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優しい、ってなんだろう

学生の頃、何度か痴漢にあったことがある。

フィクションの世界で記号化されている痴漢といえば、電車内で女性のお尻を触る行為だけれど、わたしは「お尻を触る」痴漢にあったことはなかった。スカートではなく、ゆるっとしたジーンズやカーゴパンツを履いていたからかもしれないし、もしかしたらお尻を触るオーソドックスな痴漢魔は少ないのかもしれない。

わたしが遭遇したのは肘で胸を触ってくる痴漢だ。こちらが避けても避けても執拗に当てにくる。一度、ガラガラの電車で4人席に座っていたら、隣りに座ってきてそれをやってきたおじさんもいた。本当に恐怖だった。

肘で胸を触って楽しいか?と思っていた時期もあったけれど、痴漢は性的欲求ではなく支配欲からくる行為らしい。そう考えると、肘だろうがなんだろうが相手を支配できていると感じられれば満足なのだろう。実際、その時のわたしは確実に支配されていたと思う。

悔しいけれど、あの頃の自分は声を上げる勇気はなかった。なんとか、痴漢から距離をとれるところまで逃げるだけで精一杯。
その上「痴漢にあうのは無防備な自分が悪い」「そもそもわたしなんかが痴漢されるわけがない」という謎の呪いがかかっていて(※)、誰かに言うこともできなかった。痴漢にあってしまったことを認めるのは、悲しさや悔しさや惨めさをより酷くさせるような気もした。

親にも姉妹にも言えなかった。
幻滅されるんじゃないか、怒られるんじゃないか。逆に、大したことじゃないでしょ、くだらない、なんて呆れられてしまうんじゃないか。ありとあらゆる不安。
それにわたしがそれを言うことは、「痴漢にあった子の親」とか「痴漢にあった子の姉」という立場に立たせるということでもある。
家族を傷つけることになるかもしれないなら、わたしが黙って我慢しているほうがいいと思った。

この「家族を傷つけてしまうかも」という気持ちは「優しさ」だったのだろうか。
だとしたら、傷つけることをわかった上で話すことは「優しくない」ことなのだろうか。

ーーということを、「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」を読んで改めて考えていた。

優しい、ってなんだろう。

「その人のためを思って行う行為」が優しさなら、虐待や体罰だって躾という優しさになってしまう。
少なくとも優しさは押し付けではないはずで、これは優しさだと謳う行為はただのエゴだ。
とは言え、「その行為が相手にとっていい方向に向かったら優しさ」とか「相手がどう捉えるか次第」という結果論なら、優しさとはタイミングと運次第ということになってしまう。

不確定な常識や主観の中、揺れ動いて定まらない「優しさ」は、テンプレート的に定義できることではないのかもしれない。
もしかしたら、それを追い求めて足掻くことが優しさなのかな、なんて思った。

***

あのとき「家族を傷つけてしまうかも」と黙って苦しんだ自分は、きっと家族に対しても自分に対しても「優しすぎ」だった。結果、こうやって傷が癒えるまでに随分長い時間がかかった。
がんばったなあ、と思う。
ひとりで抱え込むことが正しかったとは言わないけれど、あのときのわたしは精一杯問題に立ち向かった。痴漢を成敗することはできなかったけれど、心の中で戦った。十分やったよ、と。

だから、もうそのやり方はお休み。

もし、この先自分が傷つくことがあったら。たとえ旦那を傷つけることになったとしても、そしてそのことでさらに自分が傷つくことになったとしても、その痛みを分かち合おうと思っている。
それは、そうやることでしか「いつか旦那が傷ついたとき、わたしもその傷を受け入れるよ」ということを伝えられない、不器用なわたしの「優しさ」だ。

とりあえず、傷だらけになってもなんとかなるように、傷薬と絆創膏になる小さなしあわせを、たくさん積み上げていきたいなと思う。


世の中の痴漢が滅びますように。

※ 当時のわたしはジーンズにTシャツの地味な格好だったけど、例えミニスカートだろうがノースリーブだろうが、痴漢してもいい理由にはならない。

photo: https://www.pakutaso.com/20130149010post-2306.html

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