見出し画像

「現代美術と美術の違い」私感

私は美しいものを鑑賞するのが好きだ。
それが、絵画であろうと造形物であろうと、舞台作品、風景、器、ジュエリー問わない。

美しいかどうか?

のみを問うているだけである。

そんなことをよく発言しているので、美術展によく行く人というイメージが周囲の人にはもたれているかもしれない。
確かに、訪れる頻度は高いほうかもしれない。
そうすると、決まって聞かれる質問がある。

「現代美術と古典の美術は何が違いますか」
というものだ。

「美術」と表現するからには、「美」を表現したものが「美術」であろう。
それは明白だと思うのだ。
では、美術展においてあるものが全部、美か?というとそうでもないし、
古典が全部、美か?と言われてもそうでもない、というしかない。

ただ、私の中で明白に線引きしていることがある。
それは、現代美術とそれ以前のもの。
現代美術はいつからか?といわれると、学術的にはわからないが、私の中にある定義は、
「自分表現」をしてしまっているのが、現代美術である。
ということだ。
いつからか、自己表現に美術がくっついてしまっている。
それ以前というのは、その人が思う「美」を表現したくて、もしくは「何か」を「美」として表現したくて、それが絵画や彫刻や造形物になっていたように思う。
それらは今では古典といわれてしまい、今は「自分」を表現するのが美術なっていしまっているように思えるのだ。

作品をみたとき、
作者の「私」を感じてしまったら、もうそれはもう現代美術。と私は思ってしまう。
別に「自分表現」するのが悪いとは思わないが、エゴ丸出し感はいなめない。
古典といわれる作品たちは、作者の中に何かテーマがありそれを「美」として表現するために「術」が駆使されてきた。
その「術」が○○主義などと後世にネーミングされているのだと思う。
美の表現方法として、時代時代にトレンドがあるのだろう。(それは、その時代の人たちの感覚が、そのトレンドを好むからそうなっているはず)

分析すれば、色々と定義づけたり語れたりするが、私にとって一番重要なのは、「美」があるかどうか。だけである。
それは、分析してわかる美ではなく、感覚的に「美」と感じられるかどうか?である
そして、「美」とは何か?
と問われれば、「そこに真理があるか」である。

真理があるものは絶対的に美である。

それが、今の所の私の定義だ。