『四月の永い夢』 -躊躇(ためら)いの視線-

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ヒロイン(朝倉あき)が朝の寝床で眠りから覚める場面が、繰り返し描かれる。それが繰り返されるのは、恋人に死なれて心を衰弱させ、まどろむような3年間を生きてきた彼女がゆっくりと世界に向けて覚醒していく過程を、この映画が描いているからだ。眠りから意識が戻り目が開くまでの時間を、この映画は丁寧に見つめている。彼女が歯を磨くショットや銭湯の湯舟でくつろぐショットなども、この映画では反復される。繰り返される日々の営みの中で、傷はゆっくりと癒やされ、心が目覚めていく。

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人が逡巡する場面ばかりが描かれているのも、同じ理由からだろう。登場人物の誰もが、進むか留まるか決めかねたままの時間に佇んでいる。人が人に思い切って声をかけるまでの時間。送られてきた手紙を意を決して開封するまでの時間。迷いためらう時間を映画は丹念に伝えてくる。ヒロインが出会う新たな男(三浦貴大)との触れ合いも、もどかしいほど先に進まない。会話も並んで座ったり歩いたりといった平行したポジションで進行するので、二人の視線は交わらない。相手に届く手前で気持ちは宙に浮いてしまう。三浦の展覧会を朝倉が訪れる場面が印象的だ。入口に立つ朝倉の視線は来客と話す三浦を捉えるけれど、三浦がふと入口を見る視線でカメラが切り返すと、視線の先にはもう誰もいない。

視線の切り返しは、逆に二人が接近する契機を作ったりもする。マンションの屋上で三浦と朝倉が花火を眺める場面、朝倉が花火ってこっちの空かしらと言うと、三浦がいやこっちでしょうと反対側の空を指し、二人がそちらを振り返った途端、花火が空に開く。三浦は、朝倉の視線を逆方向に振り向けさせる存在なのだ。

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そんな場面を経た後も、朝倉の気持ちが急に走り出すはずもなく、映画は、執拗に躊躇いの時間を描き出す。三浦とのときめくような時間を過ごした後、帰途につく朝倉を捉えた一連のショットは、忘れがたい。浴衣姿のうなじを後方から俯瞰で捉えた映像が、彼女の歩みを横から追う移動撮影に切り替わる。イヤホンの音楽に合わせて足取りが弾み踊り出しそうになる瞬間に、いきなり立ち止まる彼女を正面から見据える。人が逡巡の中に取り残される瞬間を、この視点の変化は、劇的に伝えてくる。

そうやって躊躇い立ち止まる場面を繰り返しながらも、ヒロインは少しずつ歩みを取り戻していく。劇中で繰り返し歌われる『As Time Goes By』も、次第にその意味を変えていく。死んだ恋人の家族に会いに行く場面での、恋人の母親高橋恵子の、立ち去りかけて戻って来るという鮮やかな「逡巡のアクション」(小津安二郎の『麦秋』で杉村春子が見せる動きの引用か)や、その直後の決定的なセリフなどを経て、ラスト近く、ヒロインがどこまでも歩いていくシーンは、世界も人も新たな季節に歩み入ったような感触を、見ている者に与える。そして、三浦がなんとも予想外のやり方で朝倉を「振り返らせる」ラストショットが、映画に訪れる。

https://www.youtube.com/watch?v=pIAA0TsSFXk&t=6s

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