この胎にはなにも居ない。

「一応は陽性なんだけどうっすらだから、おそらくは子宮外妊娠というやつで」「もう生理になっているみたいだ、初期流産というやつだね。」
社長室のような豪勢なテーブルの向こう側に座った老年の医師が、趣味の悪い金色のギラギラした時計を見せつけながら、あれこれとカルテに記入している。書いている万年筆もこれまたギラギラしていて趣味が悪い。そして残念そうな声のトーンとスピードで話す。頭の後ろの方が少しずつ、だが確実に冷たくなっていくのが分かった。この胎には、なにも居なかったのだ。

月経の間隔と感覚の両方に違和感があった。最初は予定の1週間前に少量の出血、それから「いつもより」少ない経血と「いつもより」楽な下腹部痛。
心当たりは十分にあったし、こんなにも早く宿ってくれたと期待した。順番めちゃくちゃだなあと笑いながら、いつもならばすぐに飲み込む淡いピンク色の解熱鎮痛剤には手を伸ばさず、湯船で温まったり、横になったり、普段は絶対にやることのないストレッチで身体をほぐしたり、好きな紅茶をノンカフェインのものにしたり、気持ちだけはもう既に立派な「ママ」だった。「ママ」になることを信じて疑わなかった。

だが人生何もかもが思い通り上手く行くことの方が少ない。ダラダラとした出血は止まらず、鈍い下腹部痛も治まらない。インターネットの検索窓は「妊娠初期」関連のもので埋め尽くされ、何日前にこのページにアクセスしましたと表示されている。
いつもは出る血の塊が出てないから、経血がいつもと違ってさらさらしているから、普段の生理よりもキツくないから、そうやって自分を誤魔化し誤魔化しなんとか月経予定日の1週間後を待とうと思った。パートナーも、あまり気にしすぎて思いつめないようにしよう、とそういうのは疎いと言いながらも精一杯のフォローをしてくれた。

月経予定日から4日後、また出血が始まった。これがいわゆる初期に起きる正常な範囲内の出血なのか、はたまた不正出血なのか、わからない。出血していても検査薬って反応するのだろうか…

四角い窓に2本の線が出た時は純粋に嬉しかった。ただの生理不順だと思っていただけに、安価な検査薬を買ってきてしまったが、このメーカーの物は安価な代わりにラインが消えてしまうのだと言う。せめてパートナーが見るまででいいから持ちこたえてほしい、と1時間おきに確認したりして完全に浮かれきっていた。
ふたりの子なら絶対に可愛いと笑っていた数ヶ月前のパートナーは、華奢な検査薬を両手で大切そうに持って「そっかそっか」とそれだけを繰り返していた。初めて見る表情だったが、怒っていたり戸惑っている様子ではなく、ただ現実を冷静に噛み締めているような様子だった。

病院で診てもらって確定してから喜ぼう、と決めていたのに。
淡い期待は呆気なくたった数分の内診で打ち砕かれてしまった。

この体内に確かに存在していたという証明は、手渡された小さな検査結果の厚紙にうっすらと表示された2本の線しかない。
次の診察日は1週間後だ、頭も下腹部も痛い。2リットルのペットボトルを持って少し歩いただけでも、止まると地面が揺れているような感覚に襲われる。視界も歪む。「いつもより」気分が悪い。

だが解熱鎮痛剤を飲む決意がつかない。飲めばこの不快感から逃れられるのに。お腹が痛かったら薬を飲んでもいい、と医師に言われた事を否定したかった。妊娠中に薬を飲むという事がどういう事か、飲んで良いという事がどういう事かも分かっていたから尚更否定したかった。

この胎にはなにも居ないのに。

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