 色々と思い出してみる。そうだ、卸元のあの地点でも見た事がある! が、同一人物かどうかがはっきりしない。深夜だから、ヘッドライトで照らしている部分以外はっきりと見えないし、トラックは高速で走っていて、ちらっと見えるだけ。
 でも、よくよく考えてみると、やっぱり似ている。体つき、立ち方。それに、あの卸元の付近にいた男も、二往復目の時に腕時計を見ていて、そして顔を上げて見つめてきた……
 なんだか寒気がしてきた。
 そして、突然ちょっと可笑しくなってきた――大人のくせに全く何考えているんだろう。
 頭を振って、右足に力を込め、アクセルを踏んで重いトラックを走らせた。

Ⅲ ステップ2

 柯仲習、とある私立大学電気工学科の三年生。復讐の念を胸の奥にずっと秘めている。
 この衝動を抑えて二年余り。既に心には冷酷で堅硬な氷塊が積み重なって、脆弱な道徳観を揺さぶり、鋭く重い刃で深く地を貫くほどに動かぬ寒山を形成していた。
 吳雨淨は死んだ。
 四年前、吳雨淨と彼は高雄のある塾で偶然知り合った。予備校の世界は、落ちぶれ感、失望、励まし、警戒、そして、祈りが渦巻く薄暗い地帯だ。人より一年遅れて大学の狭き門に入り込む。表面上はたったの一年遅れで素晴らしい結果を勝ち取ったなどと言うが、実際にその遅れは永久不変だ。
 なぜなら、これが未成年の最後の決戦だから。
 萎縮した予備校生の目は、屈辱的な憂いが帯び、もっともっと努力して失敗と挫折の刻印を洗い流さなければならないと語る。
 確かに、柯仲習は聡明でイケメンだ。しかし、吳雨淨は眩過ぎた。予備校のクラスで彼女はモテたので、多くの時間を割かないと彼女の興味を引き続ける事ができなかった。そして、遂には学業か愛かを選択する羽目になり――愛を選んだ。
 合格発表までが、柯仲習と吳雨淨が知り合ってから一番甘い時期だった。しかしながら、彼のテストの結果は親を落胆させた。点数は悪くはなかったが、一年掛けて取るようなものではなかった。吳雨淨は、もっとひどい成績だったが喜んでいた。彼女は去年、片手で足りるほどの学科しか受験できなかったので、適当に国文科を選んで、将来英語すら勉強しないつもりだった。その時に比べたら吳雨淨はすごくましだった。
 柯仲習は、もう一度学業か愛かの選択を迫られ、また同じ選択をした。彼は吳雨淨と永遠に一緒にいたかった。そして、二人は同じ大学に合格した。事もあろうか、彼はその大学の首席になった! 遂に両親は怒って話をしてくれなくなったが、そんな犠牲を払う価値があると思っていた。
 しかし、一年生のクリスマスダンスパーティーが終わった夜、彼女は死んだ。
 彼女は学部棟の教室内で亡くなっていた。睡眠薬を飲んで、果物ナイフで手首を切って。学部棟の管理人が翌朝彼女の遺体を発見した時、まだ鮮血がゆっくりと床面を流れていたそうだ。
 発見後、現場は封鎖され、警察が出入りする以外に、野次馬学生達が教室を取り囲んでいた。彼は現場に入る事を許されなかった。彼が言うには、黒い遺体袋が吳雨淨との最後の対面で、ある事ない事騒ぎ立てる他人の声に傷付き、極度の悲しみに襲われたらしい。
 刑事から後に聞いたところによると、彼女は抵抗して争った形跡もなく、安らかにこの世を去った。現場に疑わしいところがなかったので、最後には自殺として終わらせるしかなかったという事だった。
 柯仲習は信じない!
 警察の説明を受け入れず、自分の手で真犯人を探す事に決めた!
 そして、真犯人を捜し出すだけではなく、同じ方法で天罰を下したかった。
 他人の幸せをぶち壊したやつは死ねばいい!
 実は、早くからある人物を疑っていた。絶対あいつだ! 莊聞緒!
 大学一年が始まって間もなく、柯仲習と吳雨淨は高雄地区の同窓会に参加した。当時会長をしていた物理学科二年生の莊聞緒は、彼女を一目見るなり気に入った。当然、彼だけが好意を寄せていたわけではないが、彼女から文句を聞いた事があった。
「あの先輩しつこいのよ! 何かと理由つけて二人きりになろうとしてくるの」
「本当に?」
「彼女さんを取られないように気を付けてね……」
「そんな事ないさ」
 彼女の冗談だと分かっていた。二人の仲はそんなに脆くない。しかし、彼女にそう言われると、内心ではショックだった。もしも、二度と莊聞緒が彼女に近付けないようにしていたら、こんな事になっていなかっただろうに!
 そして――吳雨淨は死んだ。
 吳雨淨の死と莊聞緒に関係があると疑うのも無理はない。しかし、彼は、彼女を失った余りのショックでもぬけの殻となり、屍のように歩く男達と同じではない。逆にとても冷静だった。
 彼から吳雨淨を奪う事は、ただ残酷な傷を残すだけでなく、ある種の陰険悪辣な挑戦だった。俺様がそんな事許すわけがない! そう、彼は吳雨淨が亡くなってから塞ぎ続けるような様子もなく、冷静にクリスマスダンスパーティの夜の事を思い出していた。
 ダンスパーティが始まった時、莊聞緒は、そわそわと吳雨淨に接近するチャンスを伺っていた。柯仲習は、ずっと彼女に寄り添って、ストーカー野郎を彼女に一歩も近付かせないようにしていた。そんな事させてたまるか!
 それから、彼は吳雨淨を連れてダンスパーティーから抜ける事にした。すると、女子宿舎に送る途中、なんと莊聞緒がこそこそと二人の後をつけてきている事に気が付いた!
 ますます疑わしい事に、莊聞緒は、翌日警察から吳雨淨が亡くなったと聞いて、全く何の反応も示さなかった! 何も気にしていないみたいに! 全く関係ない事みたいに! 更に異常に感じたのは、この時から彼が吳雨淨の事を一切口にしなくなった事だった。
 柯仲習の判断だと――理由は簡単だ。吳雨淨が死ぬと分かっていたから。彼が彼女を殺したんだから。
 まさか、莊聞緒は誰にも知られていないと思ってるのか?
 しかし、興奮状態で直接対決などしたくはなかったし、警察に行って事情を説明する事もしたくなかった。警察は早々とこの件は終わった事にしている。他人にこの事を言っても意味がない。自分が分かっているだけでいい。なぜなら、ゆっくりと絶対に知られない良い方法を考え出したかったから。法の裁き以外で莊聞緒を罰する方法を。
 彼の聡明さと才知によって、吳雨淨がこの世を去ってから、遂にぴったりな解決方法を見付ける事ができた。これは彼がたった一つ彼女のためにできる事、彼の本当の愛を捧げる事になる。
 計画に丸二年、柯仲習の復讐への執念は、次第に形成され、具体的な行動へと昇華された!

Ⅳ ステップ3

 深夜零時〇一分。
 方德杉は疲れていた。騒がしいラジオは既に消して、エンジン音以外、車内は静まり返っていた。
 春の盛り、広い台北郊外は少し肌寒い。鶏入りの籠を運送する苦労が体に熱と汗になり残っていたが、窓を開けると途端に冷ややかな夜風に吹かれるのが怖かった。彼らのような仕事をする者にとっては健康が何よりだ。
 車の窓を開けられなかったので、車内の陰鬱な空気が彼の肩にずっしりとのしかかっていた。
 古い住宅街を通り抜けるため、狭い曲がり角をうまく通れるように、両腕を周してハンドルを切る。市内へと繋がるいつものルートだ。
 ――そうだ! この曲がり角!
 いつも現れるおかしな男、この曲がり角に入る所に立って……
 しかし、今夜男は現れなかった。
 まただ。四十数分前、方德杉は二往復目だった。あの時トラックはまだ私立大学の裏門付近で、男の姿は見えなかった。
 だけど、さっきあそこを通った時、突然道路の真ん中に犬の死体が現れて、よく見ないまま急ブレーキを掛けた。とんでもなく驚いた。
 方德杉は、お化けは信じないほうだ。けれども、ヘッドライトに照らされた犬の死体のむき出しになって光るその牙が、死ぬ間際の哀号を思わせて寒気が走った。この道は全然広くないし、一般の車だってそんなにスピード出して通るわけない。犬を轢くなんてないさ。車から降りて確かめたかったが、深夜に動物の死体に近付くのは彼にとって決して縁起のいい事ではなかった。それで、とりあえずバックしてから犬の死体の左側を急いで通り過ぎた。
 それからというもの、今夜は猫や犬なんかの動物を轢きませんようにと、恐る恐る運転した。
 それが運送時間を遅延させていた。
 しかし、今夜は二往復しかしない。良かった。
 鶏の卸元地点の曲がり角と市内を結ぶ高速道路、その中間がまさにこの住宅街だ。この住宅街は見るからに歴史を感じる。建物の高さが不揃いで、リフォームした家は全て高さを抑えて建てている。更に不規則な道、幅が広かったり狭かったり、一車線のところも、一方通行のところもあって、交通標識は錆びたり曲がったりしていて見えづらい。
 ここの曲がり角は、毎回速度を緩めてゆっくりとハンドルを回さないとうまく通れない。幸いにも夜遅くにしかここを通らないので、この辺の暮らしぶりからして、道沿いの住宅で時々徹夜麻雀している部屋の灯りがあるくらいだ。この時間に走っている車などいないし、同業者もいないので、危うい運転を見られて気まずい思いをする事もない。
 だから、ある意味「世界にたった一人」の状況下で、あの男が現れたから、身の毛がよだった。記憶では、狭くて壁に張り付きそうな道路上に、幾つか窪んだ暗いところがあって、その中の一つに男が立っていて、顔つきはよく見えない。だって、街灯の光が男の後ろの家に遮られていて……
 ゆっくりとハンドルを回して、軽くアクセルを踏む。あの男と自分の車の窓ガラスとの距離が十センチもなかった時の状況を再び思い返さないようにしながら、トラックが無事に曲がり切れるように集中した。男が別の方向に隠れて自分を監視しているんじゃないかという考えを振り払うために、ハンドルを更にきつく握る。
 急に、トラックが一回軽く揺れた!
 方德杉は呆気にとられた。この時から彼の猜疑心が想像をかきたて始めた――おかしいぞ? ここの曲がり角には凹凸なんてないはずだ! 少なくとも、一往復目にはこんな事なかった!
 偶然タイヤが石に押し潰されたとか?
 あるわけないか……前だって同じ方法でカーブしたし! ここじゃ唯一このやり方しかないってば、壁にこすらないで無事に通過したじゃないかよ!
 今回はなんで違う?
 すぐさま、無意識にバックミラーをのぞく、が、何もないじゃん!
 全てが遅過ぎた。不思議な男の影は、その時既に彼の心に住み着いて、アクセルを踏み込んでスピードを上げるよう促し、あの曲がり角からすぐさま走り去らせた。

Ⅴ ステップ4

 柯仲習は、大学一年生の後期のある夜、コンビニに入った。
 その晩、学校の宿舎には帰らず、高雄の同窓会の先輩の許襄治の家でテレビを見ていた。当時、許襄治は国文科の二年生だった。彼によると、二年になってから宿舎には住まず、学校の近所に部屋を借りて自由気ままに暮らしていた。十一時から人が来て、ビールとつまみを準備していた。彼は、ベッドを壁に立て掛けてテーブルを部屋の中央に置き、椅子を並べ、この人らと夜通し麻雀をする。
 この人達は皆同じ大学の四年生、許襄治とは早くから麻雀仲間だ。しかし、他の人達が二年生、三年生と学年が上がっても彼は進級できず、学期毎に編入試験の準備をしては、どこかの私立大学生として生き延びた。結果、この年度になって元の学校に戻ってきて、また二年生をやっているというわけだ。
 そして、この時を機に、柯仲習と許襄治は親しくなった。それまで彼は吳雨淨が中心だった。同窓会も彼女が行きたいと言ったからついて行っただけで、もし同窓会の先輩の話が彼女から出ていなければ、もし相手がライバル心を表に出さないタイプなら、同窓会なんて気にもしていなかった。許襄治は正に後者だ。いつも寡黙で、吳雨淨と同じ学科の先輩なので内輪話ばかりしている。柯仲習は、彼が彼女に好感を抱いているのを分かっていたが――実際に彼女に好意を抱いている人は多かったが――しかし、他のやつらと同じく彼女を奪うチャンスを狙っているようには見えなかったので、その分幾らか安心だった。
 何度か編入を繰り返した年上の許襄治を莊聞緒は慕っていた。柯仲習が再び同窓会に足を踏み入れたのには、ある考えがあったからだ。それは、許襄治に近付いて莊聞緒の情報をたくさん聞き出す事、そうして復讐計画を練り上げるのだ。
 既に午前三時になろうとしている。先輩達は長期戦でヒートアップして、つまみもビールも底がついた。そこで、許襄治は柯仲習に近所のコンビニで何か買って来るようにおつかいに行かせた。
 茶葉卵をトングで挟んでいる時、コンビニの前を一台のトラックが通り過ぎた。
 無意識に頭を上げてちらっと見た。
 ――このトラック……どこかで見た事がある……
 トラックに書かれた金色のロゴに見覚えがある。
 思い出した。
 許襄治は、引越す度にこの運送会社に頼んでいた。全て学校付近で距離は遠くなかったが、彼は運送会社に頼んだ方が楽だし、効率的だと思っていた。
 それとあと……あと一箇所。
 莊聞緒の家の所だ!
 警察から吳雨淨の死は自殺として終結したと伝えられた時、混乱した精神状態の中で、莊聞緒の家にスクーターですぐに向かって、復讐してやりたいという衝動を必死に抑えた。
 莊聞緒も二年生になってから宿舎に住まなくなった。しかし、学校の近所に一人暮らししている許襄治とは違い、学校から遠い住宅街だ。通学には不便だが、その地区の物件は古いので学校付近よりも家賃が断然安い。だから、そこに着くと、冬場は凍てつく寒さが身に染みてすぐに冷静になれた。彼は一人暮らしではなく、同窓の化学科二年生の邵新璧と一緒だった。邵新璧先輩は嫌われ者で、皮肉屋だった。でも、同窓会活動ではいつも莊聞緒を支えていたし、吳雨淨に気があるらしかった。だから、もちろんライバルという事だ。でも、だからと言って直接手を下すのは馬鹿げている。
 そう。あの時、我慢して、綿密な復讐計画を立てる事にしたのだから。
 あの住宅街から家に帰ろうと思っていた時、金色のペンキで「迅興快運」と同じロゴが書かれたトラックが、速度を落として狭い曲がり角を通ろうとしているのを見掛けた事がある。
 随分遅かった、多分午前二時くらいだった……
 距離がかなり遠い二つの場所で偶然にも同じ運送会社のトラックを見かけて、頭がフル回転し始める。
 全く慌てる事なくもう一度卵を掴みながら、頭の中ではもう既にどうやってトラックを利用して復讐してやろうかと考え始めていた。
 コンビニから出る前には、久しぶりに口元が少しにやついていた。

Ⅵ ステップ5

 午前三時半を回ったところだ。
 方德杉は、トラックの後ろに側に立って、荷卸しの作業をぼうっと眺めていた。フォークリフトが横をかすめたのも気付かずに。彼は、運送会社のドライバーになって以来今まで一度もあった事のないおかしな出来事で頭がいっぱいだ!
 おかしな出来事は、全部二往復目に集中している!
 つまらなく長い一往復目が終わって、まず、市場の道路から何回か曲がった所で犬の死体を轢きそうになった。なんて不吉な! それから、びびってスピードを落とした。また猫やら犬やらの死体が出てきたら絶対にブレーキが間に合わない!
 もうすぐ鶏を載せる地点だという時に、古い住宅街の狭い道路を曲がったら、不思議な男が現れてもっと気分が悪くなった。本当にお化けなのか、自分で作り出した幻覚なのかも分からない。少し車体が揺れただけなのに驚いて死ぬかと思った!
 後ろから誰かがトラックを押したとしか……
 方德杉は、積込み作業を手伝う気が全く起きなかった。背中には何かでぽんと触られたような変な感触が残っていた。卸元の商売人が、彼の落ち着かない様子に気付いて諭してくれた。殺生の仕事ってのは、長くやってると不吉な事が起こるのはよくある事さ。でも、みんな家族を食わせるためにやってるんだから、毅然としてりゃあ自然とそんな事起こらなくなるもんだよと。
 戻る前に、商売人からもらった栄養ドリンクを飲んで自らを奮い立たせた。しかし、またあの狭い曲がり角を通ると、あの怖ろしさには何も変わりなく、もしかしたら角の所に……何か出てくるんじゃないかと思った。
 そうして、彼は慌ててアクセルを踏み、追われている犯人が古い住宅街を逃げているかのように、まるで高速道路みたいに猛スピードで走り去った。
 一体どういう事だ?
 頭を垂れて考え込んでいる間に、トラックの鳥籠が全部運ばれて無くなっていた。素早くズボンのポケットから受領書を出して、所長にサインしてもらう。しかし、そのサインと印鑑を見ながら、また心はあのおかしな出来事の方へと持っていかれた。
 ここ何日間かあの道が工事中だったなんて知らなかった。でも、付近に工事している場所があったのははっきりと覚えている。――それに、半年経ってもまだ終わっていなくて、でも、それはたしか二つ隣の道だったはず。一晩で突然ここに変わるか?
 もっとおかしな事に、一往復目も二往復目も全く同じルートなのに! 往復するのに、荷降ろし作業も含めて大体二時間程度。そんな短い時間のうちに、道路の状況がこんなに変わるか? 郊外の住宅街の角にいるお化けも、転がってた犬の死体も、みんな本物だろう! なんで次々と?
 方德杉は聡明な方ではないが、こんな明らかな違いに気が付かないほど鈍くもなかった。しかし、聡明でないがゆえに、脳みそを絞って懸命に考えても原因が分からなかった。それに、今日は二往復しかしていないのに、こんなにおかしな事が続いて身も心も疲れ果てた。時計を見ると、ちょうど三時三十三分だった。やっぱり早く帰るとしよう。
 所長にそそくさと挨拶し、びくびくしながら路上にトラックを停めて、会社へ車の鍵を返すために歩いた。
 二往復中に落ち度はなかったし、社長も何も言ってこなかった。効率が良くなった原因、実のところ「早帰り」は、病死鶏肉のニュースがあったおかげで、積荷の量が減ったからだ。もしもいつもと変わらない量だったら、しかも三往復だったら、さらに遅くなっていただろう。社長がクビへのカウントダウンをするチャンスだ。
 少なくとも今回は社長に説教されずに済む――心の中で、今晩唯一のラッキーな事だと思った。
 そして、自転車で小さなアパートに帰ろうとしている時、更におかしな事が起きた!
「杉ちゃん! 一体どういう事だ?」
 社長が驚いて目を丸くしている。方德杉的も驚きの余り言葉が出ない。運送会社の入口に何十羽もの鶏がいた。深夜の街中を群れをなしてお散歩しているではないか!
「ちゃんと載せてったのか?」社長が大雷を落とした。「なんで会社の前にこんなにたくさん鶏がいるんだ?」
 方德杉は、家に帰らずに精神科医に診てもらった方がいいと思った。

Ⅶ ステップ6

 犯行日は月、水、金のどれかだ。つまり「迅興貨運」が車を出す日。
 それに、莊聞緒が夜一人で家にいて、ルームメイトの邵新璧がいない時。彼らはそれぞれ一部屋ずつ使っていたが、絶対誰にも見付からないようにしたかった。
 柯仲習は、邵新璧の行動を調査して、いつどこにいるのか把握しておく必要があった。情報源はいつも許襄治だった。彼は成績が少し上がってきて無事四年生に進級し、編入試験の準備をする必要がなくなった。四年生の単位は少ないので毎日学校に行く必要もない。一番の関心事は、卒業後どうするかで、公務員、兵役、大学院受験、留年、就職活動、海外、結婚……いずれにしろ少なくとも一つは選ぶ事になる。
 莊聞緒、邵新璧、許襄治は同じ学校の卒業生で同期なので、情報交換は日常茶飯事だった。だから、その方面の情報は許襄治がすべて知っているし、いつも彼と飲むと話題になる。
 大学四年は莊聞緒にとってこの学校にいられる最後の年だ。卒業後、兵役に行く予定なので、兵役中にTOEFLの勉強をして、退役したら留学して学位を取得するつもりでいる。だから、古い住宅街に住むのもこれでおしまいだ。
 莊聞緒が引っ越してしまうと、柯仲習の計画は実行できなくなる。
 うまくタイミングを掴まないと!
 知るところによると、邵新璧は一週間実家に帰る。南部の大学院試験の準備をするから帰ると言われた時、興奮して息が詰まりそうだった! 帰る、もちろん高雄に!
 莊聞緒はまず兵役に行くつもりだ。だから、大学院試験を受けてからというもの、二年後に推薦状を書いてもらうために毎日学科の教授に媚びていた。同窓会での政治的な手腕といい、莊聞緒はまったく大したもんだ!
 つまり、この期間、莊聞緒は必ず台北にいる、一人でアパートにいる。
 やっと復讐できる!
 三月十四日水曜日の夜、許襄治を誘って飲みに行く。これも計画の第一歩だ。
 許襄治は酒好きで、飲んだら一晩飲み明かし、べろんべろんになるまでやめない。そんな普通じゃない生活をして、二日酔いで学校に行く気力もなくなり、ベッドで寝るのすら面倒で、午後になってやっと這い上がる。授業を受ける気もない。もしかしたら、午後起きて何か食べたら元気になって、また飲みに行っているのかもしれない。
 柯仲習はいつも彼と一緒にいたが、見ていられなくなって少し諭す事もある。しかし、聞く耳持たずだ。ただ、必ず受ける必要がある大事な授業、もしくは教授の小テストの時は出席する。全く酒の影響がないみたいに――何度も編入して、ついに良い子になったのか。
 彼は、こんな生活に慣れたからさと言った。
 あの夜、屋台で、許襄治が近くの店にトイレを借りに行った時、睡眠薬を彼の酒のコップに入れた。しかし、たくさん入れるわけにいかない、万年二日酔いのやつだって気付くかもしれないから! 犯行中も許襄治がぐでんぐでんに酔っ払ってくれているように願った。わざとたくさん許襄治に酒をついで、自分もたくさん飲んでいるふりをした。
 一緒に許襄治の家に帰って、彼がぐっすり眠るのを待つ。柯仲習は心の中で千二百二十四数えたところでこっそりと家から抜け出した。千二百二十四が意味するのは、吳雨淨が亡くなった日、クリスマスイブだ。
 夜風が涼しい路上に戻って、腕時計を見た。もう深夜十二時五十三分だ。
 まず、先回りして幾つかの道に行って、仕掛けをしておかなければならない。これに復路がうまくいくかどうかが賭かっている。
 あの道に道路工事中の場所がある。県の資金に問題が発生したのか何なのか、建設会社が半分工事して突然潰れた。工事に半年掛かっても終われなかったようだ。いつも作業員もいないし、本当にやめてしまったみたいだ。
 工事中だった場所からバリケードを取って、予定していた曲がり角に置いた。
 ここに置いたら、トラックのドライバーは慌ててブレーキを掛けるだろう!
 次に、別の道の不法投棄物だらけのゴミ溜めから予め隠しておいた黒いゴミ袋を取り出した。袋の中には凶器になる果物ナイフと、昨日殺した野良犬の死体が入っている。蒸し暑い天気じゃなかったので、犬の死体が腐るのが遅くなったようだが、臭いで気分が悪くなった。
 犬の死体を道路の中央に置いて、果物ナイフを自分のポケットに入れた。犬の死体が街灯と月光に照らされて、その静かな不気味さに突然吐き気を催した。
 すべて整った。時刻は深夜一時十二分。
 トラックの様子を観察する方法と同じく、角の暗い影にひっそり佇んだ。
 何分か待って、ずっしりとしたエンジン音が予想どおりに遠くから近付いてきた。街灯の明かりで、さっと通り過ぎたトラックの「迅興快運」の金色のロゴが見えた。
 トラックは犬の死体を避けるために急ブレーキを掛けた。鋭い摩擦音が周辺の事物と共鳴しているようで、柯仲習は精神が崩壊しそうだった! 深夜のブレーキ音がこんなに耳に突き刺さって骨の髄まで来るなんて、思ってもみなかった。
 しかし、道の角の後方に隠れていたので、ドライバーの顔が見えなかったし、犬の死体を見てどんな反応をしたかも分からなかった。時間がなくてそんな事気にしていられなかった。
 バックミラーに映らないように、素早くトラックの後ろに乗る必要があった。
 計画が遂に正式に始まる!
 トラックのドライバーは犬の死体を確認しに降りてこなかった。ドライバーは自分が犬を轢き殺したんじゃない、ただ夜中に動物の死体があっただけだと思ったんだろう。トラックは数秒間止まって、ゆっくりとバックした。
 よし今だ!
 エンジンをかけ直す前に、慎重にトラックの荷台に乗り込んだ。

Ⅷ ステップ7

 今夜は特別風が強いせいだろう! 鶏を載せて一往復したはずのトラックからきつい臭いが全くしてこない。
 柯仲習はトラックの荷台でじっと座っていた。右手をポケットに入れて果物ナイフを撫で回す。まるで今にも殻を突き破りそうな殺意を確認しているように。手の平を果物ナイフの柄と鞘の分かれ目で擦る、レースの決勝戦前夜に愛車の硬いハンドルを撫でているみたいだ。
 四十分経った。もうすぐトラックから降りる曲がり角に着くとはっきり分かっていた。
 間もなく、トラックは狭い曲がり角に差し掛かって速度を落とす。柯仲習は身をかがめて軽々とトラックから降り、素早く古い住宅があるもう一方の道に入った。トラックはカーブした後、また加速して、エンジン音と共に遠くに消えていった。という事は、トラックのドライバーに全く気付かれていなかったという事だ。
 ついに順調に住宅街まで来た!
 莊聞緒の家はこの近所、あの曲がり角から三百メートルもない。住宅街には何の明かりもなく、唯一の光は薄暗い街灯だけだ。
 遅れるわけにいかない。体内のアルコールがすっかりなくならないうちにやらなければ。大事な時に殺人の勇気がなくなると困る。
 スクーターは、復讐計画のルートを完全に調査し終わってからすぐに売り飛ばした。莊聞緒が殺害されれば、自分が第一容疑者になる事は分かっていた。だから、交通手段がない中、短時間で学校と住宅街を行き来できない事を警察に分からせる必要があった。
 それがアリバイ!
 莊聞緒と邵新璧はマンションのワンフロアを借りていた。それが目の前のマンションの二階だ。その時、二階の窓はまだ蛍光灯がついていた。
 呼び鈴を鳴らすと、すぐに、インターホンからくぐもった図太い男の声が聞こえた。
「はい! どなたですか?」
「聞緒先輩ですか? 仲習です!」
「おう! 仲習か! ちょっと待って、開けるから」
 莊聞緒の語気からして、深夜に突然訪問しても何も疑っていないようだ。すぐに門を開けてくれた。
「よお! 仲習! 入れ!」
 前後に並んで二階に上がった。柯仲習はスリッパを履きながら、心の中で計画済みのセリフを何度か繰り返していた。
「仲習、こんな遅くにまだ寝てないのか?」
「うん。酒を少し飲んだら、眠れなくなっちゃって」
「お前スクーター売っちゃったんだろ?」莊聞緒はいつもどおりのはきはきした話しぶりだった。「どうやってここに来た?」
「クラスメイトに借りて」
「そうか」莊聞緒はそれ以上聞かなかった。
 リビングに行くと、壁に沿って床にびっしりと外国語原文の教科書が積んであるのが目に入った。莊聞緒はスツールを引っ張って彼を座らせた。
「ところで、こんな遅くにどうした?」
 やっぱり聞いたか。
「こういうわけなんです……同窓会の先輩達もうすぐ卒業じゃないですか」落ち着いて答えた。「それで、同窓会のメンバーで四年生の先輩に代わって卒業旅行を……」
「あ! それいいね! 新璧が実家帰る前に言ってたっけ、大学院の試験が終わったら一緒に計画して行こうって」
「そういえば、新璧先輩は……いつ帰るんですか?」
「明日の午後だよ」
「ああ、じゃあ伝えてください。もう幾つかプランを考えてあります。登山とか、海でもいいし。皆さんがまだ一緒に行った事がない場所って……」
 莊聞緒と二人でリビングに座っていると、口数が突然多くなった。冷静になりたいと思っても、心の中で沸き起こる殺意のせいでコントロールできない。時間が刻一刻と過ぎていく――トラックが鶏を載せ終わって、あの曲がり角を通過するまでのカウントダウンが始まっている。
 自分でもどうしてこんなに饒舌なのか分からない。死ぬ予定のやつ相手に、なんでこんなにたくさん話しているんだろう? 生きてるうちに話しておかなきゃいけない事を一気に話しているみたいだ。
「酒持ってくるから、座ってて」
 長い間話してから、莊聞緒が突然言った。
 絶好のチャンス!
 待てなかった。この長い対峙で、もう引き返してしまいたくなっていた。
 莊聞緒が振り返った時、果物ナイフを突然出して、背後から喉元を切った! 頚椎の間に刃が引っ掛かって、うまい事切れない……
 指先が震えているのに気付いた。殺人って、ドラマなんかと違って跪けなんて言わなかったし、懺悔させるにももう遅い。莊聞緒はあっという間に命を落とした。彼の生も死も一瞬だ。
 実際、復讐が成功した後の勝利の快感を味わう気など元からなかった。ただ、歯を食いしばって高ぶった気持ちを抑え込む。慌ててキッチンに行って、流しの布巾で両手と自分が触れた場所を拭いた。
 腕時計を見ると、二時〇七分。実は、まだ充分時間がある。極度の緊張で時が過ぎるのが早く感じただけだ。
 ただ、早くここから離れたかった。
 全部の後始末を終わらせる。急いでモップをかけて、門を出る。
 出る前も、ドアのチャイムに触れた事を忘れていなかった。自分の服の端でそっと指紋を拭くと、チャイムは鳴らなかった。
 そして、すぐさま狭い曲がり角のある道路付近へと戻る。
 ――あと十分ある。
 はやる気持ちで、じっと薄暗い道を見つめて待つ。殺害した時の事を思い返した。緊張と震撼の場面……復讐の達成感は今もやはり殺人の罪悪感には敵わなかった……
 早く来いトラック! 今すぐここから離れたい……
 低いエンジン音がまた耳に届いた時、動作は慎重だったが、もう矢も盾もたまらないという気持ちだった。コッココッコ鳴きわめき、鼻をつく臭気を漂わせて、籠の中から星空を見つめる鶏達にもお構いなしに、トラックの荷台に乗り込んだ。

Ⅸ ステップ8

 午前三時〇五分。トラックは、私立大学付近の運送会社の方向へ曲がった。
 復路の車中、柯仲習の心拍数は上がったままだった。莊聞緒の喉元から鮮血が噴き出すシーンが、頭の中で壊れた再生機のように繰り返し繰り返し流れる――殺してまた倒れて、倒れてまた殺して、殺してまた倒れて、倒れてまた殺して……
 頭をぐっと強く抱えても、その恐ろしいシーンから完全には逃れられなかった。
 荷台の鶏籠はぎゅうぎゅう詰めで、夜風に乗って羽毛が舞って服にまとわり付いた。計画に少しのほころびも出ないように、トラックを降りてから服を全部捨てた。もちろん、想定内だ。ゴミ溜めの黒いゴミ袋の中に、全く同じもの、彼が今着ている服を入れておいた。
 トラックのドライバーがあの曲がり角に差し掛かった時、シナリオどおり、バリケードにぶつかりそうになった。柯仲習も驚いた。急ブレーキが掛かったので、鶏が籠の中であたふた暴れまわって、羽毛に埋もれたゴマ粒みたいな目がキョロキョロしている。周囲は羽をバタバタさせた後の生き物の臭いに満ち、なるほど鶏たちも自分と同じく不安なんだと思った。
 ブレーキのおかげで頭が冴えた。復讐計画はまだ終わっていない!
 無事に許襄治の家に戻る事さえできれば、今夜はすべてやり終えた事になる。これからまだまだたくさんやらなければならない後始末がある。
 機敏にトラックの荷台から降りて、腰を屈めて電柱の陰に走って入った。トラックのドライバーは罵声を浴びせるでもなく、長く停まったわけでもなく、すぐにバックして別の道に行った。オレンジのテールランプの明かりが暗くなり、最後には薄暗い街灯だけになった。
 トラックがいなくなったのを確認してから、電柱の陰から出た。ポケットには殺害に使った果物ナイフが入っている。ナイフの刃に付いた莊聞緒の血が木製の鞘に滲んでいた。事件現場に凶器を放置しておくわけにいかない、そんな事したら警察に目を付けられる。
 アリバイ。完璧なステージまであと一歩。
 だからこの果物ナイフは注意しないと。
 学校の後ろに大きな下水溝があるので、やろうと思えば直接そこに投げ捨てる事もできた。しかし、それだと安心できない。もし、警察が今夜の行動を詳しく調べたら、きっとこの目立つ大きな下水溝を捜索して、凶器が発見される確率が高い。そんな危険を冒してはならない。戻る途中道端に果物ナイフを捨てる事も考えてみたが、もし発見されたら、トラックで犯行現場に行った事がバレてしまう。
 そう。完璧なアリバイを作るため、柯仲習は酒を飲む事を覚え、スクーターを売った。もとより、クラスメイトにスクーターを借りるたちではなかったが。普段から交通手段が必要なら、バスかタクシーを利用していた。これを習慣にしていたのは、警察に、彼が移動手段を持たず、人にも借りず、深夜にバスがなく、タクシーもいなかったという事を気付かせるためだった。莊聞緒を殺すには、学校から住宅街まで必ず一往復しなければならず、これは不可能だ。それに、許襄治は車を持っていなかった。警察がもし、許襄治の車を利用して犯行現場に行ったのではないかと疑ってもやっぱり無駄だ。
 警察には絶対にバレないだろう、無関係の運送会社のトラックを利用したなんて。
 トラックのドライバーは全く気付かないはずだ。充分注意して慎重にやるし、その晩載せた鶏の臭いが、おかしな出来事と殺人事件とを結び付けて考えるのを阻害してくれるだろう。
 だから、絶対にこの方法をやり抜く。絶対に見付からないように。
 どんな後始末も、警察から疑われるような痕跡を残さない!
 実のところ、果物ナイフの一番いい捨て場所は、トラックを止めるためにバリケードを運んできた工事現場だと思っていた。この工事現場の作業員がいつか果物ナイフを地中深くに埋めてくれるだろうと思っていた。
 それから服。ゴミ溜めに犬の死体をゴミ袋に入れて捨てて、予め用意しておいた黒いゴミ袋の中から全く同じ洋服を取り出して暗闇で着替える。そして、脱いだ服はそのゴミ袋に入れて、ほかの不法投棄物の間に紛れるように捨てる。
 残った最後の仕事は――近所のコンビニに行く事。
 最初、コンビニで茶葉卵を掴んでいる時に、偶然「迅興貨運」のトラックを見てこの復讐計画が閃いた。計画の発端となったコンビニは、もちろん計画の終点となり得る!
 時刻は午前三時四十分。
 コンビニでビッグサイズのコーラを注文し、わざと紙コップをひっくり返してこぼした。可哀想に、店員はさぞかし掃除に時間が掛かるだろう。
 アリバイは遂に完成した! あの店員は、私が午前三時四十分に学校付近にいた事を覚えた。それに、夜市の屋台の店主が、夜十二時四十分に許襄治と酒を飲んでいた事を証明してくれる。
 たったの三時間で、交通手段もないのに、学校と往復するなんて無理無理!
 許襄治の家に戻った時、午前四時近くになっていた。しかし、柯仲習は疲れを感じなかった。許襄治はまだクローゼットに寄りかかっていびきをかいている。一晩中ぐっすり眠っていたよといびきが教えてくれているみたいだった。

Ⅹ ステップ9

「私立大学生殺人事件」の第三回捜査会議が、午後二時ぴったりに警察署の会議室で始まった。
 三日前の夜、一人の中年の婦人が慌てて一一〇番通報した。部屋を貸している学生が亡くなっていると。二階の部屋を貸していた学生がもうすぐ卒業したら退去するので、敷金を返すのと、現況確認のために、この大家である婦人が部屋を訪ねたのだった。
 二階へ上がると、部屋の鍵が掛かっていなかった。不審に思ってドアを開けると、リビングの床も壁も赤黒く固まった血痕だらけだった。
 恐ろしい事に、床の血だまりの中に、不自然な姿勢の遺体が二つあった!
 警察は通報を受けてすぐに現場に警官を急行させた。付近に住む暇を持て余していた老人たち、子供、主婦、帰宅したばかりでテレビを見てリラックスするつもりだった会社員、皆パトカーのサイレンを聞いて一斉にマンションの周りに集まってきて、ざわざわしていた。
 警察は大家から事情を聞き、殺害された二人は市内の私立大学生で、一人が物理学科四年生の莊聞緒、もう一人が化学科四年生の邵新璧だと分かった。二階に二人一緒に住んでいた。
 二人は凄惨な姿で亡くなっていた。殺害方法も似ていて、鋭利な刃物で頸部が切られたため一瞬で命を落としていた。現場から凶器は見付からず、死者以外の指紋もなかった事から、警察は殺人の可能性が非常に高いと判断した。
 この一帯の建物は古く、大体が築二十年以上で家賃が安かったが、近くに大学もないし、彼らのような年齢の学生がここを借りるのは珍しかった。
 警察は同じマンションの住人たちから話を聞いたが、目ぼしい情報は得られなかった。
 このマンションの住人は、ほとんどが九時五時定時出勤の会社員で、昼間は工業地区で働いている人が多く、徹夜している者などいなかった。マンションは各階に一戸で、住人同士が会う機会も少なかった。それに、事件現場は二階。一階には住居がないので、二階に行くために誰かの玄関前を通る事もない。
 捜査本部が設けられた。
 一回目の捜査会議で、刑事部長の郭乃義は、現場の状況から、被害者と親しい者の怨恨による犯行の可能性が高いと言った。
 そして、今回の会議の鍵となるのは、犯人のアリバイだ。焦点となる二名の被害者の死体検案書が上がってきた。
 二十四歳の新米刑事、呂益強は、参加者の中で一番最後に会議の席に着いた。被害者の邵新璧の身辺調査のため、今朝高雄から特急列車で台北に戻ってきたばかりだったが、全く疲れの色が見えていない。
 呂益強はこの事件にとても関心があった。
「莊聞緒と邵新璧は」、大学内の人間関係に詳しい刑事がまず発言した。「二人とも高雄の同窓会会員です。同じ学科ではありませんでしたが、共通の友人は全て同窓会の仲間です。おそらく犯人も同窓会の人間でしょう」
「どいつだ?」郭乃義が聞いた。
「最も疑わしいのは、同じ学校の電気工学科三年生の柯仲習です」
「なぜ?」
「柯仲習と被害者の莊聞緒の間には以前いざこざがあったようです」事情通の刑事が答えた。「二年前、柯仲習の彼女の吳雨淨が亡くなりました。原因は不明でしたが、自殺として処理しています。莊聞緒は当時最も疑わしかった人物です。そう言えば、益強はその時も捜査に関わっていたな」
 郭乃義の目が呂益強に向けられて、呂益強は頷いた。
「という事は」郭乃義部長は去年異動してきたばかりで、二年前の件には関与していなかった。「柯仲習は、莊聞緒が吳雨淨を殺したと思っていて、二年後、吳雨淨に替わって復讐したのが今回の件という事か?」
「はい」
 同僚から言われて、呂益強の消えかかっていた記憶が蘇った。
 呂益強が刑事になって初めての案件だった。ある国文科の女子大生が学部棟の教室で亡くなったが、原因が分からなかった。簡単な事件だと思ったが、全力で捜査しても何も収穫がなく、結果そんな形で終わらせてしまった。呂益強は真相を掴んで解決したかったが、それもできなかった。
「益強、どう思う?」
 呂益強は控えめに言った。「その可能性があると思います」
「よし」郭乃義は躊躇せず、すぐに続けた「じゃあ、柯仲習はあの晩どこにいた?」
「あの晩、柯仲習は同じ学校に通う国文科四年生の許襄治と飲む約束をしていました」事情通の刑事は捜査手帳を開いて言った。「先に付け足しておきたいんですが、許襄治も同窓会の人間で、莊聞緒と邵新璧とは仲間です。ですから、犯人の可能性も排除できません。彼ら二人は学校近くの夜市で酒を深夜まで飲んでいました。そして、柯仲習は許襄治の家に一緒に帰って泊まった。という事は、彼らはお互いにアリバイを作れます」
「学校と事件現場との距離は?」
「約四、五〇キロ。柯仲習は免許を持っていますが、一年前にスクーターを売っています。彼の言い分だと、学費のためです。ですから、一晩で学校から現場まで往復する事はできませんでした」
「学校付近のタクシー会社には聞いたか?」
「目ぼしい情報はありませんでした。学校の正門にタクシー乗り場がありますが、あの晩学生を乗せて現場に行ったドライバーはいませんでした。それに、現場の古い住宅街は、タクシー乗り場さえありませんでした」
「柯仲習がクラスメイトに借りた可能性は?」
「同じクラスの生徒に聞いたところ、柯仲習は一人で行動するタイプで、スクーターを借りられるような友達はいなかったそうです」
「許襄治は車を持っていたのか?」
「許襄治は免許はありましたが、車がないので、柯仲習がこっそり車を借りる事もできませんでした」事情通の刑事がノートを見て言った。「という事は、三時間の空白があっても、柯仲習は住宅街を往復できませんでした」
「その三時間が何を意味する?」
「柯仲習のアリバイが……完璧過ぎます。夜市の屋台の店主が、十二時四十分ごろ彼らはまだビールを飲んでいたと言っています。それに、学校の近くのコンビニの店員が、深夜三時四十分、ある学生がコーラを買ったと、柯仲習の写真を見せると、本人に間違いないとの事でした」
「ぴったり三時間か?」郭乃義は少し黙ってから、「柯仲習の行動が、アリバイ工作をしているように思えるな」と言った。
「そのとおりです。コンビニの店員が、その時、柯仲習がコーラを引っくり返してしまったのでよく印象に残っていると言っていました。わざとでしょう」
 郭乃義が慎重に証拠記録を見て言う、「それにしても、屋台の店主も、コンビニの店員も嘘はついていない。柯仲習がわざとやったにしても、まだ尻尾が掴めないな」
「柯仲習と許襄治が共犯だとしたらどうです?」呂益強が突然発言した。
「なぜそう思う?」
「柯仲習は自分のアリバイを作ると同時に許襄治のアリバイも作りました。許襄治は歩いて住宅街へ行って犯行に及んだ! 遠いですが、犯行の時間は十分に……」
「歩いては無理だ」郭乃義は呂益強の意見を真っ向から否定した。「会議の前、法医の先生から聞いたんだが、被害者は二人とも頸動脈断裂による失血死で、彼らの死亡時刻は深夜二時から二時半の間だ。学校から住宅地まで、往復で約八十キロ。少なくとも、許襄治には十二時四十分のアリバイがある。被害に遭った時間が二時半ごろ。二時間で、学校から住宅街まで交通手段がないと行けない。という事は、犯人が誰であれ、二時間以内に現場を往復できる方法を探さないといけないな」
 郭乃義がいきなり事件の核心に触れたので、会議室には沈黙が続いた。
「他の意見はあるか?」
「一つあります」呂益強は、郭乃義に否定されたからといってひるまなかった。
「柯仲習のアリバイは――十二時四十分と三時四十分の時間の中間、ちょうど二時十分、つまり、莊聞緒と邵新璧の死亡推定時刻です。柯仲習は何らかの方法を使って短時間で住宅地へ向かったと考えます。この事件の犯人の心理からすると、二つのアリバイの時間の間が短ければ短いほど良かったはずです。ですから、被害者の死亡推定時刻は、二つのアリバイの時間のちょうど真ん中にあるんだと思います」
「その意見は参考にする価値があるな。皆引き続き全力で、柯仲習が住宅街を往復できたわけを探り出してくれ」郭乃義は遂に首を縦に振った。
「次は、邵新璧。死体検案書から浮かんだ点だが、邵新璧の体内から睡眠薬の成分が検出された。しかし、莊聞緒からは出なかった。これは、犯人の犯行順序と関係があると見ている。益強、邵新璧の行動について報告してくれ」
「はい、部長」呂益強が再度発言する。
「邵新璧の母親によると、彼が高雄に帰ったのは台南で大学院試験を受けるためで、試験後何日か実家に泊まってから台北に戻ったようです。三月十三日夜十一時過ぎの台北行き列車に乗ったそうですので、台北に着いたのは、十四日の朝六時ごろになります。しかし、同窓会の会員に聞いたところ、そのとおりではなく、邵新璧は十五日に台北から帰ってきたと。この点が一つ説明がつきません。邵新璧はなぜ一日早く戻ったのでしょうか? それに、帰ってきてから殺害されるまで、どこにいたのでしょうか?」
 会議室に再び沈黙が流れた。今回ばかりは郭乃義も眉間にしわを寄せたままだ。
 呂益強も考え付かなかった。そう、本件が行き詰っているのは、二人の成人男性が同時に殺害された現場、そこを柯仲習一人では絶対に掌握できなかっただろうからだ。
 柯仲習はそんなすごい才能を持っていたのか? どうやって素早く住宅街まで往復して、しかも同時に二人を殺害したのか?
 このダブル殺人事件は、まだ被疑者があがったばかりなのに、異常な謎の障壁にぶつかってしまった。

Ⅺ ステップ10

 方德杉は、勇気を振り絞って警察署に行く事にした。
 そう、真相を知っているから!
「こんにちは、呂益強です」方德杉は警備員が用意してくれた椅子から立ち上がって、目の前の若者に近付いた。
「お名前は?」
「方德杉……」
「私立大学生殺人事件について何かご存知なんですね?」
 この若い刑事はとてもフレンドリーだが、簡潔な質問の仕方が方德杉にはプレッシャーだった。ヤクザだった時期もあるので、警察は避けてきた。
「私は運送会社のトラックドライバーです」方德杉は説明し始めた。「十五日の未明に、輸送中に変な事がありました。あの大学を通過する時、死んだ犬を轢きそうになったんです……それから、殺人事件が起きた古い住宅街には曲がり道があって、カーブしたらトラックの後ろに何か載ってるような気がして……恐くて、早く卸売市場に行きたくて……そして、また運転して戻ってきたら、今度はバリケードにぶつかりそうになって……」
「どの場所の事ですか?」
 呂益強は同僚に地図を持ってこさせて、説明を聞いた。
 うまく聞き出してくれたおかげで、口下手な方德杉は遂におかしな出来事について最初から洗いざらい話す事ができた。
「刑事さん、このルートは三年も走ってるんだ! こんな目に遭った事なんて一度もなかった……犯人にハメられたんだ!」
「あなたの憶測はとても合理的です」呂益強が肯定してくれて方德杉はホッとした。
「あの不思議な男は、この二年間、あなたのトラックの運転ルートをずっと観察し続けた。そして、事件当夜、あなたが急ブレーキを掛けざるを得ない状況にした。あなたのトラックがスピードを落としさえすれば、あなたが気付かない隙に後ろの荷台に乗り込めるからという事ですね。方さん、あなたの情報は非常に有益です」呂益強と方德杉は握手する。
「本当にありがとうございました」
「そんな大した事でも……」方德杉は褒められて、気持ちが浮き立った。
「しかし、被疑者があなたのトラックに乗ったのでしたら、後ろの荷台を検査させてもらってもいいでしょうか」
 実際、方德杉が満足して警察署を出た後、呂益強はこの貴重な手掛かりについて早速郭乃義に報告し、郭乃義はすぐさま緊急捜査会議を開いた。
 会議が終わると、大学付近の道路工事現場へ急行させてローラー作戦を実行し、遂に泥だらけのバリケードから三つの完璧な指紋を検出した。
 鑑定を経て、この三つの指紋は被疑者の柯仲習が残したもので、トラックのドライバーの言っていたとおりだった。警察が柯仲習を逮捕して何日か取り調べると、彼は殺害を認め、動機と殺害方法について自供した。警察は彼の供述に基づいて工事現場を掘り起こし、凶器の果物ナイフを発見した。
 しかし、柯仲習が認めたのは莊聞緒を殺害した件だけで、邵新璧の死には一切関係がないと言う。警察は罪を軽くするためにそう言っているのだろうと思ったが、果物ナイフに付いた血液は確かに莊聞緒のものだけだった。疑わしい点が幾つも出てきて、更に詳しく捜査を続ける必要があった。

Ⅻ 瓶の中の手紙

 これが私の犯罪告白。
 私が愛のためにした犯罪の告白――
 私が邵新璧を殺した事は誰も知らない。
 二年前、私は学校の同窓生で学科の後輩に当たる吳雨淨に夢中になった。世界にたった一人だけ、その美しさはいつどこでも注目の的だった。私には彼女しかいなかった。それが吳雨淨。
 愛のために心が動かされたのはあれが初めてだった。いや、愛と呼ぶにはまだほど遠かった。
 片思いだった。
 取り巻きの中にいる彼女を遠くから見ているだけで満足していた。成績が悪く、外見もパッとしない、壮大な志もなく、皆と仲良くできるタイプでもなく、将来出世するわけがない私。彼女と釣り合わないのは分かっていた。ただ隣に立つだけでも、話すだけでも、彼女の完璧さを汚してしまうような気がしていた。
 ただ永遠に無言のまま、影から見守っていたかった。
 彼女は予備校時代、既に付き合っている彼氏がいた。彼氏の柯仲習は、すごくできるやつだった。二人はお似合いで、私は生涯彼らに仕えて、祝福し、一生幸せでいられるよう祈りを捧げてもいいと思った。
 だが、同窓会生の中には、虎視眈々と柯仲習から彼女を奪おうとしているやつらがたくさんいた。
 もちろん、そんな事私が許さない。
 クリスマスダンスパーティの晩、私は遠くに隠れて、彼女と柯仲習が仲良くくっ付いて踊っている姿を眺めていた。強烈な嫉妬で胸がやけ焦げそうになったが、実際、私はこの嫉妬に溺れる感覚が好きだった、ほとんど自虐だが。
 高鳴る胸の鼓動から、自分は生きている、吳雨淨を深く愛していると、はっきり感じる事ができた。
 その晩、吳雨淨は亡くなった。
 原因が分からなかったし、どうするすべもなかった。私は自責の念にかられ、その苦痛から酒に溺れた。私は彼女を一生守る責任を果たせなかった。くそったれ。
 何がどうであれ、吳雨淨に代わって復讐してやる!
 誰が殺したのかは分かっている。あの二人だ――莊聞緒と邵新璧。
 彼らは大学二年になってから、学校から遠く離れた場所に引っ越した。同窓会の時もいつも二人でいる。ダンスパーティーの時、彼らは下心が見え見えだった。私は莊聞緒が柯仲習を睨みつけているのを見たし、邵新璧の口からは、卑猥で下劣な言葉が発せられていた。それが彼らの冗談でない事は、私には分かっていた。
 殺人事件が起きた後、吳雨淨の死について、やはり彼らは無関心なふりをしていた。冷静で沈黙を貫く姿は、もう私に彼らが犯人だと告げているかのようだった。
 私は復讐計画に取り掛かる事にした。
 積極的に同窓会の活動に参加して、密かに莊聞緒と邵新璧の情報を集めた。彼らの動向を詳しく知らなければ、犯行の機会が見付からない。
 この辺から、柯仲習がなぜか私に積極的に接近し始めた。表面上は世界の終わりのような悲しいふりをしているが、そんなやつではないと分かっていた。自分を取り繕って、他人に腹の底を見透かされないようにしているだけだ。そこで私は、まず親しくなって、自分の予想が当たっているかどうか確かめてやろうと思った。
 ある日一緒にめちゃくちゃ飲んだ後、私は彼を抱えて自分の家に連れて帰った。
 まさか酔っ払いのこんな戦慄の言葉を聞く事になるとは!
 吳雨淨の代わりに復讐するぞ、莊聞緒を殺してやる!
 私にとって極めて震撼する事実で、そして、すごく貴重な情報だった。私はこっそり彼の後をつけて行動を観察し始めた。そうやってゆっくりと長い時間を掛けて、最終的に彼の胸の内の復讐計画をとくと理解した。
 彼の復讐計画は徹底的に私を利用していた。私を飲みに誘っては、莊聞緒と邵新璧の動向を探った。ちなみに、殺人現場に向かったトラックは、私が引っ越しの時によく利用していた運送会社のものだ。ひどい事に、彼は私を利用してアリバイを作ろうともしていた。柯仲習ってやつは、とことん賢いやつだ!
 一方で、莊聞緒も私に接近してきていた。勝ち気で親分肌のやつだったが、私といる時は弱い一面も見せてきた。しかし、私はそんな事はどうでもいい。殺したいやつが自分から来てくれるんだから大歓迎だった。一番ウザかったのは、吳雨淨に片思いしているのを知られてしまった事!
 それが私の大失敗!
 吳雨淨が亡くなる前、遠くから彼女の表情を見つめているのを莊聞緒に見られた。その事について彼から何か言ってきた事はなかったが、それがなおさら我慢できなかった。まるで彼が私の秘密をバラしたら、途端に私の心が粉々に砕け散るみたいだった。
 後に、莊聞緒は私に、邵新璧を殺したいと打ち明けた。
 まさか! もともと仲の良い二人が、実は深い憎しみを抱え合っていたとは。それに、莊聞緒の殺害動機も、吳雨淨の代わりに復讐したいからとは!
 彼は吳雨淨は邵新璧に殺されたと思っている。でも、二人はルームメイトだったから、莊聞緒が疑いを持たれずに手を下せる機会がなかった。
 四年生になって、莊聞緒は卒業後まず兵役に行く事にし、邵新璧は大学院を受験する事にした。将来別々の道を行く事になっているので、莊聞緒はタイミングをよく見計らわなければいけない。
 吳雨淨の死が私の心に引っ掛かっている事は彼に知られているし、彼を手助けするしかなかった。
 もとより、莊聞緒は私に共犯になれと脅していた!
 実際のところ、莊聞緒のこの態度が、彼が殺人犯でないという事を意味するのか、それとも、他の原因で邵新璧を殺したいのかは分からなかった。いずれにしろ、彼は私の吳雨淨への愛を利用して濡れ衣を着せようとしていた。
 そして、私は身震いするような恐ろしい計画を思い付いた!
 私の吳雨淨への真摯さ、熱烈な愛情が、唯一この計画によって証明されるのだ!
 まず、柯仲習は、月、水、金の夜、学校か住宅街付近でトラックを観察してルートを研究していた。しかし、二、三年生の授業の単位が多くて、彼は次の日早くから授業があると監視できなかった。そんな時、私はその仕事を代わりにやった。柯仲習が後になって犯行方法を話した時のため、ドライバーが気付くようにわざと隠れず、おかしな男の存在を印象付けておいてあげた。
 それと、莊聞緒に柯仲習がお前の事を殺したがっているぞと教えてやった。意外にも、莊聞緒は驚かなかった。柯仲習に恨まれている事を知っていたのかもしれない。
 私は莊聞緒に、柯仲習が深夜にトラックでそっちの住宅街に行くよ。一緒に酒を飲もうって言って、お前の酒に睡眠薬を混ぜて飲ませてから、部屋のガス栓を開けて、中毒死させようとしている。だから、まずお前は先に睡眠薬で邵新璧を昏睡状態にして隠しておいて、次に柯仲習をやったらいいさ。酒を飲んだ後は、すぐに眠ったふりをすればいい。柯仲習がガス栓を開けて去って行ったら、起き上がって邵新璧をリビングに引っ張ってくる、そうすれば中毒死した人が入れ換わる。その時、私は協力して現場から一緒に離れて、アリバイを作ってやるからさと言った。
 実際には、全部嘘だ。柯仲習が果物ナイフを使ってやる。私はアリバイ工作なんて莊聞緒のためにやるわけがない。
 一週間前、邵新璧は大学院を受験しに六日間の予定で南部に帰った。柯仲習の計画はこの時にやらなければならなかった。
 六日目の夜、水曜日、トラックのドライバーがいつもどおりにやってきた!
 私と莊聞緒は口裏を合わせて、同窓会のメンバーに、邵新璧は一週間実家に帰る。十五日の午後台北に戻ると、柯仲習の耳にも入るように言った。警察は、この情報がどこから出てきたのかなかなか調べがつかないが、最後には莊聞緒だったと分かるだろう。私の計画では、莊聞緒はその時もうとっくに柯仲習に殺されている。
 十四日の朝、邵新璧が住宅街にある部屋に帰った時、すぐに莊聞緒に睡眠薬を飲まされ、寝室に隠された。一方で、予想どおり、柯仲習はあの晩私と酒を飲む約束をした。
 実は、十四日の夜、私は全然酒を飲んでいなかった。ずっと柯仲習が私の酒に睡眠薬を入れる機会を作ってあげていた。彼と同じで酔っ払ったふりをしていた。彼は私が眠るのを待って安心して出て行った。睡眠薬の効果はてきめんで、頭が鉛のように重かった。しかし、事前に練習済みだったので何とか起き上がれた。彼が出て行くと、私も裏玄関から出た。
 聞くところによると、アルコールに睡眠薬を混ぜると精神錯乱を起こすという。そのとおり、私は確かにそんな感じだった! 確かに錯乱状態だったから犯罪計画を実行する度胸があった!
 あの晩、柯仲習が乗ったトラックは、実は私が運転していた。
 彼がバリケードを移動させていた時、私はあの運送会社のトラックを盗み、本物のトラックのドライバーが来る数分前に予定していた地点に到着した。
 彼の計画を自分のものにしてから、私は引越しの回数を増やし、運送会社に行く機会を作って観察した。結果、社長がケチな事、運送会社のトラックは道端の至る所に路上駐車してあって誰も見張っていない事、それに、使っていないトラックが何台かあるという事が分かった。私は何とかそのうち一台の合い鍵を作った。
 一台のトラックのためにこんなに苦労したのも意味がある。
 まず、邵新璧を殺すため、住宅街に行く交通手段が必要だった。それに、莊聞緒に私が本当に彼を乗せて、代わりにアリバイを作るという事を信じ込ませるために、トラックの鍵を見せる必要もあった。柯仲習の元の計画どおりに、本当にあのトラックのドライバーが乗せてしまったら、そしてもし見付かってしまったら、全ての計画は失敗に終わってしまう。しかし、私が彼を乗せれば、彼が何かへまをしても気付かないふりをしていればいい。
 私は柯仲習を乗せて古い住宅街に着いた。あの狭い曲がり角を通って、降ろした。そして、トラックを現場から遠くないゴミ溜めの隣に停めた。絶対に柯仲習に位置を知られたくなかった。私はすぐに曲がり角の所に戻って、あのトラックが到着する前に、石を幾つか置いた。そうすれば、あのトラックがこの曲がり角を曲がる時、予想外の振動が起きて、ドライバーは誰かがここで降りたんじゃないかと疑い始めるだろう。
 柯仲習が順調に莊聞緒を殺して立ち去った後、私はマンションに侵入して、昏睡状態の邵新璧を寝室から引っ張ってきて、用意しておいた果物ナイフで彼の喉を切った。そして、すぐにトラックを停めてある住宅街のゴミ溜めに向かった。
 実際、一昨日私は籠入りの鶏二十籠と、籠だけを四十個買って、ゴミ溜めに置いておいた。最近は市場に病死鶏肉が出回っているというニュースだらけだったので、鶏は売れ残り、予算より随分と安く買えた。
 まず、空の籠をトラックの荷台に載せて、その周りに鶏入りの籠を置いた。柯仲習は絶対に何かおかしいなんて気付かないだろうし、その方が後片付けが楽だ。
 時間が来て、またトラックのドライバーになりすまして柯仲習を乗せて私の家に戻った。
 あのトラックより一歩先に到着して柯仲習を乗せ、あのトラックが行った後にバリケードを置いた場所に到着しなければならない。まさか、柯仲習が降りてバリケードを移動させようとした時にまたあのトラックに遭ってしまうとか、あのトラックがバリケードに出くわさないなんて事ないだろうか。
 当然危険な賭けだった。柯仲習が、往復のルートが違うとか、スピードが違いすぎるとか気が付く可能性もある……それに、トラックのドライバーがもし降りてきてバリケードを移動させたら、証人と被疑者の供述に食い違いが出て、警察に私のトリックが見破られる。これは賭けだ。まあ、だがこの点は大丈夫だろうと思った。あのトラックのドライバーは、一晩に何度も驚かされた事だし、きっとびびって降りずにそのまま走り去るだろうから。
 学校付近に戻って、私がバリケードを仕掛けた道で柯仲習を降ろした。
 柯仲習がバリケードを工事現場に戻してコンビニでアリバイを作っている時、私の問題は、この鶏たちをどう処分するかだった。その時の私はちょっと狂っていた――籠を開けて逃がした。運送会社はすぐそこ、そうすればトラックのドライバーに一連のおかしな出来事を深く印象付ける事ができる!
 六十個もの鶏籠を捨てるのは簡単じゃなかった。ゴミ溜めに行って鶏籠を全部捨ててから、元の場所にまた駐車する。私が運転したトラックの駐車場所は、運送会社から遠かったので、社員達に見られる事はなかった。最後の仕事は大急ぎだった。なぜなら、柯仲習が戻って来る前に自分のベッドルームにいなければならなかったから。
 そう、成功した。頂点を極めた、非の打ち所がない、完全犯罪を。
 最終的に、警察は現場で二人の遺体を発見した。そして、トラックのドライバーは、あの晩のおかしな出来事と事件の関連性について思い付き、警察に通報しに行った。
 結果から言うと、私は吳雨淨を殺害した犯人二人を命と引き換えにしてやったし、彼氏としての責任を果たさなかった柯仲習にも罰を与えてやった。
 そして、私は吳雨淨への誓いを守った。
 全ては吳雨淨のため。
 吳雨淨が、強くて勇敢な復讐心を与えてくれた。
 吳雨淨のおかげで、この卑屈で気の小さい私にも、完璧な犯罪ができた!


既晴(きせい)
一九七五年、台湾・高雄市生まれ。一九九五年、短編「考前計劃」でデビュー。二〇〇二年、長編『請把門鎖好』が第四回皇冠大衆小説賞大賞受賞。著書多数。小説のほか、解説やコラム、翻訳なども多く手がけている。二〇二〇年、自身の十作目となる探偵・張鈞見シリーズの短編集『城境之雨』を発表、その中の一編『沉默之槍』が台湾でテレビドラマ化された。


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