鳩に餌規制条例と、それでも餌をやる人と
今朝、大阪市が、鳩に餌をやることについて規制を行う方針を固めたというニュースを見た。
餌やりを規制とは、と驚いたが、映像を見るとわたしの考えている餌やりとは規模が違っていた。鳩の養殖かと思うくらい、鳩、鳩、鳩。ネットで囲まれているエリアに食パンをどんどんぶん投げ、あとのことはお構いなしといった様子。食べ残しのゴミや鳩のフンによる異臭、鳴き声の騒音、洗濯物が汚されるなど、周辺の住民はかなり迷惑しているということだった。
大阪市は住民の苦情に対し、餌やりした後の片付けを義務付ける条例を制定したものの、市職員がいないところでは片付けをしなかったり、そもそもの問題解決には至らず。とうとう、餌やり自体の規制に踏み切ったようだ。
こうして規制が増えていくことは仕方ないのかもしれないけれど、見たくない部分を黒く塗りつぶしているような、やるせない気持ちになった。
もちろん、これだけの鳩による被害、住民としてみればたまったもんではないし、規制することでその被害がなくなるのなら、やむを得ないところもあって。わたしだって、鳩のフンのせいで毎日家が汚され、朝から晩まで聞こえる鳴き声で寝不足になって、洗濯物に臭いがついてとれない……なんて状況、耐えられない。
けれど、「規制すれば解決する」という問題解決法が、腎臓の機能をアップするために血圧をあげよう(※)、というような他の新たな問題を引き起こす気がしてならないのだ。
「居るのはつらいよ」という本の中で、幾度も出てくる「ただ、いる、だけ」という言葉がある。
「なにもしないで、ただその場所にいる」ということの難しさ。誰しも経験があると思う。
自分の部屋ならまったく苦にならないのに、初めて行くカフェでお茶を飲むとき、あまり親しくない知り合いとたまたま帰り道が一緒になってしまったとき、「ただ、いる」ことが苦痛になる。そわそわとスマホをいじってみたり、したくもない天気の話を「する」。
「ただ、いる、だけ」ということが難しくなってしまったとき、人は何かを「する」。環境に身をあずけることができないときに、僕らは何かを「する」ことで、偽りの自己をつくり出し、なんとかそこに「いる」ことを可能にしようとする。生き延びようとする。
僕らは誰かにずっぽり頼っているとき、依存しているときには、「本当の自己」でいられて、それができなくなると「偽りの自己」をつくり出す。だから「いる」がつらくなると、「する」を始める。逆に言うならば、「いる」ためには、その場に慣れ、そこにいる人たちに安心して、身を委ねられないといけない。
「いる」は物理的な空間に限った話でない。地域や社会、世の中といった仕組み・関係性の中でも「いる」ことができるかどうかは重要だ。
鳩に餌をやっていた人たちは、「ただ、いる」ことができなくて、「いる」ために「する」を頑張っていたのかもしれない。
最初はちょっとした餌やりだったのが、注意をされ、反発してしまった。「いづらく」なって、余計に餌をやる。また注意される。反発する……。
それこそ腎臓と血圧の関係みたいに「いることがくるしい」から「する」、そしてますます「いることがくるしく」なっているのではないだろうか。
わたしが鳩に餌をやることを規制することが、別な問題を起こしてしまうのではと懸念しているのはそこで、今「いる」ことが難しい人が「いる」ためには、結局別な何かを「する」ことが必要だからだ。鳩に餌をやれなくなった人は、次になにを「する」だろう。そしてそれが迷惑な行為だったとき、またそれが禁止されてしまうことになるとしたら。「いる」ことができなくなってしまうくらい、「する」ことがなくなってしまう人も出てきてしまうのでは、と。
「する」ことのない不安や「いる」場所のない絶望。
このニュースは、電気が次々に消えていくような心ぼそさが滲んで、怒りより憤りより、ただ悲しい。
※ 「renal summer」という犬の腎臓になるゲームで腎臓と血圧の因果関係を知った。血圧をあげることでプレイしやすくなるけど……。わたしは絵面だけで泣きそうになるのでプレイできない。
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