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トミオ石(1)

深津十一

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【作品紹介】(文:松本寛大)

 中学校の理科教師・小谷の趣味は石集め。ある日、そんな彼のもとに奇妙な男が現れます。
「石、見せてください。珍しい石」
 いぶかしく思いながらも、男に乞われるままに石を見せることにした小谷ですが……そこから彼の運命が大きく変わっていきます。深津十一さんの、不思議で少し不気味な短編小説をお届けします。
 本作は、実は深津さんのデビュー作の原型となった作品で、設定の一部が共通しています。『「童石」をめぐる奇妙な物語』(文庫化にあたって『コレクター 不思議な石の物語』に改題)の読者にはそうした意味でも興味深いと思います。
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 今、くすくすという忍び笑いが、確かに聞こえた。
 ん? なぜここで笑う?
 チョークの先を黒板にあてたまま振り返る。
 三十三個の顔すべてが、じっとこちらを見ていた。どれもこれも中学生特有の、中途半端で生々しい顔だ。
「何が面白いんだ?」
 湧きあがる不安と苛立ちを抑え、極力柔らかなトーンを意識して投げかけた質問は、そのまま生徒たちの頭の上を通り過ぎ、静まりかえった教室の後ろの壁に吸い込まれて消えた。
 魚の跳ねる水音に振り向くが、鏡のような湖面にはわずかな波紋も残されていない。
 そんな感じだ。
 窓の外は柔らかな薄桃色の光にあふれているというのに、教室の中は思わず目をこすりたくなるような翳りに満たされている。そしてうすら寒い。
 厭な感じだ。

 石の話をしていたところだった。
 ここ十年ほど、理科の最初の授業におけるつかみとして、学生のころから趣味で集めている珍しい石の話をすることにしていた。ただ、いくら珍しいとはいっても、いまどきの中学生にとって石の話など退屈だろうという自覚はあった。だから本当なら、このあと珍しい石の実物を見せるつもりで、白衣のポケットにとっておきを一つ忍ばせていた。それは石の内部の空洞に石があり、振ればコトコトと音が聞こえる鈴石という代物で、どんなに白けたクラスでも必ず受けるという実績を持つ、自信の一品だった。
 だけどなんだか見せる気が失せた。出鼻をくじかれたというやつだ。
 背後の黒板に大きく板書した〈小谷俊太郎〉〈趣味 石集め〉の文字や、「三十九歳、いまだに独身です」と少しおどけ気味に告げたことが今では虚しく、そして腹立たしい。
 結局、予定していた話を半分もしないまま腰砕けの自己紹介を終え、残りの時間は理科の副教材の使い方やノートの取り方など、あえて事務的な口調に徹した説明を行った。そして、チャイムに救われるようにして教室を出た。

 早めに授業の終わったクラスがあったのか、廊下にはすでに多くの生徒がいた。
 身を包むざわめきにほっと息をつく。
 職員室に向かって歩きながら反省した。新米教師ではあるまいに、一部の生徒の笑い声ごときに動揺してどうするのかと。こちらも気分を害したが、きっと生徒の方も、気分屋で扱いづらい教師が来たとうんざりしたことだろう。赴任早々、つまらぬ印象を与えてしまった。ああ、くそっ。なにごとも最初が肝心だというのに――。
 とにかく今は次のクラスにこの失敗を引きずらないことだ。今度はいちいち背を向け板書などせず、最初からずっと生徒たちを見ながら話をしよう。そう、基本に戻れだ。
 職員室では、教務主任以外の教師はみな次の授業に向けてあわただしく立ち働いていた。
 私はあえて自分の席につき、湯飲みに半分ほど残っていた濃い目の緑茶を一気にあおった。冷え切っていて苦い。休む間もなく始業のチャイムが鳴る。
「よし」
 気合いを入れ、私は席を立った。

「大学では地質学を専攻していました。地質学というのは、地面の下のことをいろいろ研究する学問です。たとえば地層とか岩石とか、つまり地球そのものを調べるわけです。というとスケールが大きくて恰好いいんですが、実際には毎日石を削って標本を作ったり、山で石を拾ってきたりと、まあとにかく地味な分野です。で、そんな学生時代をおくったことから、珍しい石を集めるのが趣味になりました。そこで――」
 クラス全員の顔が一斉にこちらに向けられた。
 くすくすくす……。
 え?
 なぜさっきと同じタイミングで笑う?
 石が、どうしたというんだ。
 それとも、私は、なにかまずいことを言ってしまったのか?

   ◇ ◇ ◇

 また試験管の底を抜いてしまった。もうこれで三本目になる。集中力がなくなってきているサインだ。あと十数本の洗浄が残っているが、このまま続けるとさらに何本かを駄目にしてしまうのは目に見えている。
 私は水を止め、一息入れることにした。
 隣の作業机に移り、時代物のニクロム線式電熱器でコーヒーを淹れるための湯を沸かす。使うのはビーカーやフラスコではなく、自宅から持ち込んだステンレス製のケトルだ。沸騰するまで七分近くかかる。待つには長く、何かをするには足りない時間だが、ぼんやりするのは得意なので苦痛ではない。
 椅子に腰かけ、背もたれに体重を預ける。
 廊下を二つの足音がゆく。天井の蛍光灯がジジと鳴る。
 前任者が几帳面な人だったらしく、ここの理科準備室はきれいに整頓されている。薬品棚も新調されたばかりのもので、独特の薬品臭もほとんどなく、タバコ臭い職員室よりはよほど空気がよい。なにより静かだ。どちらかといえば群れ集うのが苦手な私は、年度初めの事務的な仕事が少し落ち着いた先週末あたりから、実験の準備を口実に、放課後の大半をこの細長い部屋で過ごすようになっていた。

 県北端に位置するここS村で唯一のS中学校に、配転を希望する者はほとんどいない。何事にも不便な僻地であるということ、そして田舎特有のプライバシー感覚の低さなど、若い世代であるほど敬遠される。
 だけど私にとって、それらは特に気になるような事柄ではなかった。なにより前任校での勤務は六年と長くなり、いい加減飽きがきていたし、田舎生活を嫌がる家族のいない独身の気楽さもあって、転勤の話があった時は二つ返事で受諾した。
 聞けばS中学校は一年生が一クラス、二、三年生はそれぞれ二クラスしかないため、全学年の理科を一人で受け持つことになるという。それはつまりS村の中学生の理科教育すべてを任されるということで、責任は重いがやりがいもある、そう思ったのだ。なので話を受けたあとは、赴任の日が楽しみですらあった。それだけに初日の授業でのつまずきは、正直ショックが大きかった。四月半ば過ぎとなった今でも、毎日のように思い出し、そのたびに体が熱くなる。
 結局、石の話題がなぜ笑いを誘ったのかは、未だにわからないままでいる。生徒たちに直接聞けば済むことなのだろうが、きっかけを探っているうちにタイミングを逃してしまった。幸い二回目の授業以降、奇妙な雰囲気を感じることは一度もなく、どのクラスでもごく普通のやり取りが成立している。ならばあえて余計なことをほじくり返すこともない。教師生活は平穏がなによりなのだ。

 ケトルから湯気が立ち始めた。
 あと三分と少しだ。
 フィルターの準備を忘れていたことに気づいて椅子から尻を浮かせたとき、コツコツという硬く軽い音がした。
 中庭に面した窓ガラスからだ。時刻は午後五時を少し過ぎている。
 部活を終えた生徒だろうか。
 何人かの生徒を思い浮かべながら窓際に歩み寄り、カーテンを開けた。
 大きな顔があった。
 淡い夕闇の底からこちらを見上げるその顔は、正面からライトでも当てているのかと思うほどに白く、眉は濃く、頬と唇は赤かった。目が合うと大きな目がくるりと動いた。
 作り物のような造作、大げさな動き、まるで出来の悪い人形の顔だ。
 そして、人形は人形でも、これは……

「あなたが小谷先生?」
 窓を開いたとたん、甲高い声が飛び込んできた。語尾がキシキシと耳の奥に引っかかる。
 ああ、腹話術の人形だ。
 一人納得し、胸のつかえがとれた。
 窓のすぐ向こうに立っていたのは、グレーのスーツを着た小柄な男性だった。全体に色のない景色の中で一点、鮮やかな山吹色のネクタイが目を引いた。
「はい小谷ですが」
 男の眉尻が下がり、見事な八の字になった。
 見れば見るほど腹話術の人形だった。性別は男で間違いなさそうだが年齢は見当がつかない。人形は歳をとらないのだ。
「石、見せてください。珍しい石」
「石?」
「いろいろ持ってるそうじゃないですか、珍しい石」
 私が石を集めているという話は、二年一組と二年二組にしかしていない。三クラス目以降はすっかりめげてしまってやめたのだ。
 ならば、どちらかのクラスの、生徒の保護者だろうか。
「失礼ですが、どちらさまでしょうか」
「林ですよ、林富夫。ボクも石を集めてるんです」
 男はまっすぐな視線をこちらに向けたまま一息に言った。
 目があきらかに普通ではない。受け答えの微妙なちぐはぐさも狙ったものではないようだ。これは深く関わらない方がいい。仕事中を理由に、丁重にお引き取りを願うのが無難だろう。
「申し訳ないですが石は自宅においてるんです。それにまだ勤務時間中なのですよ。明日の実験の準備が残ってまして」
「あ、そうなの。じゃあだめだね」
 男が拍子抜けするほどあっさりと引き下がったので、「ええ、石の話ならお聞きしたかったんですが」と、ついよけいなことを言ってしまった。
「ホントに? じゃあ、仕事が終わったら石の話をしましょうよ。ボク、ここで待ってます」
 これには慌てた。仕方なく、今から三クラス分の実験の準備をしたあとに、資料の整理を夜遅くまでやらなければいけないから今日は無理だと言った。
 前半は本当で、あとは嘘だ。
 男の目がまたくるりと動いた。
「学校の先生って忙しいんですね。じゃあさ、今度の土曜日、ボクのうちへ石を持って来て下さいよ」
「あなたのお宅に、石を持って、ですか」
「うんそう。できるだけ珍しいヤツをお願いしますよ。重くて大変ならタクシーを使ってちょうだいね。タクシー代はボクが払うからさ」
「いやいや、そんな立派なものは持ってないですよ。それに今度の土曜日は――」
 適当な嘘が思いつかない。
 男は突然うつむき、窓枠で見えない下の方で何やらごそごそと手を動かしはじめた。
「あの、林さんは、どうして私のことを――」
「はい、これ、ボクんちの住所。もしわかんなくなったら、その辺の人に、林の本家はどこ? って聞けば教えてくれるよ」
 男は手帳の切れ端のような紙を突き出し、にこにこと笑ってみせた。
「ボクも今まで誰にも見せたことがない〈とっておきの石〉を準備しとくから、楽しみにしておいてよ。じゃあ今度の土曜日にね」
 男は手を振り、背を向けると、いつの間にかすっかり濃くなった夕闇の向こうへ、ひょこひょこと去っていった。

 なんだ?
 今のはなんだったんだ。
 幻覚や白昼夢ではない証拠に、手元には男から手渡されたメモが残っている。
 メモには大きさが不揃いの子どものような字で〈S村大字石岡十四番地ノ二 林富夫〉と書かれていた。
 背後でシューシューとケトルが騒いでいる。
 電熱器のスイッチを切らなければ。
 そう思うのだが、妙に体が重く、振り向くことすら億劫だった。

   ◇ ◇ ◇

 男の家に向かっている。
 雨ならそれを理由にやめようと思っていたのに、あいにく朝から快晴だった。これといった急用も入らなかったし、体調も良かった。
 土曜日の午後三時過ぎ、まっすぐな田舎道の先に人影はない。
 淡くかすんだ空から降りそそぐ陽射しが背中にほどよくあたたかい。
 まもなく水が張られる田んぼが左右に黒々と広がり、風にやわらかな土の匂いが混ざり込んでいる。
 歩きながらもまだ迷っていた。
 あのときの男の表情、声、態度、どれもが微妙にずれていて、周囲の空間までもが歪んでいたかのような印象が今も残っている。もしあのまま会話を続けていれば、現実世界とは少しだけ位相の異なるあちら側に取り込まれてしまったかもしれない。そう思わせるほどの存在感だった。学校内というこちらのテリトリーにいたにもかかわらずである。ならばこれが男の家ならどうなるのだろうか。いい歳をして恥ずかしい話だが、心霊スポットにでも向かうような気分で、ずっと背中のあたりがざわざわとして落ち着かなかった。
 じゃあやめておけばいい、ということではあるが――
 どうしても男の石が見てみたかった。
 どこからか私が珍しい石を集めていることを聞きつけ、それを見たいとわざわざ訪ねてくるような人物が持つ、まだ誰にも見せたことのないという、とっておきの石。
 いったいどんな石なのか。
 石に限らずなにかのコレクターなら、他人のとっておきを当然見たいと思うし、また自分の持つ珍品を人に見せたいとも思うだろう。その点に関してだけは、男はごく普通の感覚の持ち主のように思える。

 ――できるだけ珍しいヤツをお願いしますよ。

 私はショルダーバッグにそっと触れた。
 いろいろ悩んだ末に、手持ちの中で一番高価で見栄えのする石を選んだ。購入価格十八万円。知人や同僚には呆れられたが、あの男ならこの石の価値をわかってくれるのではないだろうか。
 そんな思いも、私の足を男の家に向かわせる原動力となっていた。

「先生っ、どこ行くんですか?」
 突然の背後からの声に、心臓が跳ねた。
 直後に甲高いブレーキ音がして、三台の自転車が相次いで目の前に停車した。
 学校の男子生徒たちだった。たしか二年一組の山崎と、あとの二人は――
「もしかして、トミーのとこ?」
 まだ名前を覚えていない生徒の一人がそう言って、意味ありげな笑いを浮かべた。
「トミー?」
「ああそうか、えっとトミーの名前って、なんだっけ」
「富夫だよ、林富夫」
「へえー、そんな名前だったんだ」
「なんだよお前、知らなかったのかよ」
「だって、トミーはトミーじゃん。見るからに」
 どうやらあの男は、生徒たちの間でトミーと呼ばれているらしい。
 そのカタカナっぽい響きは、私の中にあった男のイメージ――腹話術の人形に、ぴたりと重なった。

 ちょうどいい、生徒たちから男の情報を聞き出してやろう。
「林さんは、トミーって呼ばれているのか」
「そうだよ。じゃあやっぱり、トミーの家に行くの?」
「ちょっと前に林さんがわざわざ学校に来てくれて、一度来ないかって誘われてね。しかし道を歩いていただけなのに、よく林さんの家に行くってことがわかったな」
「だって、先生も石が好きなんでしょ」
 三人は互いに顔を見合わせ、くすくすと笑いあった。
 そして山崎という生徒が私のショルダーバッグを指差した。
「先生、そのカバンの中に石が入ってるんじゃないの」
「へえ、そんなことまでわかるのか」
「やっぱりね。先生ほら、これ見てよ」
 山崎は背中のリュックを胸の前に回すと、カバーをはね上げ中を覗かせてくれた。灰色のジャガイモのようなものが五、六個入っていた。
「石?」
「そう、今からトミーに売りに行くところ」
「売る? この石を?」
「トミーに石を持っていくと買ってくれるんだ。うちの親は駄目だって言うんだけど、小遣いがピンチになるとさ、ちょこっとね」
 そう言われてあらためて残る二人を見れば、同じようなリュックを背負っている。あの中にも石が入っているのだろう。
 石は専門の業者から購入するか、もしくは自分で採集するもので、一般の人から買うという発想は私にはなかった。
 それにしても、男はいったいどんな石を買い取るというのか。
 生徒たちに、なにか珍しい石を探させているのだろうか。
 私は山崎にことわってから、石の一つを手に取ってみた。手のひらにほどよく収まるその石は、全体に明るい灰色で表面はなめらかな手触りだった。河原なんかにいくらでも転がっている、ごく普通の砂岩だと思われた。
 この石を買うというのか。
 いくらで? なんのために?

「先生、それ、いくら見たってただの石ころだよ。さっき大川の河原で適当にひろってきたやつだもん。トミーは石ならなんでもいいんだって。わけわかんないだろ」
 そしてなんとなくという感じで三人は自転車を降り、私を囲むようにして歩きはじめた。休日に、学校の外で、新しく来た教師と話すということに軽い興奮を覚えているようだった。
「そんなんだからトミーは有名人なんだ。S村ではみんな知ってるよ。たまに大人だってお金に困ったら石を買ってもらってるんだぜ。だから先生がさ、最初の授業で石を集めてるって言ったから、つい笑っちゃったよ」
 そういうことか。
 なるほどと納得がいって、初日の授業以来、重く湿っていた心が軽くなった。
 それからは会話が弾んだ。男の情報を求めると、生徒たちは先を争うようにしていろんな話を聞かせてくれた。
 男は四十歳半ば過ぎの独身で、年老いた母親と二人暮らしをしていること。
 男はおそらく無職で、祖父が何かの事業で築いた財産によって生活しているらしいこと。
 男の石集めは、もう十年以上前から続けられているらしいこと。
 もしかしたらと予想していた男の奇行などに関する話はなかった。そのことに安心すると同時に物足りなさを感じたのは、身勝手というものだろう。
「先生、ほら、あれがトミーの家」
 今日名前を覚えた西島という生徒が腕を伸ばし、前方を指差した。
 青くかすむ遠い山並みを背景に、陽光を白く跳ね返す大きな瓦屋根があった。

   ◇ ◇ ◇

「これとこれは五百円、そっちのは七百円で、その赤っぽいのは三百円ね。んーと、だから全部で……」
「二千円だよ」
「そうそう、はい、じゃあ二千円。えっと次、君ね。この大きいのが二百円、小さいのは二つで六百円……」
 典型的な田舎の旧家だった。時代劇で見る武家屋敷のような母屋、背の高い白壁の蔵、都市部ならそれだけで一世帯が暮らすのに十分なサイズの離れ。この三つの建物が余裕をもって配置された敷地と、それらすべてを囲む古びた土塀。
 土塀の外に自転車を停めた生徒たちは、開け放たれた門を躊躇なくくぐり、離れに向かって一目散に駆け寄ると、まるで友だちの家に来たかのように「トミー」と呼んだのだった。
「最後は君の分だね。これは四百円、うん、こいつは三百円だな……」
 私は生徒たちから少し離れた位置に立ち、河原で拾ってきたという石に次々と値段がつけられていく様子を黙って眺めていた。私から見れば何の変哲もないただの石ころなのだが、男にとっては一個数百円前後の値打ちがあるらしい。その基準は何なのか? 大きさでもなければ形状や色も無関係に見える。しいて言うならパッと見て浮かんだ適当な金額を口にしている、という感じだ。そう、とにかく早い。いつか見た、熟練者の手によるヒヨコの雄雌選別作業のようだ。
 二十個ほどあった大小の石ころは、五分足らずのうちに全て買い取られ、男の持つ布製の大きな巾着袋に仕舞われた。
「またよろしく頼むよ。いつでも待ってるからね」
 三人の生徒はそれぞれ二千円前後の現金を手にして、少し気まり悪そうな顔をしている。おそらく私の存在を意識しているのだろう。私が軽くうなずいてみせると、三人同時にニヤリと笑い「サヨナラ」の言葉を残して走り去った。

「石、持ってきた?」
 振り返ると、男が小首をかしげ、生徒たち以上に子どもっぽい表情でじっとこちらを見ていた。
 自分の家だというのに、先日と同じようにスーツにネクタイという堅苦しい恰好をしている。そして今日もネクタイの山吹色が目を引いた。
「持ってきました。とっておきを」
「ホントに? 見たい見たい、中で見せて」
 生徒たちからの情報で、男はもう得体のしれない怪人ではなくなっていた。せいぜい石好きの変人というところだ。ならば私も同類である。
 しかし――
「中で、ですか」
「うん、ボクの石も見せなくちゃいけないしさ。石は全部この離れの中にあるの。さ、どうぞどうぞ。こちらからどうぞ」
 男は木製の引き戸をガタピシいわせて細い隙間を押し広げると、上半身をねじって振り返り、おいでおいでをした。
 石を見せ合うだけなのだ。まさかとって喰われることはないだろう。
 むやみに怖れる必要は――たぶん、ない。
 私は覚悟を決め、男に続いて離れに一歩を踏みいれた。

 なんだ、これは。
 目の前に広がる異様な光景に鳥肌が立った。
 屋内には間仕切りや柱がなく、一つの大きな空間になっていた。ざっとの目測で、学校の普通教室とほぼ同じくらいの容積がありそうだった。四方の壁は板張りで、天井近くに明かりとりの小さな横長の窓がある。それだけでは光量が足りないのか、三列四段の蛍光灯が天井に埋め込まれ、すべてに灯が入っていた。
 部屋のほぼ中央には、天板の大きさが畳一枚分ほどの、木製の作業台があった。作業台の上にはハンマーやタガネのようなものがいくつか置かれており、天板の縁には大型の万力が取り付けられていた。
 それだけなら何も驚くことはない。異様なのはその床だった。
 大小無数の石が一面に敷き詰められているのだ。
 一切の隙間なく、びっしりと、である。
 どこかの河原を長方形に切り出して屋内に運んできたかのような光景だった。
 男はその上を、部屋中央の作業台を目指し、おぼつかない足取りで歩いていく。一歩ごとにガラゴロと鈍い音が響き、とても歩きにくそうだ。
 やがて作業台にたどり着いた男は、生徒から買った石を詰め込んだ巾着袋を天板の上に放り投げ、再び私に向かって手招きをした。

「早く見せて」
 男は作業台の上に身を乗り出し、私が置いたショルダーバッグに視線を固定したまま鼻息荒く催促した。まるで飼い主の手にエサを見つけて我を失う馬鹿犬だ。
 ふふ。まあ、そう慌てずに。
 バッグの中に差し入れた両手の指先で、硬く滑らかな感触を上から下へゆっくりとなぞっていく。鋭いエッジを探り当てたところで力を込める。
「早く!」
 わざとじらしているつもりはない。なんといっても購入価格十八万円の貴重品である。扱いが慎重になるのは当然だ。
「水入り針水晶――ルチルクォーツの原石です」
 私が持参したとっておきは、重さが約七百グラムあるブラジル産の水晶の原石だった。
 もちろんただの水晶ではない。その名の通り水晶の内部に水が封じ込められており、傾けると気泡の動きで水の存在が確認できるという珍しい石である。中国産で石のサイズもペンダントトップ程度というものは一万円以下で多く出回っているが、これほどの大きさで、封じ込められた水と気泡の量も多く、しかも二酸化チタンの針状結晶(ルチル)まで入っているという品はめったにない。ベースの水晶としての透明度だって申し分ない。
 さあトミー。君ならこの石にいくらの値を付ける?
「なあんだ、つまんない石」
 は?
 私は文字通り、自分の耳を疑った。思わず男の顔をのぞき込んでしまった。
 その両目に宿っていた偏執的な光はすでになかった。やっかみや強がりから出た台詞ではなく、本当につまらないと思っているのだ。
「あの、この石がどういうものかご存じですか?」
「水晶だね」
 いや、だから、ただの水晶ではなくて――
 ああそうか、気泡の動きを見せてやればいいんだ。
「ほら、どうです? ただの水晶じゃなくて、中に水が入っているんですよ」
「そんなこと、見ればわかるよ。もしかして、これが先生のとっておきなの?」
「え? そうですが」
「がっかりだ。期待して損しちゃった」
 これにはさすがにカチンと来た。
「あの、本当にわかってます? 水入りメノウなら珍しくないですけど、これ水晶ですよ。気泡だってこんなに大きいし、こうやって回転させると、内部の空隙の形状がハッキリわかるんですよ。しかも、このルチルの入り具合というか、発色がいいと思いませんか? 完全に金色だし、変に束になっていないし」
「だからあ、そんなことは〈見ればわかる〉って」
 じゃあ、どうして――
「そんなものよりさ、先生、ボクのとっておきを見せてあげるよ。ちょっと待っててね」
 そんなものだと?
 いちいち言葉がひっかかる。
 ああしかし、男の、なんという笑顔であることか。
 そこには私の感情のうねりなどまるで届いていないのだ。
 男は背を向けると、床一面の石ころに足を取られながら、部屋の隅に向かって歩き出した。向かう先にある金属製大型ロッカーのようなものは、おそらく金庫だ。男が扉についた二つのダイヤルをチリチリと左右に回し、取っ手を九十度横にひねると、精密な金属機構が寸分の狂いなく噛み合うときの、複雑で、頼もしい音がした。
 情けないことに、その音を聞いたとたん、私は自身の怒りをすっかり忘れ去り、金庫から取り出されようとしている石に全ての関心が向いてしまった。

 男のとっておきは、まるで新生児のように白い木綿の布にくるまれ両腕に抱きかかえられて、そろそろと作業台に運ばれてきた。
 ゴトリ。
 かなりの重さがありそうだ。
 薄皮を剥ぐように白い布が前後に取り除かれる。
 それは、
 光沢のない青味のかかった灰色の石だった。
 大きさはまさしく手足を縮めた新生児ほどで、全体としてはアーモンドのような紡錘形をしている。
 チャートかな?
 色と質感から、私は石英を主成分とする堆積岩の一種ではないかと判断した。
「これが?」
「うん、魚石――かもしれない石」
「ギョセキ?」
「知らないの? 長崎の伝説とかで有名でしょ、魚石」
「はじめて聞きました」
 男は私の反応が物足りなかったのだろう、少し気分を損ねたような口調になり石の説明を始めた。
 魚石とは、内部に二匹の赤い魚が封じ込められている青い石で、その表面をどんどん磨いていくと、やがて中が透けて、二匹の赤い魚が泳ぐ様子が見えるようになるという。その様子を眺めていると心が落ち着き、長生きができるらしい。あるとき、磨く前の魚石を手に入れた人物が、珍しい石ということだけを聞き、内部はどうなっているのかと割ってみたところ、中から水と二匹の赤い魚が出てきて驚いたとか。

 なんだ、それは?
 確かにそんな石が存在するなら、それは珍しいなんてものじゃない。
 だけどどう考えても伝説の類だろう。
「これが、その魚石だというのですか?」
「だからあ、魚石かもしれない石、だってば」
「はあ」
 私はどうすればいいのだ。
「じゃあ割ってみるね」
「えっ、割るんですか?」
「もし魚石なら、中から赤い魚が出てくるはずでしょ。見てみたいと思わない?」
 そりゃあ見たいが、どう考えても本物の魚石のはずはないし、万が一、魚石だったら取り返しがつかないではないか。もしちゃんと確認したいなら、時間はかかるが磨けばいいのだ。ここでなぜ「割る」という選択肢が選ばれるのかがわからない。
「せっかくだから先生と二人で見ようと思ってさ、ぐっと我慢して割るのは今日にしたの」
 言いながら、男はすでにハンマーを振り上げている。
「割るよー。目、気をつけてね」
 腕を置いていた作業台から衝撃が来て、同時にぴんぴんと小さな破片が顔や首に当たった。とっさに閉じた右のまぶたにも一つ。危なかった。
 石は大きく三つに割れていた。
 もちろん、作業台の上で赤い魚が跳ねたりはしていない。こぼれた水もない。
「ふふっ、やっぱり偽物だったね。本物にしては中途半端な値段だと思ったんだ」
 やっぱりって――。そうか、完全にいっちゃってる、というわけではないんだ。
 私は少しだけ安心した。
「値段、いくらだったんですか?」
「七十万円。本物なら最低でもゼロがもうひとつ多いはずだから、あやしいとは思ってたんだけどね」
 言葉を失う私の目の前で、七十万円の残骸はガラガラと床に打ち捨てられた。
 私はようやく気がついた。床一面に敷き詰められた石はみな、どこかが欠けたり、割れた断面を見せているものばかりであるということに。
 全部割った石なのか。
 うなじの産毛が逆立つ。腕から肩へ震えが走る。
「せっかく先生に来てもらったのにねえ。あ、そうだ、もう一つ珍しいのを最近手に入れたんですよ。魚石よりはちょっと下品な石なんだけどね、こいつは間違いなく本物」
 これ以上、ここにいては駄目だ。
 私はできるだけさり気なく、出しっぱなしだった水入り針水晶の原石をショルダーバッグに戻した。
「今、その石を取ってくるからちょっと待ってて」
「あの、もうしわけないのですが、今から別な用事があるので、そろそろ失礼します」
 その瞬間、男の目に憎悪の光が――という状況を、半ば本気で覚悟したが、男の反応はあっさりしたものだった。
「あ、そうなの。土曜日なのに、先生って忙しいんですね。珍しい石がまだたくさんあるんだけどな。じゃあまた来週ね。では、さようなら」
 男は浮かしかけていた腰を戻すと、もう私には一切の興味を失ったようで、傍らに置いていた巾着袋に手を突っ込み、赤味のかかった丸い石を一つ取り出した。
 生徒たちから買った石だ。
 ハンマーが振り上げられ、振り下ろされる。
 数百円の残骸が生まれ、床に捨てられる。
 そしてまた、次の石が取り出される。
 私は逃げ出した。

 いつの間にかすっかり日は暮れ、広い敷地にはひやりと冷たい夕闇が立ち込めていた。見上げた空の半分は濁った朱色に染まっている。
 離れの中にいたのはせいぜい三十分ほどだと思っていたのだが、確認した腕時計の文字盤が示す時刻は午後六時過ぎ。だとすれば三時間近くを過ごしたことになる――。
 いや、それはない。
 大きな違和感を覚えたが、家に帰り着くまでは深く考えないことにした。
 急げ。
 私はやけに遠くに見える門を目指して足を速めた。
 背中の真ん中あたりがむずむずする。誰かに見られている感じだ。
 確かめない方がいい。そう思いながらも振り向かずにはいられなかった。
 男の姿を予想した離れの前には誰もいなかった。
 なんだ思いすごしか。
 強張っていた肩の力を抜いてなにげに母屋の方を見た。
 小柄な和服姿の老女がじっとこちらを睨むようにして立っていた。
 ひっ。
 思わず声が漏れる。
 誰だ?
 ああ、そうだ。たしか男は年老いた母親と二人暮らしをしているんだった。
 生徒たちから聞いた話を思い出し、一瞬で全身に張りつめた緊張を解いた。
 老女に向かって軽く頭を下げた。しかし老女は会釈すら返さず、こちらを睨み続けている。
 なんなんだ、この家のやつらは。
 私は無理やり腹を立てることで、身の内に生まれ広がろうとする気味悪さを抑え込んだ。
 門に向かって再び足を速める。
 地表近くに溜まった闇に呑み込まれ、膝から下が消失したかのようだ。門はまだ遠い。
 私は無性に泣きたくなった。


 〈 第二部につづきます 〉
 (第二部は2020年5月上旬公開予定)


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