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ムーン・パレスのこと

ポール・オースターが4月30日に亡くなったとというニュースが、ゴールデンウィークの真っ只中に流れてきた。
これは私にとって、ちょっとした事件だった。
はじめはみぞおちのあたりがきゅっと縮まり全身が寒くなったような感じがして、状況を飲み込んでしばらく経つと胸がしんとした。

確か高校2年生の頃だったと記憶している。
本好きな友人が「この本すごいよ」と言って貸してくれたのが新潮文庫の『ムーン・パレス』だった。その頃の私は進路に悩んでいて、本当は語学や翻訳に興味があったけれどそれをストレートに表現するのが怖くて、周囲に言えないでいた。

何者かになりたい欲望と、何者にもなれないような恐怖をセットで抱えていて、そんな時に出会ったムーン・パレスの切羽詰まった文体が妙に心に寄り添ってくれた。
夢中で読み終わり、カバーや帯に目をやると「翻訳大賞受賞」という文字が光って見えた。

そこで「翻訳ってかっこいい。なんかすごい」という憧れが生まれ、大学では「英文学」というものをやってみようと決意。大学に行っていない両親、特に父親には「経済学とか、もっと役に立ちそうなものにしたら」と言われたが、頑固な私の意思を最終的には許してくれた。

大学入学とともに親元を離れ、東京の祖母の家で暮らすことになった私はもちろん『ムーン・パレス』を含むお気に入りの本を携えて行った。
田舎からいきなり都会のど真ん中にあるキャンパスに通うことになった私は、まるで漱石の三四郎だった。
孤独を感じる機会は嫌というほどあって、折に触れて『ムーン・パレス』を読み返していたように思う。柴田さんの流麗な翻訳文が本当に好きで、「なんでこんなに素敵な文章を書けるんだろう」と、同じ文章を繰り返し読んでいた時もある。

そんなに好きな本だったのに、主人公のマーコに共感したり、感情移入していたことがちょっと恥ずかしかった。周囲のキラキラしたキャンパス女子の中に、果たして同志がいただろうか。大学のゼミで出会った一風変わった男の子がポール・オースター好きを公言していたせいで彼と距離を置いていたぐらい、意識していた。

青春時代に何度も読んだせいで、この本と平静な関係を保つことができない。
私はコロンビア大学の学生になりたかったし、大量の本で「虚構の家具」を作ってみたかったし、セントラルパークで野宿してみたかった。極限まで腹を空かせた状態で、最後の卵を落としてしまうあのシーン。あまりに秀逸すぎて脳裏に刻まれ、あたかも自分が体験した出来事のように細胞が記憶してしまっている。

大人になって、映画の趣味がとても合う友人ができた。
ふとした流れでポール・オースターの話になり、「この人なら分かってくれそう」と淡い期待を込めてムーン・パレスを貸してみた。
しかし数ヶ月経っても本は帰って来ず、約半年後「途中まで読んだんですけど、ちょっとついていけなくて…  主人公にツッコミどころが多くて」と一笑に付されてしまった。そこでまた恥ずかしさが蘇ってきて、「そうですよね!セントラルパークで雨に打たれてめちゃくちゃな言葉を叫んだり。はははは」と誤魔化してちょうど本の真ん中あたりにブックマークが挟まっている、くたびれた本(元々くたびれていた。念のため)を受け取った。

それ以来仕舞われっ放しだったその本を、彼の訃報をきっかけに久々に手にとってみた。
MOON PALACEのピンクとブルーのネオン、ジンマー、キティ・ウー、フォッグ伯父さんなど懐かしいワードに顔を綻ばせていたら、後書きの「私がいままで書いた唯一のコメディ」という一文に目が留まった。なんとなく実在した人物の自伝を読んでいるような感覚だったので、それで今まで恥ずかしかったんだと合点がいった。コメディーとして突き放してしまえば恥ずかしさは消失する。己のうっかり加減を改めて意識することになった。

ところで、最近カフカ展に行ってきた。
村上春樹がカフカ賞を受賞したときにも引用された、カフカのこんな言葉がある。

思うのだが、僕らを噛んだり刺したりする本だけを、僕らは読むべきなんだ。本というのは、僕らの内なる凍った海に対する斧でなくてはならない

1904年 カフカから友人への手紙

ポール・オースターは上記のような本をあらわすことのできる、稀有な作家だったのだと思う。

『ムーン・パレス』がなければ、ポール・オースターがいなければ、柴田さんが翻訳をしてくれていなければ、私は全然別の道に進んでいたのかもしれない。

偶然が大きなモチーフとなる彼の作品群に、私の世界観も多大な影響を受けた。
彼の作り出す、現実よりもリアルな虚構の世界は、居心地がいいわけではないのになぜか虜になってしまう。これからも繰り返し訪れてしまうだろうと思う。

心よりご冥福をお祈りします。


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