『トッド・ソロンズの子犬物語』 -ダックスフントのちょこまか歩きは、意外と速い-
障害者や老人、人生の敗残者といった面子が次から次へと現れて、イタい振る舞いをさんざん繰り広げるトッド・ソロンズの映画を、ずっと見ていたいと思う。何度でも見たいと思ってしまう。
そう思えるかどうかテストされるシーンは、この映画の至る所に転がっている。例えば、飼い始めたダックスフントに不妊手術を施すため病院に向かう車内での、母親と幼い子どもの会話。子ども心に手術の残酷さを察した息子が、母親を質問攻めにする。無邪気で無垢な子どもが相手なのと車内が密室的な空間なのとで、母親の答えからは、彼女自身の偏見や差別の意識(と言うか無意識)がぼろぼろと吐き出されてくる。やがて彼女の隠れた恐怖や欲望までもがグロテスクに噴出してきたあげく、「モハメッド」というムスリムの名前が飛び出すに至っては、今の米国を動かしているであろうアルターエゴまでもが浮上してくる。このヒドい会話、どこが底なんだ?という不安に襲われつつも、いつしかそれに快感を覚えてる自分に気づく時点で、ソロンズの毒は確実に回ってくる。ジュリー・デルピー演じるこのあどけない地獄に堕ちた母親が、私たちの中にも住んでいることに気づき、それを受け止められるかどうか⋯⋯。
ただ、この映画を単なるブラックなコントに終わらせていないのは、ソロンズの映像構成の見事さだ。矢継ぎ早の質問とひきつった答えとの間をカメラが切り返しつつ往復する、その痙攣的な動きが加速していく運動性と、時間を自在に伸び縮みさせる手法。
実際、この時間を伸縮するソロンズの手際は、この映画では冴え渡っている。ダックスフントと少年の幸福な時間を描く脱力しきったスローモーションの後に、犬の不始末の跡を延々と追う長い長いワンカット(そこに流れるドビュッシーの『月の光』!)が続くシークエンス。この引き伸ばされた時間の中で、我々はふと自分が今いる場所を見失う。黒い哄笑に身を任せる自分を、別の時間にいる自分が眺めている、みたいな不思議な感覚。
ソロンズ初期の傑作『ウェルカム・ドールハウス』でのいじめられっ子ドーンが、成長して獣医助手になって現れる(グレタ・ガーウィグ!)けれど、鈍重なはずの彼女が殺処分寸前のダックスフントをあっと言う間に救出する場面の速さには、あっけにとられる。彼女が、中学時代に彼女をいじめていたブランドン(キーラン・カルキン)にスーパーで偶然出会う場面でも、瞬間的に「愛」が飛び出してくる。突然「オハイオに行く」と言い出すブランドンが「なんで?」と聞かれて「シャブがある」と言う。その答えに、間髪を入れず「一緒に行く」と言っちゃうこの女はいったい何なんだ?と思いつつ、納得しないわけにはいかない。以前は彼女をいじめながらも、同時に彼女への屈折した偏愛を丸出しにしていたブランドンに対する思いを、ぽんと飛び出させるこの瞬発力こそが、彼女なのだ。人の中で育っている感情を、映画は一瞬に捉えてしまう。
老いたエレン・バースティンと金の無心に来た娘との挿話には、この映画の要素が全て詰まっている。娘の問いに対するバースティンの返事はそっけなくて底意地が悪い(飼い犬のダックスフントの名を聞かれて「キャンサー」と答える彼女の得意げな無表情!)けれど、その会話の短すぎたり長すぎたりする間合いからは、親子の支配・被支配の関係性だけでなく、娘に対する甘えやら愛情やらがこぼれ落ちてくる。彼女が白昼夢の中で幼い自分自身に出会う場面がそれに続き、この食えない老女を理解せよと映画が迫ってくる。優しかった自分、傷つきやすかった自分が次々に現れて挨拶する夢幻的な場面には、なんとも暖かく切ない会話の時間が流れ出して、吸い込まれるような気持になる。
だから、そんな時間から目覚めた彼女を待っている身も蓋もないラストシーンに、見る者は凍り付く。その瞬間をこれでもかと引っ張る時間にとどめを刺されて、もう嫌だと席を立ちたくなるけれど、劇場を出て歩き始める頃にはもう一度初めからこの映画を見てみたい、というとんでもないループに誘われてしまっている。トッド・ソロンズ映画というテスト、受けてみてはいかが?責任はとれないけれど。