ゆりかごと墓場 橘美也の結婚

※アマガミの二次創作です。

1.

 春の空の青は、透き通るような冬の青空や、鮮やかな夏の青空とも違って、非科学的な話かもしれないんですけど、なんだか色が柔らかく、優しいように感じました。
 昨日までドキドキして、明日は大事な日だから早く寝ようと思うのに、意識してしまうと却って目が冴えてしまって、招待状を何度も読み返したり、高校のアルバムを引っ張り出してしまって、あまり眠れなかったのが嘘みたいに、私はすっきりとした気持ちで、見慣れた道を歩き進めてゆきました。
 いつもは曲がらない道を曲がって、見慣れた道が、知らない道になって、新鮮な気持ちで、キョロキョロとあたりを見回しながら歩いていると、空に突き出た教会の尖塔が見えました。
 近くまで行くと、とても綺麗で、素敵なチャペルだと分かって、ここで私の大切な友達が結婚式を挙げるんだと思うと夢のようで、昨日のドキドキが蘇って、心臓がうるさく鳴りはじめました。
 美也ちゃん、おめでとう。
 一足先に心の中でその言葉を呟いて、私はチャペルの中へと入ってゆきました。


2.

 受付をすませて、式場へ足を踏み入れると、一面が純白の美しい部屋でした。その奥に、多分マリア様だと思うんですが、白い像が優しい笑みを浮かべて佇んでいました。
 中には既にたくさんの人がいて、人混みの苦手な私は、人が多いというだけでも、きゅっと心臓が縮むような思いをするんですが、その中に見知った顔を目にすると更に緊張して、さっきまでの高揚感とは違った意味で心臓が騒ぎはじめました。その人たちは高校の時の同級生で、きっとクラスも一緒だったんですけど、人見知りの私は打ち解けることができず、そのまま卒業してしまったような、近い距離にいたのに心は遠い、そんな人たちばかりでした。思えば高校生活を通して、私の友達は美也ちゃんと、美也ちゃんを通して知り合ったもう一人の友人くらいだったなあと、心の中で苦笑いをしながら、どこに身を置けばいいのか、所在なく辺りを見渡していると、懐かしい後ろ姿が目に入りました。
 凛とした雰囲気はあの頃のままで、でも話をするのは本当に久しぶりで、私は彼女が一人で座っていることに若干後ろめたい感謝をしながら、勇気を振りしぼって声をかけました。
「ひ、久しぶり......逢ちゃん」
「ん? ああ、中多さん、久しぶり」
 振り向いた、その顔は、高校を卒業して数年が経つのにあの頃のままで、私が憧れた、かっこいい逢ちゃんがそこにいました。
「ここ、座ってもいいかな?」
「うん、いいよ、多分」
 逢ちゃんの隣に座って、初めて私は彼女の手の中に握られていた物に気がつきました。
「あ......それ、携帯電話? 逢ちゃんの?」
「うん、就職祝いに買ってもらったんだ。仕事にも便利だろうって」
 逢ちゃんが就職したことも初めて知ったのですが、私は、それよりも、ついつい逢ちゃんの手中に収められた携帯電話を物珍しそうに眺めてしまいました。それは私が一度見かけたことのある機種よりもずいぶんと小さい、可愛い水色の携帯電話でした。
 その視線に気がついたのか、逢ちゃんが
「中多さんはケータイ持ってないの?」
「うん、私は機械音痴だから......」
 実をいうと、逢ちゃんも同じだと思っていたのですが、これは内緒です。
「今のケータイって写真も撮れて、結構便利だよ」
 逢ちゃんはそう言って自分が撮った写真を見せてくれました。写真は主に風景や道端で見かけたという猫が被写体だったのですが、その中に一枚だけ、逢ちゃんの写真が混ざっていました。
「あれ? これ逢ちゃん?」
「あ、うん、弟がふざけて撮ったんだ」
 はにかんだように逢ちゃんは笑いました。
 美也ちゃんの結婚式なのに、私たちは携帯電話のことだったり、お互いの近況のことだったり、関係のない話題に花を咲かせてしまいました。実は、逢ちゃんと話をするときはいつも間に美也ちゃんがいてくれたから、二人で話をすることはあまりなかったんですが、そんなことを忘れるくらい、話したいことがたくさんあって、つい自分がどこにいるのかを忘れてしまうくらいでした。しばらくすると、式場のスタッフの方でしょうか、間もなく新郎新婦が入場することを告げにやってきました。逢ちゃんも「そういえば美也ちゃんの結婚式だったね」という風に苦笑いをして前を向いたので、私も同じようにして美也ちゃんを待ちました。
 すぐに「新郎の入場です」という声がスピーカーから響き、厳かな音楽が流れ始めました。会場の後ろの扉が開く音がすると、さっと逢ちゃんが後方へ首を回したので、てっきり前をずっと見ないといけないのかなと思ってた私も好奇心に負けて、開いた扉の方へと目を向けてしまいました。
 そこにいた新郎の方は、たぶん美也ちゃんと同い年、もしくは年上の方でしょうか。スポーツの経験があるのか、引き締まった体つきで、オールバックにまとめた髪にも白のタキシードにも一つの乱れもなく、整った顔立ちには余裕のある笑みが浮かんでいました。招待状の写真の中でしか見たことのなかったその人を、実際に目の当たりにしても、やっぱり私は美也ちゃんがこの人の妻として隣に並び、生活を共にするという現実を上手く受け止めることができませんでした。私の中ではやっぱり美也ちゃんは、あの高校生の頃の美也ちゃんのままで、当時の美也ちゃんがこういう雑誌に出てくるモデルさんのような、隙のない男性と親しく話をしているところも、噂をしているところも、見たことがなかったんです。私はてっきり、美也ちゃんが選ぶのだとしたら、もっと優しそうな......。
 私があれこれと雑念を巡らせていると、「新婦の入場です」という一声が響き、一転して私は集中して、扉の奥をみつました。そして現れた、純白のドレスに身を包んだ美也ちゃんを見ると、さっきまでのどこか釈然としないような気持ちも一瞬で忘れて、この巡り合わせに感謝しました。それくらい、ウェディングドレス姿の美也ちゃんは素敵でした。美也ちゃんは、きっとお父様でしょう、年上の男性の方に手を引かれながら、バージンロードを歩いていました。表情はあのいつも賑やかな笑顔を浮かべていた美也ちゃんとは思えないほど静かでした。視線は自分の足下に落ちていて、結婚までの自分の道のりを一つ一つ噛み締めているようでした。新郎の方の堂々とした振る舞いとは打って変わり、美也ちゃんの緊張が伝わるようです。
 やがて新郎の下へ辿り着くと、そっとお父様は美也ちゃんの背中を押して、離れ、新郎の人と美也ちゃんと、そして、いつの間に現れたんでしょう? 多分、舞台の袖から出てきたのだと思うんですが、二人の前には司祭さまがいて、三人で小さな祭壇を囲んでいました。司祭さまは口を開き、夫婦の誓いの言葉を口にしました。「健やかなる時も、病める時も——」結婚式に出席するのは、これが初めてなのに、なぜかその文言を自然と口ずめるくらいに記憶しているのがおかしかったです。そうして二人は儀式に則り、神様の前で永遠の愛を誓って、結婚指輪を捧げ合い、新郎の方が美也ちゃんのヴェールをたくしあげると、口づけを交わしました。


3.

「美也ちゃん、綺麗だね......」
 未だに夢から覚めないような心地で私は呟きました。視線の先の美也ちゃんは、新郎の方の友人に頼まれて、夫婦そろって記念写真を撮っていました。
「本当にね」
 私の隣に座っている逢ちゃんが頬をうっすらと赤く染めて返します。......赤ワインを片手に。
 私たちは披露宴の会場に移動して、目の前のテーブルにはお料理とお酒が並んでいました。祝辞が終わり、乾杯の合図があって、食事と歓談の時間がはじまっていました。披露宴の会場で、改めて周りを見渡して分かったのは、とても新郎の方の友人が多いことです。ほとんどが男性で、親しげに新郎の方に声をかけていました。私や逢ちゃんは会場の端っこで、他のクラスメイトや美也ちゃんの大学の友人だと思うのですが、顔も名前も知らない方とテーブルを囲んで座っていました。美也ちゃんと距離が離れてしまったのが寂しく、また新郎の方の友人が美也ちゃんたちと記念写真を撮影しているのを見ると、なぜか自分がソワソワして、美也ちゃんの友達として一緒に写真を撮ってもらうべきじゃないのかと思うんですが、一人では気恥ずかしく、かといって逢ちゃんはフランス料理と赤ワインに夢中になっていて声をかけられず、私の気持ちは萎みかけていました。
 そういうわけで、私は目の前の料理よりも、どうしても意識が会場の正反対にいる美也ちゃんと、そして、別の席に座っている、ある男性に向かってしまうのでした。
 先輩、と、もう同じ学校でもないのに、つい(心の中で)呼び慣れた言葉が頭に浮かんできす。それは、美也ちゃんのお兄さんであり、私の高校時代の先輩の、橘純一さんでした。先輩はご家族と、たしか幼馴染だったと思うのですが、梅原先輩や桜井先輩と一緒のテーブルで、落ち着いた様子で食事をされていました。
 橘先輩とは、そこまで親しい間柄ではありませんでしたが、美也ちゃんを通じて何回かお話しをしたり、また、転校したばかりで緊張と不安と孤独でいっぱいだった私に優しく声をかけていただいたこともあり、お世話になった思い出があります。実は美也ちゃんにも言っていなかったのですが、当時ひそかに憧れも抱いていました。人見知りの私としては珍しく、先輩に一言ご挨拶できればという気持ちが生まれていました。あの頃の、先輩の雰囲気がそのまま残っていることが嬉しかったのかもしれません。それに、あの頃は伝えられなかった感謝の気持ちを改めて言葉にできればという思いもありました。
 梅原先輩が赤い顔で、陽気に橘先輩の肩を組み、たぶん祝福の言葉を投げかけているのでしょう、橘先輩が困ったような笑顔で何かを返して、桜井先輩がそんな二人を優しく見つめている姿は、高校の時に、私が遠くから見かけた光景そのままでした。
 そうやって、美也ちゃんの方や先輩の方を気にしつつも、逢ちゃんが最近仕事終わりによく行くという屋台のおでん屋の話に相槌を打つなど、一人で勝手に慌ただしい時間を過ごしていると、急に照明が暗くなりました。ざわめきの中、何が起きたのかと怯えていると、突然スポットライトがある一点を照らしました。そこで光を浴びていたのは、また予想もしなかった、懐かしい人物で私は呆然と声を漏らしました。
「も……森島先輩……」
 そして森島先輩は、あのとてもよく通る澄んだ声で、驚かせてしまったことを詫び、美也ちゃんたちに祝福の言葉をかけると、軽快な音楽が流れ始めて、森島先輩は歌いはじめました。そこでようやく、何が起こっているのか把握できなかった私も、これは結婚式の余興の一つなのだとのみ込むことができました。歌詞の内容は「わんわんディスコ」とか「チキチキチキ」など、とても独特で、正直に言ってしまうと、私にはよく分かりませんでしたが、歌と踊りは本当に上手で私は改めて森島先輩の凄さを肌で実感していました。しかし、まさか森島先輩が美也ちゃんの結婚式に出席させていたとは思いもよりませんでした。確かに森島先輩は美也ちゃんのことを「猫ちゃんみたい」と非常に気に入っていて、美也ちゃんの困惑を露わにしたり、時には冷たくあしらっても、まるで気にした様子もなく、明るく積極的に話しかけていたのをよく覚えています。私は美也ちゃんとよく一緒にいたので、美也ちゃんのついででお話しする機会もあったのですが、恐らくは覚えていないでしょう。
「さすがは輝日東高校のミス・サンタだね」
 ワイングラスを片手に森島先輩のパフォーマンスを楽しむ逢ちゃんは結婚式というよりも、さながらアイドルのディナーパーティーに出席したセレブのようでした。
「美也ちゃん、森島先輩を呼んだんだね」
 と私が言うと、逢ちゃんは
「うん、あの人を美也ちゃんに紹介したのは、森島先輩らしいからね」
 と何気なく言うので、私はさらに驚いてしまいました。「あの人」というのは当然、美也ちゃんの夫になる人のことです。
「えっ? そうなの?」
「うん、塚原先輩から聞いた話だけどね」
 塚原先輩、その名前を頭に咀嚼していると、はっと目つきの鋭い、剣豪のような風格をした女性の先輩を思い出しました。塚原先輩はたしか、逢ちゃんの部活の部長さんで、森島先輩とも、よく二人でいるところを見かけた記憶があります。
「森島先輩の知り合いだから、きっとすごくお金持ちなんだろうね」
 と華やかな森島先輩を見つめたまま、逢ちゃんは何気なく言って、で言って、私はそれに何を返せばいいのか分かりませんでした。でも、そう言われると、隙のない外見にも、交友関係の広さに、この豪奢な式場にも納得ができます。
 ふと美也ちゃんの方を見ると、森島先輩の歌に合わせて手拍子を叩きながら、ちょっと苦笑い気味に、でも幸せそうに微笑んでいました。
「そういえばね」
 逢ちゃんの声がとても近くから聞こえてきて、私は驚きました。いつの間にか、彼女は私の耳元まで口を寄せていたのです。
「美也ちゃん、妊娠してるらしいよ」
「えっ!?」
 驚きで私は声を抑えることもできませんでした。しかし、森島先輩の歌に助けられ、特に周りからの注目を浴びることはありませんでした。
 それも、塚原先輩から聞いたの?
 私が口を開こうとすると、会場から大きな歓声が上がりました。
 森島先輩の方を見ると、美也ちゃんが隣にいて、どうやら森島先輩に手を引かれたようでした。そのまま二人は声を合わせて、このポップで奇妙な音楽を歌いはじめました。
 私は複雑な気持ちで、美也ちゃんを見つめていました。
 その体は高校の時と変わらず、小さく、痩せていました。


4.

「おおっ、紗江ちゃん! ひさしぶり〜。わわっ、その服、すっごい可愛いね〜」
 結局、あの後、逢ちゃんに質問をしてみて、はぐらかされてしまい、考えこんでしまった私は、美也ちゃんにも、先輩にも挨拶ができないまま、いつの間にか披露宴が終わってしまっていました。
 そして、トボトボと案内されるがまま、披露宴の会場を出た私を待っていたのは、嬉しいサプライズでした。会場の外で美也ちゃんが新郎の人と待ってくれていたのです。
「今日は来てくれて本当にありがとね! あれ? 逢ちゃんは一緒じゃないんだね?」
 美也ちゃんは私に透明なプラスチックのケースを手渡しました。中にはアロマキャンドルが入っていて、感謝の気持ちが記された小さなメッセージカードが添えてありました。
きっと今日の来場者みんなに配っているのでしょう。
「あ、あれ? そういえば逢ちゃんがいない……」
「忘れちゃってたの? ヤレヤレだよねー。 紗江ちゃん、もしかしてワインのみ過ぎちゃったんじゃない?」
「ち、ちょっとしかのんでないよ……」
「ほんとかな〜? あ、紹介するね、この人が……」
 そうして私は新郎の方とぎこちない挨拶を交わしました。その後、美也ちゃんは自分の話はせず、しきりに私が今日着てきた洋服を可愛い可愛いと褒めてくれて、顔が熱くなるのがわかりました。
 いつの間にか私の後ろには列ができていて、新郎の方がそろそろ……と促すと美也ちゃんは、またねと、私の手を握ってくれました。
 二人の前から離れ、出口へと進みながら、私は両手に収まった美也ちゃんからのプレゼントを見つめて、自分の心がゆるやかに晴れていくのを感じました。
 逢ちゃんが言っていたことは本当なのでしょう。私の中の逢ちゃんは根拠のない嘘を軽率につくような人ではありません。
 しかし、それが例え真実だとしても、新しい命を授かることは素晴らしいことで、いつか美也ちゃんが話をしてくれた時のために、彼女の勇気になるような言葉を用意しようと私は決めていたのです。私の心を覆っていたモヤモヤは、美也ちゃんのことをかけがえのない友達だと思っていたのに、夫になる人のこととか、子供のこととか、大事なことを自分が何も知らなかったという幼稚な嫉妬だったんだと私は結論を出して、清々しい気持ちになっていました。
(それに......)
 私は手のひらの上にある紙の切れ端を見つめました。そこには一つの電話番号が記されていて、可愛らしい、丸い字で「ケータイ」と書いてありました。さっき美也ちゃんと話をしたときにさりげなく手渡してくれたもので、書かれている番号が美也ちゃんのものであることは疑いようがありませんでした。これでいつでも美也ちゃんとお話しができる。帰ったら、さっそくパパにお願いをして携帯電話を買ってもらって、美也ちゃんと逢ちゃんの電話番号を登録しないと。そこまで考えたところで、私は肝心の逢ちゃんとはぐれたままなことを思い出しました。結構赤ワインをたくさんのんでいたし、酔っ払って会場で眠ってしまっているのかもしれない。そう思ってひき返すと、美也ちゃんの前に先輩——美也ちゃんのお兄さん——がいました。先輩は穏やかな表情で、どうやら美也ちゃんに祝福の言葉を言葉をかけているようでした。美也ちゃんは先輩の言葉を聞いて、うん、と神妙に頷いたかと思うと俯き、次には大きな声をあげて突然泣きはじめました。その唐突な号泣に、その場にいる誰もが一様にぎょっと驚きました。「美也ちゃん……」と彼女の肩を抱いたのは桜井先輩でした。桜井先輩の声は震えていて、瞳は潤んでいるようでした。よく見れば、周りの人たちの中にも、涙を浮かべている人がいました。やがて、誰かが拍手を打ちはじめると、みんながそれに習い、その暖かな音が響き渡りました。でも私は手を鳴らすことも、泣くこともできずに、ただ美也ちゃんを困惑と共に見つめることしかできませんでした。私には、とても美也ちゃんが先輩の言葉に感極まって泣いているようには思えなかったんです。美也ちゃんの声はどこか悲しみを帯びているようで、まるで、迷子になった子供が、はぐれてしまった両親に自分の居場所を伝えるために、全力で泣き叫んでいるかのようでした。しかし、その一方で、私には先輩の言葉のどこに、美也ちゃんを悲しませるような意味があったのか、分かりませんでした。橘先輩は、それこそはじめは美也ちゃんが泣き出したことに、うろたえていたましたが、やがて奇妙なことに、先輩まですすり泣きはじめてしまいました。その姿を見て、周囲から、大袈裟な兄妹だな、とか、兄の方まで泣いてどうするんだ? とか、そういった言葉が聞こえてきそうな、何とも言えない空気が流れるのを感じました。新郎の人も沈黙を守ってはいましたが、自分がないがしろにされていると感じているのか、ずっと保ち続けていた、余裕が剥がれて、怪訝な感情が表情に露になっていました。いつの間にか拍手の音は止まって、みんな、どうしていいのか分からないような、困った表情で、泣いている二人を見つめていました。
でも私には、先輩まで辛そうに泣いているのを見て、ようやく美也ちゃんの涙の意味が分かったような気がしました。私は、高校の時から、先輩と美也ちゃんの関係がすごく好きでした。二人がよくしていた、なんだかおかしなやり取りを見ていると楽しくて、微笑ましくて、なんだか変な表現かもしれないんですけど、二人の掛け合いにほっとしている自分がいました。美也ちゃんはよく先輩のことを笑い話にして、私に聞かせてくれましたが、その言葉は先輩を揶揄しているようでも、思いやりがありました。美也ちゃんは、私や他の人の前と、先輩といる時では雰囲気が違って、他の人の前では、私を引っ張ってくれたり、周りの人のために自分から動く、しっかり者の優しい美也ちゃんなのに、先輩の前では本当に子供のように振る舞う瞬間があって、私は、美也ちゃんには、先輩の前でだけ見せることのできる素顔があるんだなって思っていました。きっと、美也ちゃんの中には、先輩だけが癒すことのできる不安があったんだと、泣いている美也ちゃんを見ながら私は感じていました。


5.

 瞼を開いたのに、目の前に広がっていたのはまた闇だった。
 起きたばかりで寝ぼけているからか、ここがどこなのか、はっきりと思い出せない。
 空気が生暖かく、風も吹いていないから、外でないことはわかった。
 手足を伸ばそうとすると壁のようなものに阻まれて、すぐにまた折り曲げた。
 どうやら四方が塞がっていて、閉じ込められているようだったが、不思議と焦る気持ちにはならなかった。
 むしろどこか安心感すら覚えながら、それでも一応は状況を把握しようと頭を動かすと、光の筋が目に入る。
 それは星だった。実物ではない。歪な、手描きの星だった。
 途端に、自分がどこで寝ていたのかを把握して、拍子抜けしたようにため息をつく。
 そうして、再びおまえは瞼を閉じて眠りにつこうとする。今日は平日かもしれないし、休日かもしれない。
 平日だったら学校に行かなくちゃいけない、とおまえは思う。けれどこのまま眠ってしまっても別に構わなかった。なぜなら……。
 微睡みの中で心地よく思考は綻びはじめたが、襖を開ける音と、耳慣れた男の声に遮られてしまう。
 その男は家族だからこそのぶっきらぼうな言葉遣いで、おまえを起こそうとする。
 それに生返事をして、男がまた小言で返して、といったような、いつもの押し門答が続いて、結局、最後は男が折れ、諦めたようなため息をつき、襖を閉めた。
 結局、寝ぼけた頭で男の言葉を聞き流していたおまえは、今日が平日か休日かもわからなかった。
 平日だったら学校に行かなくてはいけない。休日だったら、男が起こしにきたということは家族で何処かに行く用事があるのかもしれない。
 どちらにしても重要な用事で、寝過ごしてはいけないことに変わりなかったが、心配はしていなかった。
 だからもう少しだけ夢を見るために、おまえは小さな体を胎児のように丸める。暗くて、狭い、棺のような、その押入れにすっぽりと収まるために。
 おまえは寝過ごす心配などしていなかった。
 なぜなら、最後の最後には、あの人がまた自分を見つけにきて、手を引いてくれると分かっているから。
 だからおまえは、あの人の部屋の押し入れで、あの人の描いた落書きのような星の下で、また眠りにつく。
 明日は今日と同じ一日で、あの人が自分を起こしたり、おまえがあの人を起こしたり、そういった関係性は生まれてからこれまでずっと続いてきたもので、これからも続くものだと、それが当たり前だと、おまえは信じているから。

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