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辰野町らっぷすたぁ誕生伝説 11
タケナカは路地を駆けた。濁流のなかをあえぐように駆けた。むねいっぱいの空気を求めてもがいた。もがけばもがくほど、泥の流れに深く沈んでいくようだった。
どの道を通ったかわからない。
とにかく必死の思いで見慣れた組事務所に辿り着いたとき、タケナカの予想に反して、周囲の景色がますます暗く沈んでいくのを感じた。胸元のネックレスを、それが蜘蛛の糸であるかのように強く握りしめた。
ネックレスはいつものようにタケナカに闇のなかを歩み出す勇気をくれた。タケナカは事務所のドアを開けた。
「何か、おまえは山本組に指叉組とかまえろというのか?」
でむかえたときの、いつもの笑顔はすぐに消えた。
山本組の若い組長はタケナカをものすごい目つきでにらみつけていた。
「え? いや、違います、違います! 指叉組さんと何か行き違いがあるみたいなんで、その仲介をしていただければ、と」
「行き違い?」
「ええ、何か誤解があったみたいで」
「誤解? ははあ」
「そうなんですよ。それで……」
「兄弟にまともな理解力がなくて、それで誤解したと」
「いえ! そういう意味じゃなくて、オレの方で誤解を与えるようなことがあったんだと思うんです」
「それやったらタケナカさんが悪い、ということになりますわな? それならタケナカさんがちゃあんと指叉組に出向いて頭下げるのがスジと違いますかな?」
「そんな……ちゃんとお礼はいたしますから」
懇願するタケナカを無視して、若い組長はたばこを一服していった。
「お礼もなにも、タケナカさんもう金なんてないでしょう?」
「は?」
「なにをしらばっくれて。事務所の方がごっそりもって飛んだらしいですな」
「え?」
後輩のことを思い出した。
逃げろというのはそういう意味だったのだ。とにかく街から出て行け、と。すこし考えればわかることだ。ヤクザに狙われて、事務所に金を置いたまま逃げるやつがどこにいる?
しかし、そのときのタケナカの頭には、ふしぎなことにこの街から逃げるという選択肢は全く浮かばなかった。
「お礼? どうするんですか? こうして相談をお受けしている時間もべつにサービスじゃないんですよ」
組長はタケナカの胸元のネックレスをゆびさした。
「それは金になりそうですね?」
「あ、これ、これがあります! これ自体はたいしたものじゃないですけど、音楽業界で、オレの持ち物だったといえば高値がつきます」
若い組長はそれを指先でつまみとってすこし眺めてから背後の若い衆に受け取らせた。
「ふうん。まあ、手付けとして受け取っておきましょう。足りない分はつぎからだすCDの売上でいいですよ」
それだけあっさりいって若い衆に「請求書お送りしとけ」と告げ、たちあがって奥の部屋にひっこんだ。
事務所を出た瞬間、タケナカはその場にへたりこんだ。
とにかく命はつないだ。あとは金さえ用意できればいい。事務所の金を持ち逃げされたのは悔しいが、どうせ金はオレがいれば稼げるんだ。体ひとつで稼げるのがラップだ。
タケナカはふらふらと歩き、知り合いのバーにもぐりこんだ。
その夜のことである。
タケナカは自分がもう一行も書けなくなっていることに気づいた。