『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』 -飛び跳ね走る身体で世界と関わる-

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子どもの動きが圧倒的だ。6歳のムーニーや友達のジャンシーの手やら足やら頭やら、どこかしらが絶え間なくぶらぶら動いているし、何かあれば手足はすぐに跳ね出し踊り出す。手放しで過剰で逸脱的な動きから、目が離せなくなる。扇風機に向かって叫び、牛の鳴き真似をしながら、子どもたちは世界と対話する。そういう身体とアクションを通して、私たち観客もこの世界の新たな相を発見する。

ムーニーが時折口にするセリフが我々の想像力の思いがけない起爆剤になるのは、言葉が、絶え間なく動き続ける身体から発せられているからだろう。倒れた樹の上でお菓子を食べながら、「この樹が好きなのは、倒れてもまだ育ってるから」と語る。湖のほとりで、「なんでみんな湖をじっと見つめるんだろう」と呟く。世界は生まれたばかりのような姿で、見いだされる。

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子どものそんな動きとは対照的に、大人たちの動きは機能的でノイズの入り込む余地がないーーように見えるけれど、子どもの動きを見据える眼がそのまんま大人たちにも注がれているおかげで、大人たちからも「制御不能の身体」が出現してくる。貧窮のストレスでムーニーの母親ヘイリーの動きはどんどん幼児化していくし、スマートで心優しいモーテルの管理人ボビー(ウィレム・デフォー!)も、子どもに近づく小児性愛者に対しては全身で怒りを暴発させる。それらの動きに、憂き世の人間の痛ましさを感じながらも、その身体の動きに解き放たれるような思いを味わう回路が、私たち観客の中にもある。

アイスクリームやらジャンクフードやらを食べ散らかす場面が多い。特にムーニーたち母娘がダイナーやレストランで自爆テロみたいな暴飲暴食をやらかす場面が二回ある。両方ともヘイリーの自暴自棄な気持ちが爆発した振る舞いで、母親の気持ちを慮(おもんばか)れば、あまりにイタい場面には違いないけれど、事情を理解しないムーニーからして見れば、天国的な時間にほかならない。

そんなムーニーの身体、ムーニーの目線から眺めるフロリダの空も、この映画では歌うように雄弁だ。夕焼けの空を呼吸するように浴びながら、国道沿いを歩く。雨上がりの虹に向かって思わず走り出す。岸辺で眺めるディズニーランドの花火は祝祭の号砲になる。絶えず不穏な音を空に響かせて飛び立つヘリも、彼女にとっては挨拶を送るべく巨大な生き物のようなのだ。

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過剰な身体が走り出し、現実を突き抜けて別の次元に突入するラストにカタルシスを感じるとしたら、それは生き物としての我々の身体が、ムーニーたち子どものアクションに共振してのことだろう。身体を持つことそれ自体への祝福を、そこに感じ取るからだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=Txq-8P1Ut8k

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