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ボランティアとは何か?

7年ほど前、福島の災害現場でボランティア活動をしているという、九州の大学生と話す機会があって、その時からボランティアという言葉について疑問を持っていたのでそのことについて投稿した。その後、熊本でまたボランティアという言葉がついてきて、更に疑問を持つようになった。そのあたりのいきさつ。まず7年前の投稿から。

最近、福島の被災地でボランティア活動をしている、
という青年と話す機会があって、
久し振りに「ボランティアとは何か?」ということについて
考えざるを得ない状況になってしまった。
そもそも、ボランティアって何なんだろうか?
僕は以前から疑問に思っていたのだが、
このことについて、
ボランティアを肯定して推進している人達と話をすると、
なんだかその人たちを批判しているような感じになって、
雰囲気が悪くなってしまうので、
あえて考えないようにしていたのだ。
ボランティアという言葉が日本語ではないので、
まず日本語に変換して考えようと思ったのだが、
ウィキペディアによると、
「volunteer の語の原義は志願兵であり(反語がdraft―徴集兵)、
歴史的には騎士団や十字軍などの
宗教的意味を持つ団体にまで遡ることができる。
語源はラテン語のVolo(ウォロ、英語のwillの語源)志願者である。」
ということであった。
これを元に
「僕はボランティア活動をしています」を日本語に直すと、
「僕は志願兵活動をしています」
ということになり、よくわからなくなるので、
やはり日本でも、
ボランティアはボランティアと呼ぶしかないのだろう。
そもそも日本語にはない概念なので、
日本人の僕には理解できないのだろうか?
ボランティアを「奉仕活動」と、
無理矢理訳すこともできるかもしれないが、
辞書で調べると「奉仕」は「service」であり、
「volunteer social service work」が「勤労奉仕」となるらしい。
どちらにせよ、今僕が話題としている「ボランティア」とは、
少し意味合いが違うように感じる。
日本語に訳すことが困難で、
根底に「宗教的奉仕精神」があると思われる「ボランティア」は、
日本人で、宗教というものに懐疑的な僕には、
理解しにくいものかもしれない。
ただ、「宗教的奉仕精神」ということでいえば、
日本に古くから根付いている仏教にも、
「陰徳を積む」というような考え方があり、
大分の「青の洞門」の逸話などは
ボランティア的視点から語ることもできるかもしれない。
ちなみにこんな話である。
「青の洞門」
諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚が、
断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を落とすのを見て、
ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと、
托鉢勧進によって掘削の資金を集め、
石工たちを雇ってノミと槌だけで30年かけて掘り抜いたといわれる。
しかしこれはお坊さんとしての「仕事」であるともとれるし、
そもそも「陰徳を積む」というのは、
「人知れずこっそりやる」というような意味合いがあり、
「私はボランティアをしてますよ、みなさんも一緒にやりませんか」
と公言するのとは違う行為だと思う。
先程のウィキペディアには
ボランティアの定義についても書かれている。
「ボランティア活動の原則として挙げられる要素は
一般に自発性、無償性、利他性、先駆性の4つである。
1980年代以降、無償性の原則に関して
「無償」の範囲をより柔軟に考えることによって
実費の弁済や一定の謝礼を受ける「有償」ボランティアが出現し、
受け入れられてきているのが現状である。
先駆性や補完性といった概念は、
ボランティア活動が既存の社会システム、
行政システムに存在しない機能を
創造的な自由な発想で補完するという役割を
担うことから発生したものである。
一方、ボランティア活動が
それに参加する個人の自己実現の場として
機能する自己実現性を持つことも知られている。」
僕の知人で福島で除染の仕事をしている人がいる。
元々トラックの運転手などをしていたのだが、
しばらくの間無職で、生活保護などを受給しており、
ハローワークでやっと見つけた仕事が除染の仕事だった。
しかしこの仕事、日当が1万6千円で、彼の生活は一変。
生活保護受給者から、月収30万円以上の高給取りになったのである。
こういう話なら明解で評価しやすい。
しかしボランティアの彼の話は、
「親から仕送りを受けて一人暮らしして大学に通い、
アルバイトして貯めたお金で何ヶ月かに一度福島に行って、
ボランティア活動をしています。
現地では雇用促進のために、
簡単な仕事をして時給千円くらい貰っている人もいて、
僕たちが無償でその仕事をすると、
その人たちの仕事を奪うことになるので、
それ以外の人手がいる仕事を探してやっています。
もうすぐ就職のシーズンなので、
いつまでもボランティアは続けられないけど、
新しく参加してくれる後輩たちもいるし、
社会人になってからも時々福島に行きたいと思っています。」
というような内容の話なのだが、
僕から見ればつっこみどころが満載なのだ。
自分でアルバイトして貯めたお金で、
交通費や宿泊費や食費を負担して、
被災地に無償の労働を提供しに行く。
現地では同じような作業をして時給千円貰っている人もいる。
それならば君も同じように時給千円貰って、
お金がいらないなら、帰りに全額寄付してきたらどうだい、
と言いたかった。
自分でアルバイトしたお金から、
交通費と宿泊費と食費を出して、
更に労働力まで無償で提供する、
被災地の人はそれを望んでいるのだろうか?
遠い九州に住む若者が、
自分たちのためにお金や時間や労働力を投げうつことに
本当に感謝しているのだろうか?
もしも僕なら、申し訳なくて、
いたたまれない気持ちになると思う。
彼らが主催しているボランティアツアーでは、
参加者と寄附してくれる人を募っており、
参加者は参加金を支払って、
無償の労働を提供しに福島まで行っている。
片や仕事として福島に派遣され、
1万6千円の日当を貰っている人もいる。
しかもその日当は元請け、下請け、孫請けと、
二重三重にピンはねされた末の1万6千円だ。
しかも彼は自分の行動を「学生の道楽」のようなものと認識していて、
就活シーズンが始まれば「引退」しなければならないものと認識している。
「君達の労働に対してギャラがもらえるような手続きをしたらどう?」
と聞いてみたら、そういう手続きは面倒だし、
そもそも見返りを要求することがボランティア精神に反するのだと言う。
なんか釈然としない、モヤモヤしたものが残るのだが、
キラキラと目を輝かせて、
ボランティア活動について語る彼の言葉を
さえぎりたいとは思わなかった。
なんでだろう、でも納得いかないよ。
こんな時、僕はいつも思い出す言葉がある。
それは「慈雨ちゃん」という言葉だ。
「じうちゃん」と読む。
いつ読んだのか、どこで読んだのか覚えていないのだが、
「慈雨ちゃん」という女の子が出てくる物語があったのだ。
クリスチャンの母親に連れられて行った、
教会の本棚にあった本に載っていたように記憶しているのだが、
誰の作品であったかは覚えていない。
あらすじは「慈雨ちゃん」という女の子が、
ぎゅうぎゅう詰めの汽車の中で
人に押し潰されて死んでしまうという話で、
その本ではその「慈雨ちゃん」の行為が、
賛美されていたように記憶していた。
しかし僕はその話に同意できなかったのだ。
今回思い切ってグーグルに
「慈雨ちゃん」と打ち込んで検索してみた。
するとヒットしたのである。
「慈雨ちゃん」というのは壷井栄の、
「あたたかい右の手」という童話の主人公だった。
現在は絶版で手に入らないらしいのだが、
新潮文庫の「壷井栄童話集」に収載されているとのこと、
そして、奇跡のような話なのだが、
僕はその「壷井栄童話集」を持っていたのである。
大学時代、僕は児童文学と古本屋巡りが好きで、
古本屋で児童文学の文庫本を見つけたら、
読む予定のない本でも、
「いつか読むかもしれないから」という理由で、
買っていたのである。
「壷井栄童話集」はそんな本の一冊であった。
というわけで20何年振りに、というか、初めて、
「あたたかい右の手」を読んだのだが、
それは強烈なキリスト教批判の物語であった。
詳しくは現物を読んでいただくしかないのだが、
青空文庫にはないようである。
なぜこんなキリスト教批判の物語を、
キリスト教賛美の物語と読み違えていたのだろうか、
いくら子供でもそんな正反対の取り違えをするはずはなく、
おそらく僕はその話を教会で読んでいるので、
僕が読んだのは原作の「あたたかい右の手」ではなく、
その話の「慈雨ちゃん」が死んだ場面だけを取り上げて、
それを日曜学校の教材として、
「献身的」な「犠牲」の物語として、
賛美していたものなのではないかと思う。
約40年くらいの時を経て、
「慈雨ちゃん」の物語に対する僕の誤解が解けたのは良かったが、
40年あまりの長きに渡って、
僕の頭の中に疑問や否定の気持ちを存在させ続けた、
「慈雨ちゃん」の物語を違う解釈で書き変えた人、
その違う解釈が生まれる原因と、
僕がボランティアという概念に違和感を覚えることは、
同じ根っこを持っているような気がするのである。
しかし今は「それが何か」という問題よりも、
約40年前に僕が「慈雨ちゃん」の物語に疑問を持ち、
約25年前に買った文庫本にその「慈雨ちゃん」の物語が収載されており、
それを今日読んで真相を知ることになるという、
不思議な巡り合わせというか、
運命の織り成す糸というか、
そういう神秘の方に心動かされ、
「ボランティアとは何か?」ということについては、
「また今度でいいや」という気持ちになってしまった。
こうして、僕と歴史の悪意との戦いは続くのである。

そしてこれは2年前の投稿

これは5年前の投稿で、
その頃はクママンなんて、
まだ全く知らなかった頃だ。
投稿の中では
福島の被災地で
ボランティア活動をしているという
若者に遭ったことがきっかけで、
ボランティアとは何か?
ということについて考えている。
まず、ボランティアという言葉が、
日本語ではないので、
日本語に変換して考てみようとして、
ウィキペディアで調べ、
「volunteer の語の原義は志願兵であり、
歴史的には騎士団や十字軍などの
宗教的意味を持つ団体にまで遡ることができる。
語源はラテン語のVolo(ウォロ)で、
志願者という意味である。」
と書いている。
ボランティアを「奉仕活動」と、
無理矢理訳すこともできるかもしれないが、
辞書で調べると「奉仕」は「service」であり、
「volunteer social service work」が
「勤労奉仕」となるらしい。
どうも西洋風の考えのようだ。
ウィキペディアには
ボランティアの定義についても書かれている。
「ボランティア活動の原則として挙げられる要素は
一般に自発性、無償性、利他性、先駆性の4つである。
1980年代以降、無償性の原則に関して
「無償」の範囲をより柔軟に考えることによって
実費の弁済や一定の謝礼を受ける
「有償」ボランティアが出現し、
受け入れられてきているのが現状である。
先駆性や補完性といった概念は、
ボランティア活動が既存の社会システム、
行政システムに存在しない機能を
創造的な自由な発想で補完するという役割を
担うことから発生したものである。
一方、ボランティア活動が
それに参加する個人の自己実現の場として
機能する自己実現性を持つことも知られている。」
僕の知人で福島で除染の仕事をしていた人がいる。
元々トラックの運転手などをしていたのだが、
しばらくの間無職で、生活保護などを受給しており、
ハローワークでやっと見つけた仕事が除染の仕事だった。
しかしこの仕事、日当が1万6千円で、
彼の生活は一変、
生活保護受給者から、
月収30万円以上の高給取りになったのである。
こういう話なら明解で評価しやすい。
しかしボランティアをしているという若者の話は、
「親から仕送りを受けて一人暮らしして大学に通い、
アルバイトして貯めたお金で何ヶ月かに一度福島に行って、
ボランティア活動をしています。
現地では雇用促進のために、
簡単な仕事をして時給千円くらい貰っている人もいて、
僕たちが無償でその仕事をすると、
その人たちの仕事を奪うことになるので、
それ以外の人手がいる仕事を探してやっています。
もうすぐ就職のシーズンなので、
いつまでもボランティアは続けられないけど、
新しく参加してくれる後輩たちもいるし、
社会人になってからも時々福島に行きたいと思っています。」
というような内容の話なのだが、
僕から見ればつっこみどころが満載だったのだ。
自分でアルバイトして貯めたお金で、
交通費や宿泊費や食費を負担して、
被災地に無償の労働を提供しに行く。
現地では同じような作業をして
時給数千円貰っている人もいる。
それならば君も同じように時給数千円貰って、
お金がいらないなら、
帰りに全額寄付してきたらどうだい、
と言いたかった。
自分でアルバイトしたお金から、
交通費と宿泊費と食費を出して、
更に労働力まで無償で提供する、
被災地の人はそれを望んでいるのだろうか?
遠い九州に住む若者が、
自分たちのためにお金や時間や労働力を投げうつことに
本当に感謝しているのだろうか?
もしも僕なら、申し訳なくて、
いたたまれない気持ちになると思う。
彼らが主催しているボランティアツアーでは、
参加者と寄附してくれる人を募っており、
参加者は参加金を支払って、
無償の労働を提供しに福島まで行っている。
片や仕事として福島に派遣され、
1万6千円の日当を貰っている人もいる。
しかもその日当は元請け、下請け、孫請けと、
二重三重にピンはねされた末の1万6千円だ。
しかも彼は自分の行動を
「学生の道楽」のようなものと認識していて、
就活シーズンが始まれば
「引退」しなければならないものと認識している。
「君達の労働に対して
ギャラがもらえるような手続きをしたらどう?」
と聞いてみたら、そういう手続きは面倒だし、
そもそも見返りを要求することが
ボランティア精神に反するのだと言う。
なんか釈然としない、
モヤモヤしたものが残るのだが、
キラキラと目を輝かせて、
ボランティア活動について語る彼の言葉を
さえぎりたいとは思わなかった。
昨日クママンの代表と話していて
同じような気持ちになった。
「今度〇〇という団体に
マンガを3千冊、
無償で提供するのだが、
この仕事がビジネスとして軌道に乗ったら・・・」
という話だったので、
「ビジネスとして軌道に乗せるなら、
まず最初に契約金として
一冊あたり200円、
3000冊ならば60万円くらいいただき、
そのお金でブックオフなどで、
一冊100円程度でマンガを調達し、
残りのお金は
ブックオフを回って
本を調達する人の人件費に充てる。
その後月々いくらという
レンタル費を徴収すれば、
それがやっとクママンの取り分になる。」
という僕なりのビジネスプランを話したら、
「高いですね。レンタルではなく、
本を買ってもらうとしたら?」
と言うので、一冊200円くらいで
買ってもらっても、
ほとんどビジネスにはなりません。
と答えた。
この意見に対するクママンの返事待ちだが、
返答の内容次第では
クママンと決別することになるかもしれない。
つまり遠回しにではあるが、
クママンも何かの宗教とかの
ボランティア精神に汚染され、
その災厄が僕にも波及しているのかもしれない。

結局バカバカしくなって、最近はクママンとは関ってない。ちなみにクママンとは「熊本マンガミュージアムプロジェクト」の略称である。

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