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今日も京都て歩いて行こうと ~粟田口の名号碑~

京都在住です。よく散歩に行きます。
気が向いたとき、
私が訪問した場所を紹介します。

今回、京都の南東の端、
山科からの入り口の、
『粟田口』あわたぐちの名号碑を紹介します。

今回はさすがに歩きではないです。
歩いて行こうシリーズには、
厳密には入れてはいけない。

まぁ、ええやないですか。

粟田口は、碁盤目の京都市内から、
東南の位置にあり、蹴上けあげのインクライン
の先、山科との峠のことです。

古くから滋賀~山科~京都へ至る、
交通の要衝の峠でもあり、
罪人を処刑する刑場が
あったことでも知られています。

で、処刑場があったことから、当時の
木食正禅養阿(もくじきしょうぜんようあ)
上人という人が、永代供養のため、
名号碑を建立したそうです。
(すべて説明書から抜粋)

木食ってすごいですね。
草根木皮の生食のみで生きるとか。

う~ん。。。大丈夫なんでしょうか。
そんなんで、生きれるんでしょうか。
それも不思議ですが。

さらに、単純に不思議に思ったのは、
こんな立派な石碑を、当時でも、
どうやって作ったんだろう???
木や草喰ってるだけの人が、作れる??

おそらくは、その当時でも、上人は
すごい人ってことで、いろんな人や
組織が、応援してたんではないか?

じゃないと、木や草だけ食べてる
って人が、こんなでかい石碑を残せない。
まぁ、大きなお世話ですね。
すみません。ついつい。

特別感しかないです。

ちなみに、真ん中で分かれてます。
上の方もヒビとか、入ってます。

当時の現物は、上半分のみで、
下半分は、あとから作り直したらしい。

この割れた理由などについては、
あとで述べます。

ちなみに、ここにあります。

京都~山科を、三条通りで通る人は、
あるいは見たことがあるかも
しれません。
交差点の、隅っこ。

私も、たまたま、ここに停まったから、
初めてじっくりみることができました。

かなり交通量の多い、生活道路なので、
逆に当たり前すぎて埋もれてる
感じもあります。

右手が、その名号碑。
あれ。。。左手に、まだなんかある。
行ってみるか。

いや~。。。なんかすごいよ。
やばい感じしかしない。

やっぱり、説明文は助かるよね。
やっぱり、読んじゃう。

明治の初めに、粟田口処刑場が廃止。
そののち、排仏毀釈はいぶつきしゃくの難により、
石碑が取り壊され、石垣や道路に!?

なんてこった。。。
やばいやつやん。。。

私は日蓮宗でも無いし、
個人的な宗教性は皆無ですが、
なんだか、どういったらいいんでしょう。

もうちょっと、歴史の勉強しないと。

ちょっと調べてみましたが、
かなり血なまぐさい。

日本史で習ったんかな。。。
覚えてない。

だけど、実際に、こうして、
現実に残ってるものをみると、
そういった歴史的な大変なことにも、
想いを巡らせざるをえない。

廃仏毀釈はいぶつきしゃくとも書き、神仏分離による
運動なんかも関係してたようです。
なんかあったなぁ。。

なんだかんだで。

さっきの鉄の説明文によると。
石の玄題塔の断片を基石として、
供養塔を立てたと。

これか。

この部分が、もともとの塔だったみたい。
何の漢字かわからんけど。

まぁ、私はよくわかりませんが、
とりあえず、手だけは合わせて。

そのくらいしかできませんが。

なんだか、神聖な歴史の遺物を、
目の当たりにして。

さっきの、真っ二つの名号碑にしても、
割られてゴミ同然で道路の石蓋に流用
されたとしても、こうして不完全でも
残って、私なんかにも、メッセージを
伝えている。

それを、またこうして私が伝えている。

この石碑を作った木食上人の想いは、
たとえ石碑が割られようとも、
脈々と残っている。

作った時の目的は、いまでも
達成し続けてるってことです。

そう考えると、あえて割ったのかも。

あえて割ったというより、
そうなるべくしてなったのかも。

形として、なんとしても生き残るため、
割られて、ごみ同然の扱いを受けて、
溝の石蓋の扱いを受けたとしても、
残ることに大きな意義がある。

私は、この割られた名号碑をみて、
生き残るには、こういうしたたかさも
大切なんだな、と感銘を受けました。

不謹慎ふきんしん、と言われるかもしれないけど。

立派なまんま、建設当時のままなら、
あるいは、粉々にくだかれたり、
海かなんかに投棄されて、
二度と戻ってこれなかったかも。

あえて、ではないと思うけど、
真っ二つになろうとも、生き抜く道を
選んだことで、今こうしてここに。

そのように思えてならなかった。
私も、したたかに、そのように
生きたいと。

時にわざとでも、負けても、折れても
かまわない。
最終的に、なんらかの形でも、残れば。

鬼滅の刃のネタばれになるけど、
那田蜘蛛山の累が、炭治郎に、
首切られる前に、自分で切ってしのいだ。

あのエピソードも、少し思い出した。

どういう形であれ、必死で生きる。
そのときそのとき、その人なりの
やりかたで生き残る。

不謹慎かもしれないけど、
間違ってるかもしれないけど。

私は、そのように思いました。

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