見出し画像

エンデとモモとソーシャルワーク

歳をとってくるにしたがって、今の社会のあり方に責任のようなものを感じることが増えた。若い頃に望んでいたような社会にはなっていないどころか、より生きづらさを感じるような状況になっていると感じる。もちろん、自分は社会に何がしかの影響を与えることができるような立場ではないし、今の社会のあり方とは全く関係がないのかもしれない。それでも今の社会を形作ってきた一般の「大人」の一人として「これでいいのかなあ」という思いを拭えないでいる。
数年前から、頭の隅にミヒャエル・エンデの「モモ」が浮かぶことが多くなっていた。ニュースを見ていたり、街を歩いていたり、本業の授業準備をしていたり、ソーシャルワークの職能団体の記事を読んでいたり…。そうした際にふと「モモ」が浮かんでくるようになった。
「モモ」を初めて読んだのは、20代前半のことだった。しかし当時の記憶はほとんど無い。子どもたちの遊びに対する記述や「時間どろぼう」という存在だけがおぼろげに印象に残っていたに過ぎない。ただその頃に上の写真にある「エンデと語る」を買っているので、何がしかの強いものを感じてはいたようだ。

それから「モモ」を再読したのは、30年近く後のことだった。ソーシャルワーク教育に限らず、現代の大学教育のあり方に疑問を感じていた頃、果たして自分の授業のあり方は正しいのかという思いに駆られた。アクティブ・ラーニングが強調され始めた頃であり、授業外学習の時間をしっかり取ることが文科省からも求められていた。しかし怠けてばかりの大学生だった自分にとって、予習・復習を義務付けたり、課題を次々に出す大学のあり方が窮屈に思えた。学ぶことは大切だ。けれど、枠にはめた教育を強要するのは大学といえるだろうか?そんなことを考えていた。その一方で「わかりやすい授業」を心がけていた自分は本当に正しいのかという気持ちも強くなっていた。自分がやっているのは、「知のファストフード化」に過ぎないのではないかーそうした思いを持つようになっていた。
そんな時に頭に浮かんでいたのが「モモ」だった。高価なおもちゃではなく、想像力を高める遊びのことや「時間どろぼう」に追われる人々のイメージが今の教育つながる何かを示しているような気がした。上の写真に写っている「モモ」はその頃に買って再読したものだ。当時の私は何か思うところがあったのだろう。いくつかの箇所に付箋を貼っていた。その後、ある研修会で「モモ」を引用した発表をした。ところがこの時もまたそれ以上の記憶がない。

そして60代に入って「モモ」と3度目の出会いとなった。時代は社会福祉のテキストにパレート効率が載り、ビジネスのモデルを使った取り組みが福祉の世界でも幅を効かせるようになっていた。職能団体はソーシャルワーカーとしての研修にキャリアラダーを取り入れて「ソーシャルワーカーはこうあるべき!」と訴えていた。私は、ソーシャルワークの教育に携わっていながら、こうした状況にどこかモヤモヤとしたものを抱えていた。あるとき、パレート効率的な社会のあり方を考えていて、ふと「モモ」を思い出した。「時間どろぼう」のイメージが頭に張り付き、「モモ」のことを考えるようになった。それから週末に少しずつ「モモ」を読み返し始めた。3度目に読む「モモ」は、これまでに読んだときよりもずっと深く心に刺さった。「モモ」は、恐ろしい話だった。
松岡正剛氏は「モモ」を以下のように評している。
エンデはあきらかに時間を「貨幣」と同義とみなしたのである。「時は金なり」の裏側にある意図をファンタジー物語にしてみせたのだ。
(松岡正剛の千弥千冊 1377夜 「モモ」
https://1000ya.isis.ne.jp/1377.html
なるほど、そうかもしれない。「時間どろぼう」たちがやっていることは、現代の資本家と労働者の関係にも似ている。私たちはわずかな時間も誰かの金銭となるような日々を送っている。タイパなどという言葉に振り回されて、効率よく動いているつもりが、人生における時間という自分にしかない資産を奪われ続けている。
エンデが「モモ」で描いている世界は、恐ろしいほどに今の私たちの生活を思い起こさせる。もちろんモモの活躍やマイスター・ホラの人柄などファンタジーならではの要素はあるが、私は読みながら「モモ」の世界観に背筋が寒くなるような思いをずっと感じていた。
60代の私は「モモ」を時間をかけて(飛ばし読みしたとこもあるけど)ゆっくり読んだ。読み終えてから、本棚に眠っていた「エンデと語る」を探し出し、続けて読みはじめた。エンデは世界が「モモ」で描いたようになってはいけないと考えていただろうし、いずれ行き過ぎた資本主義は崩壊するとも考えていたようだ。しかし残念なことに私たちは彼が「モモ」を書いた時よりもずっと「時間どろぼう」の世界に近づいている。

エンデを理解するにはシュタイナーの思想を理解しなければならないのだが、今の私には手に余るのでここでは触れないでおこう。私が「モモ」に対して書けるのは、話の中でのモモの姿がソーシャルワーカーのあり方にヒントを与えてくれているように感じたことだ。
モモは「人の話を聞く」才能を持っている。人々はモモのところを訪れて話をしていくと、自然と落ち着いて帰っていく。モモは何かアドバイスをするわけではなく、ただ真剣に相手の話を聞いているだけだ。「時間どろぼう」が現れるまでは、街の人たちは何か揉め事があると「モモのところに行け」と言っていた。
モモのあり方は、カウンセラーやソーシャルワーカーには響くものがあるだろう。ただモモは、相手と共にいることも大切にしている。他者として距離を置いた聞き役ではなく、相手と共感する。相手を分析したり、自分の正しいと思う方向へ導こうとしたりはしない。
そしてモモは人々から援助を受けて暮らしている。食べ物をもらったり、家の中を整えてもらったりして生きている。これはモモが子どもだったからでもあるけれど、モモと人々との対等な関係性を形作るものでもある。
モモは小さく、お金も力も無いけれど、「時間どろぼう」の言葉に惑わされない。弱気になる事もあるけれど、不思議と勇敢になることもある。
私にはこうしたモモの姿がソーシャルワーカー本来の人間的なあり方に通じるように思える。
技術や知識が不要だと言いたいわけではない。専門職として当然身につけなければならないものはある。職能団体が苦労して専門性の可視化を試みていることもわかる。けれどもキャリアラダーのような可視化は、ソーシャルワークを定型化し、そこに現れていないものの意義を隠してしまう。「モモ」の世界に描かれた「時間どろぼう」たちの戦略に似たものを感じてしまうのだ。
ソーシャルワークの専門性は、見取り図を渡されて、そこに辿り着くためのポイントを稼げば得られるようなものではない。人と関わり、迷い、戸惑いながら自らも振り返りつつゆっくり前に進む。その関わりを通して必要な知識や技術があることを知り、自ら学んだり、誰かに教えられたりしながら習得していく。遠回りのようだけど、そこで得られたものは可視化せずとも自分の力として感得していくことができるだろう。
モモの姿からソーシャルワーカーが学べることは多い。古参の領域に入ったソーシャルワーカーとしては、与えられた地図を辿るだけのような仕事よりも勇気と好奇心で人と関わりながら積み重ねていく仕事のほうがソーシャルワーカーとして成長させてくれると思えてしまい、こんなことを呟いている。

あれこれ長くなってしまったけれど、エンデは「モモ」を解釈すべきでは無いとも言っている。何でもかんでも解釈して深読みしようとすること自体、「時間どろぼう」たちの戦略にはまってしまっているのかもしれない。
まだ「モモ」を読んだことのない人も、過去に読んだことがあるけど覚えてないという人も、ぜひ「モモ」を読んでみてほしいなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?