『希望のかなた』 -言葉のかなた-

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不愛想、無表情、無口、無頓着、不器用、無骨、無遠慮、無造作…煮ても焼いても食えないキャラだらけのこの映画、不味いどころかじわじわ旨みが溢れ出る。素材の味を引き出すカウリスマキという匠(たくみ)が繰り出すワザは3つだ。

①「アクション」の匠。レストランの裏口に寝泊まりしてるシリア難民(シェルワン・ハジ)とレストランオーナー(サカリ・クオスマネン)が、出合い頭に殴り合う。なのに次のショットでは、オーナーが難民に飯を食わせながら、「うちで働くか?」なんて切り出している。ぶっきらぼうでストレートなアクション=行動の連鎖が、セリフや表情の代わりにこの二人に起こることを物語る。難民収容施設から逃げ出す場面、主人公が非常口の施錠に気づく瞬間、女看守がすっと寄ってきて錠を解く。二人に通っていただろう「思い」が、言葉の余地なく行動になって飛び出してくる。言葉でなくアクション=行動で語るのは、もちろんサイレント映画の語法。だから、レストラン従業員が窓にガラスがあるふりして磨いたり、チップをもらったふりしてポケットに入れたり、といったサイレント伝来のギャグをいきなりかましても、カウリスマキ映画では何の違和感もない。モノやカネじゃなく、仕種=アクションこそが浮世(憂世)の生に価値を与え、人を結びつける、そういう映画にしか描けない知恵が、現代フィンランド映画に受け継がれているのだ。 

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②「目線」の匠。冒頭、密航してきた船の石炭の山の中から全身真っ黒な難民が身を起こす。なんで石炭?なんで真っ黒?その理由は次のシーンで分かる。船から降りて道を歩き始める彼を、レストランオーナーの車が轢きそうになる。目が合う二人の顔のアップで、ぎょろりとオーナーを見る目を、真っ黒な顔が際立たせる。先の殴り合いの前に、二人は実はこんな形で顔を(目を)合わせているわけで、顔よりも先に目線の交わし合いから人が出会う映画的風土を、この監督は作り出しているのだ。レストランの従業員が拾ってくる犬を、捨ててこいとオーナーは命じるけれど、すでに犬とオーナーはしっかりと目を合わせてしまっているので、当然、犬はレストランに住みつくことになる。衛生局がレストランに査察に来たときには、難民と犬はセットみたいに一緒にトイレに隠される。抱かれた犬と抱く難民の目つきがあまりに似ていて観客は噴き出すけれど、同時に、フィンランド語を解さない犬がフィンランド語を話さない難民の比喩であることに気づいて、この映画のテーマに向き合わされる。そんな状況にあって、言葉よりも視線こそが、人と人との間の壁を壊す。そんな気づきは、確かにこの難民の時代にアクチュアルな意味を持つ。難民の妹が「密輸」されてくる船を、車の座席からじっと見つめるオーナーや難民の顔は相変わらず無表情だけれど、彼らがひたすら前を見据える目線には、見ているこちらも胸が痛む。目は口ほどに、どころか口以上にものを言うのが、カウリスマキだ。

③「色」の匠。カウリスマキのカメラマン、ティモ・サルミネンの作る青みを帯びた世界は、相変わらず美しい。現実は夢じゃないけれど、夢の領域に隣接していることを思わせる深い青だ。しかも、どのショットにも必ず暖色を帯びた何かが映りこむ小津安二郎的色彩構成。様々な場面を巡ってリフレインされる色彩は、カウリスマキ映画のもう一つの言葉だ。レストラン従業員となった難民の着る上着のオレンジ色がラストで再び現れるのを見る感動は、この映画を見る観客だけに許された特権だ。

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http://kibou-film.com/

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