評論家ぶってんじゃねーよ
映画、本、音楽…
観たもの読んだもの聴いたものを、我流に解釈して文字に起こす、たまにそれを発信する、ということをやっている。
そうすると、たまに自分でも何様だよ、と思う時がある。
何かの道に通じてる訳でもないし、ウィットに富んだ文章が書ける訳でもないし、評論家でもない癖に、あーだこーだ言って偉そうに…
「評論家ぶってんじゃねーよ」って。
でも、やっぱり書きたいなと思うし、
それを発信していきたいなと思う。
じゃあまず、自分にとって書くことって何だろうか。って改めて考えてみたら、大袈裟に言うと、作品を自分の世界の中に取り込むってことなんだろうと思う。
ただ観る読む聴くだけだと、なんとなくの印象は残っても何か大事な部分が流れていってしまう感じがする。だから、とりあえず自分が好きと思ったもの、何かしら引っかかったもの、に対しては自分の言葉を与えることで、それらをより理解したいという欲求が働く。そして、その時の言葉を残しておきたいという欲求が加わる。なぜなら次にその作品に触れる時は、全然違うことを感じるかもしれないから。こういった欲求が自分を「書く」という行為に駆り立てているのだと思う。
あともう一つ面白いのは、自分が実際に感じたと思っていたことと、いざ出来上がった文章の間にも少し距離ができるということ。
直感的に感じたことを文章に起こすとなっても、感覚に言葉を与えるのも難しいし、文章を構成する過程で色々と調べたりもして色んな要素が加わるっていうのもあるし。
自分の中の他人が生まれる、みたいな感じ。
でも、それだけなら、自分で作品を理解して、自分の世界に取り入れる為だけであれば、発信する必要はない。
そこで発信をする意味は、やっぱり自分が書いたものに対してどう思うのか、という人の反応が欲しいからだ。共感が欲しい訳ではない。ただ、この作品に触れた色んな人がどう感じたか知りたいし、実際に客観的な立場からこの文章がどうなのか、っていうのを知って、次に文章を書く時に工夫したい。
…ここまで書いて思ったけど、欲求の塊ですね。ここは欲求の掃溜馬です。
まぁ…何が言いたかったかというと、
「評論家ぶってんじゃねーよ」って自分でも思うけど、できればそう思わずに、こう思う人もいるんだ位で読んでもらえたら嬉しいなぁって思ってます。っていうことです!
それでは、おやすみなさい〜
(深夜2時に血迷って書き始めて今3時)
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