『アンジェラ・ヒューイット リサイタル』 -2017年5月30日 紀尾井ホール-

バッハの『フランス組曲』の全曲を演奏したこの夜のアンジェラ・ヒューイットは、現代のピアノでバッハを美しく演奏するとはどういうことかを、自らの演奏で示した。

『フランス組曲』は、様々なダンスのフォーマットの上に作られた音楽で、そのリズムを弾ませドライブさせるグレン・グールドの演奏は、いわばバッハの音楽の律動性、駆動性を際立たせる。ヒューイットのバッハは、その対極にあって、対位法音楽における各声部の自立性および声部相互の関係性を浮かび上がらせる。音の強弱と音色の変化とで各声部の線の水平な流れを細心に描き出し、各々の声部同士の対話を伝えてくる。それは、主に二声で書かれているというシンプルな書法を持つこの曲集だからこそ、よりはっきりとした演奏上の特徴として感じられるのだろう。たとえば、彼女の左手の旋律線が右手のそれに耳を澄ましているかのように聞こえてくる、その音の立ち居振る舞いが、たとえようもなくエレガントで美しいのだ。しかもその対話には、いわば無私の喜びといった謙虚さがある。奏者が語るのではなくバッハが語る、その声に耳を傾けるために演奏家が存在する、というスタンスがここにはある。

彼女のそういうスタイルの確立には、彼女自身の出自が影響しているように思われる。「バッハの旅は生まれた時から始まった。」と彼女自身が語っているように、大聖堂のオルガニストを父に持ったことは、彼女の演奏に二重に寄与していると思う。

まず、オルガンという楽器の音の水平性に彼女の音楽が根ざしていること。ピアノが金属の弦に打撃を与えて一音一音を垂直に立ち上げるのに対し、パイプに空気を吹き込むことによって生まれるオルガンの音は、一つの音が滑らかに他の音に連なっていき、水平な音の流れを作っていく。その音のイメージが、ヒューイットの演奏からは聞こえてくる。その意味で、彼女のバッハ演奏は、グールド、アンドラーシュ・シフといったピアニストたちの、ハープシコード系の音のイメージをピアノの音に重ね合わせる演奏の系譜ではなく、スヴャトスラフ・リヒテルのような、オルガンの音をイメージさせる演奏のスタイルに連なっている。

さらに、彼女の演奏からは、哲学者の森有正がかつて生前にインタビューで語った言葉が思い出される。教会のオルガニストでもあった森は、オルガンでバッハを弾く際の危険性について述べていた。鍵盤を押すために手と脚を総動員している奏者の肉体は、演奏の中で我知らず興奮してくるもので、その興奮が、やがてバッハ演奏で堅持されるべきテンポを狂わせていくのだ、と。バッハを弾くために自分の興奮と闘うことは、おそらくすべてのオルガン演奏家に課された試練であるに違いない。ヒューイットが父からそういった精神を受け継いでいるのは自然に想像できるし、それが彼女の演奏の謙虚な平静さを生んでいることも、容易に理解できる。

だが、ヒューイットの演奏の謙虚さ平静さは、単調さにはつながらない。ダカーポによる繰り返しの際に、彼女はディナーミク(音の強弱)と音色を一段と抑えることで、音楽にはっとするような静けさをもたらしてくる。全曲の演奏の中で何度か作り出されるそんな瞬間、観客は思いもよらない音楽の深淵を垣間見せられて、息を呑む。彼女のそういう表現力は、たとえば、アンコールのラモーで見せたエクスプレッシブかつアトラクティブな演奏からも、うかがい知れる。彼女のラヴェルをライブで聴いてみたいと思う気持ちがますます強くなったが、そういう能力を能う限り封印してバッハの音楽に奉仕するこの音楽家の姿勢に、ますます尊敬の念を深めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?