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2022年5月26日、大阪フェスティバルホール。

 2022年5月26日、梅雨というには少し早い小雨がぱらつく中、ライブが始まる1時間前にフェスティバルホールに到着した。ライブハウスでも座席が指定されることが多くなった今、こんなに早く会場に到着したのは久しぶりのことだった。あたりを見渡すと、真紅に染められた絨毯が広がり、広々とした空間に無数のランプが輝いている。会場の華やかさに心躍る気持ちとどことなく息が詰まって落ちつかない気持ちが同居する。そんな中お客さんたちは、落ち着きをまといながらもクリープハイプが好きだという雰囲気は隠しきれていないようで心なしか安心した。私は手持ち無沙汰になってしまい、しがみつくように家から持ってきた物販のタオルを手に掴む。それは初めて生でクリープハイプを見たときに買ったものだった。当時の自分と今の自分、どこが変わったんだろう。なんてありきたりな問いかけが頭をよぎる。クリープハイプはその間、映画主題歌からエロの歌まで幅広く楽曲をリリースし、街から街へとライブを行い、一度も止まることなく活動を続けてきた。「変わってしまった」なんていう人たちが出てきてしまうくらいに、彼らは進化し続けてきた。そして今日、下ネタなんてもっての外、と言わんばかりの煌びやか空間を、自分たちだけのものにしてしまうバンドとしてここに来ているのだ。しかし、彼らは本当に「変わった」のだろうか。こんなことを言ったら尾崎さんに怒られるかもしれないけど、少なくとも私はそう思ったことはない。クリープハイプが今日私に見せてくれたものは、心の真ん中とも片隅ともいえる場所でしがみつきあっている、いつまでも変わることのない大好きな魅力だった。

もう見慣れてしまった緑のドラムが置かれたステージに、4人がいつもと変わらない歩き姿で登場する。幻想的で静かな光の中から、彼らの奏で始めたメロディーが全身の皮膚を通して伝わってくる。彼らのしっとりとした、それでも何かを噛みしめているような楽器の音だけが会場に響く。そして突如音楽が止まり、クリープハイプのボーカル・ギターの立ち位置を青白く照らした。

クリープハイプ

「今日の1曲目なんやと思う?」「さあ...アルバムの一曲目やし料理やない?」
そんな会話を台所の三角コーナーに放り投げるように尾崎さんがギターを掻き鳴らす。身も蓋もない水槽の始まりと同時に骨の髄まで音が通り、今まで考えていたことなんてすべて忘れた。これがクリープハイプのライブだ。今日の尾崎さんの声は、何かにせかされているような、引っ張られているような焦燥を含んでいる。君の部屋で「好きな漫画」と歌う尾崎さんの声が、その引力を振りほどくように力強く掠れた。尾崎さんは失敗してしまったと思っているのだろうか。私はその掠れ声に、他でもない今、他でもないこの場所で、彼らが全身全霊で歌を歌ってくれていることを感じて心動かされているというのに。

尾崎世界観

イトのイントロを迎えたところで、音楽を聴くことと腕を上げるということという普段は全く結びつかない二つの行為が一つの行為としてつながる瞬間が訪れる。しかし、クリープハイプのライブはそう感じることを強制したりなんてしない。私が初めてライブを見たときはそう思うことができず周りに合わせて手を上げることもあったけれど、クリープハイプはゆっくり時間をかけてその呪いを解いてくれた。皆それぞれが、それぞれの思いを持ってライブ会場にやってくる。同じ場所で、同じ音を聴いたとしても、誰一人として同じ気持ちにはならない。そのことを許してくれるのは、ひとえに、クリープハイプ自身が自分たちの感情に嘘をつかずに活動をしてきてくれたからだろう。だからこそ、新しい曲を聴いても、昔の曲を聴いても、クリープハイプから変わることのない魅力を感じることができる。

2018年5月11日に初めて聴いたクリープハイプの栞と今日の栞、悪いと思いながら何度も見てしまった商店街で座り込んで歌うヒッカキキズと今日のヒッカキキズ、尾崎さんはその時々でどんな事を思って歌っていたのだろうか、2階席からは見ることのできない彼の表情を想像してみてもわかるはずもなかった。私は当時と同じ感情で聴いているわけでもないのに、心の中の同じ場所を再び埋めてくれているようにも傷つけてくれているようにも感じた。

長谷川カオナシ

ライブに招待してもらい、さらにライブレポートを書く身にもかかわらず、彼らの熱量に押されてライブを全力で楽しんでしまっていた。だからもう一言一句覚えているわけではいないし、又聞きなんかで伝えたくはないのだけれど、今日の彼の言葉はいつまでも忘れられない気がしている。尾崎さんが言葉で伝えてくれたのは、私たちに伝えてくれたのはクリープハイプの「変わらない」所だった。一言で言ってしまっていいのかわからないし、自分の語彙力ではそもそもの選択肢が少ないけれど、それは愛という言葉で表現することが最も近いのではないだろうか。形ないものを信じることは本来大きな苦しみを伴うことではあるけれど、その苦しみを受け入れて生きて行っても良いんじゃないかって、そう思わせてくれる瞬間がクリープハイプのライブにはある。私には、いつもありがとうという言葉しか出てこなかった。

小川幸慈

切なくも暖かい会場の雰囲気に飲み込まれてあっという間にライブは終盤に差し掛かってしまった。左耳、手と手、ABCDC、と私たちの心の痒い所をまくしたてる楽曲が続く。その時の記憶はもうない。本当に楽しんでいたんだろうな。CDにはない尾崎さんの叫び声も、耳も心もつんざく小川さんのギターも、骨の髄まで響き渡るカオナシさんのベースも、心臓を直接叩くような拓さんのドラムも、(カオナシさんの面白いMCも、)チケットを買って、その日の予定を開けて、会場に足を運んだ人だけが感じることができる特権だ。言葉にして伝えることはできないのだ。
そしてツアータイトル「今夜は月が綺麗だよ」に歌詞が引用されているexダーリンの演奏が始まる。ただ目の前のお客さんのためだけに歌う、いつもと何も変わらないたった1回の演奏だ。その1回の演奏に私は今まで何度救われてきたのだろうか。たとえ今夜、綺麗な月を見ることができなかったとしても彼らに偽りは一切ない。あるのは一つの言葉では表現することができない、大切で大切で仕方ない何かだ。そんな彼らの音楽に寄りかかってしまった私の心の中に、彼らの紡ぐ言葉がただただ積み重なっていく。
「最後の曲です」という言葉に、「え~」といういつもの反応はまだ聞こえてこない。ただ名残惜しさだけが響き渡る会場で今日の最後の曲が始まった。尾崎さんは「生きる 生きる 生きる 生きるよ」と歌いあげる。そこに抑揚なんてない。私たちの心に傷跡を残そうとするように、今ここにあるすべてを絞り切って彼は声を上げる。

小泉拓

クリープハイプのライブが終わっても、降っていた雨が止んで今夜の月が顔を出すような奇跡が起きることはない。クリープハイプの曲を全身で受け止めて生まれた、言葉にしてしまう事がもったいない程の感情も、ふとした瞬間スマートフォンの青白い光に吸い込まれてしまう。そうだとしても、私は強く生きていくことができるのだ。クリープハイプは、これまでも、これからも、今生きている私たちのためだけに歌い続けてくれるのだから。

(文:鈴木 https://note.com/marsa_t )
(撮影:関信行)


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