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走れメロスをきっかけに

これは10年前、息子のハルが14歳だった時の投稿

「走れメロス」について

中二の息子の教科書に「走れメロス」が載っており、
「この小説で作者は何を伝えたかったのか」という、
お決まりの授業があったという。

僕は大学時代に太宰治の研究をしていたので、
そのことを知っている息子から、
意見を求められたのだが、
中学生にどこまで解説したものかと迷った。

太宰治の作品は活動時期によって、
大まかに前期・中期・後期に分けられる。
前期は昭和8年のデビューから昭和12年までで、
太宰の私生活においては、
薬物中毒による強制入院と度重なる自殺未遂があり、
作風としては、前衛的な様々な試みと、
自己否定的な私小説的内容が特徴である。

中期は昭和13年から昭和20年の終戦までで、
この時期に太宰は婚約・結婚しており、
作風としては、再生への希望を込めた、
明るく前向きなものが多いと言われており、
「走れメロス」はこの時期の作品である。

後期は終戦から昭和23年に太宰が亡くなるまでで、
この時期の作風は「滅亡への急降下」と言われており、
「斜陽」「トカトントン」「ヴィヨンの妻」などの、
暗く自虐的な作品を次々に発表した末に、
太宰は「人間失格」発表とほぼ同時に
玉川上水で遺体となって発見される。

中期は太宰の作品が明るく前向きなのとは対照的に、
日本国民は太平洋戦争参戦から敗戦へと、
最悪の暗い時代を過ごしていた。

その暗い時代に「滅亡の民」太宰は、
「今こそが自分の時代だ」と言わんばかりに
かえって水を得た魚のごとく、
未来への希望を謳歌するような小説を書いて、
人々になんとかして希望の光を与えようとしていた。

しかし、時代は小説や作家のような、
戦争に直接役に立たないようなものに対しては否定的で、
小説の愛好者や作家は非国民として迫害されるような存在で、
太宰もかなりのバッシングを受けたようだ。

小説の内容も厳しい検閲を受けていたようで、
検閲を逃れるために、
太宰は東西の古典や聖書などから題材を得て、
「走れメロス」「新ハムレット」「駆込み訴え」
「右大臣実朝」「新釈諸国噺」「お伽草紙」などの作品を書いた。

しかし「右大臣実朝」を無理矢理「ユダヤジン実朝」と読み、
「太宰は実朝のことをユダヤ人だと言っている」
という言いがかりをつけた人までいたらしい。

「走れメロス」は簡潔な文体で、
非常にスピーディーに物語が展開していく小説で、
小説というよりはイソップ物語のような、
寓話のような性質の強い物語である。

これは「人間失格」についてもよく言われることなのだが、
登場人物の描写が簡潔過ぎて、実体感のない、
スカスカの人物像だという印象がある。

メロスにしても、セリヌンティウスにしても、
暴君ディオニスにしても、
その人となりや、感情の動きよりも、
彼等が物語の中でどういう役割で、
その立場がどう変化して、
その結果どういう効果を与えるかという、
哲学的概念の伝達手段としてしか
扱われていないような印象がある。

つまりこの物語の主役はメロスでもセリヌンティウスでもなく、
二人の間に存在する「友情」と「信頼」であり、
それを「信じる心」、「裏切らない心」が、
主人公であり、テーマであるのであって、
その心に触れた暴君ディオニスが反省して改心することによって、
「正義万歳」「友情万歳」「信頼万歳」という結論に達し、
それをもって現在(当時)行われている
戦争に対する批判となっているのだが、
これは作品の書かれた時代背景や、
作者太宰治がどういう生涯を送ったか、などの、
予備知識がなければ出て来ない解釈である。

うちの息子は、極悪非道で毎日何人も殺してきた、
暴君ディオニスを民衆があっさり許して、
「王様万歳」などと歓声をあげるのが納得いかない、
と思ったようなのだが、そもそもこの小説は、
ディオニスが人間としてどうなのか、
などということを問題にするような小説ではないので、
これまでにディオニスがしてきたことを、
人間として許せるかどうかというような視点から見れば、
まったく違った解釈になってしまうのはしかたのないことである。

反省して改心すれば、
どんな罪でも許されるのかといえばそうではなく、
むしろ「ごめんで済むなら警察はいらないだろ」と、
僕は息子に教えてやりたいので、
この小説が教科書の教材として
ふさわしいものなのかどうかということで言えば、
あまり適切ではないのではないかと思うのだが、
「走れメロス」が日本を代表する、
明るく、前向きな、(旧)文部省推薦の、
子供たちにぜひ読ませたい小説のひとつとして、
様々な子供向けの文学全集や、
教科書に載っているということは、
否定しようのない事実なので、
それならばせめて誤解の無いように、
太宰が伝えたかったであろうことを、
なんとか息子に解説したいものだと思った。

それで、ここまで書いてきたようなことを話したのだが、
果たしてどの程度伝わったのか、疑問である。
ちなみに僕は卒論で、「人間失格」を、
概念を伝える啓蒙小説として、
ヴォルテールの「カンディード」や、
マルキ・ド・サドの「ジュスティーヌ」と、
比較して論じようとしていたのだが、
その導入部分だけで250枚になってしまい、
提出期限が来てしまったので、
未完のまま提出して卒業した。

太宰の中期の作品で、
僕が明るくて前向きだなと思うのは、
「満願」「黄金風景」「富嶽百景」「津軽」
「新樹の言葉」などである。

太宰の全作品の中で、僕が最も好きなのは、
「水仙」と「女神」という短編なのだが、
どちらもマイナーな作品で、
あまり共感を得たことはない。

このハルは、僕の影響なのか、
文学が好きな青年に育ち、来年の春に
コピーライター候補生として広告会社に就職する。


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