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「スペクタクルの社会」を知っていますか?

 1960年代末、フランスを中心とする世界中の若者に熱烈に支持された一冊がある。タイトルは「スペクタクルの社会」。ここでスペクタクルとは「見世物的」という意味で使われ、経済や商品が労働や生き方を支配する状況やマスメディアを指すとされる。著者はギー・ドゥボール。フランスの映画作家であり思想家として、芸術家、知識人、政治理論家によって結成された社会的革命組織シチュオアニスト・インターナショナル(Situationist International、国際状況主義連盟)のメンバーとして活動した。彼がその理論(持論)を書籍としてまとめ出版した翌年、学生・労働者が一斉蜂起したフランス五月革命が勃発する。それはまるで同書が革命の火付け役となり予言したようだ、と言われている。

  「奇書」とでもいうべき不思議な本だ。体系立てられた理論が展開されているわけではない。9つの章にわけた短い221の文章(テーゼ)が羅列されている。使われる言語は難解で、読み進むのには苦痛を伴う。しかし、なぜか目が放せない・・。時折立ち現れる、まるで現在の状況を言い表しているかのような言葉に、思わずドキッとさせられるからだ。

 己の生産物から分離された人間は、自己の世界のあらゆる細部を作り出すことにますます意を注ぎ、その結果、ますます自己の世界から分離される。

 資本主義的生産は空間を統一し、その統一の過程は、同時にその広がりにおいても程度においても凡庸化の進行する過程でもあった。

 こうして、現代人はあまりに観客的(スペクタトゥール)であるということが原因でスペクタクルが生まれたのだとされる。

 「スペクタクルの社会」の中では、その状況を分析し打破するいくつかのキーワードが提示される。ひとつは「漂流」。本来の道筋から逸れて成り行きに任せて自由に漂うこと。もうひとつは「転用」。モノを本来あった場所から逸脱させること、本来の方向から逸らすこと。前者は、建築家・隈研吾が提案している「新しい公共性をつくるためのネコの5原則」にも通じ、後者はアートの力とも言える「リフレーミング(自己の枠組みを外し新たな枠組みでものを見る)」にも通じる。

  この本が、なぜそれほど60年代とりわけ1968年の若者の支持を得たのか。それは、その時代を覆う空気や彼らの気分を、見事に言語化していたからだろう。それは「怒り」のようなものではなかったのでないか。この時期、フランスでは五月革命が、アメリカではベトナム反戦運動が起こり、そして日本では安保闘争というカタチで若者たちが社会を変えようと立ち上がっていた。

 もうひとつの問いは、偶然出会ったこの本に、なぜ私が魅せられたのか。それは、私の中にも「怒り」が湧き上がっているからだろう。見事なまでの「スペクタクル(見世物的)」なリーダー選びのイベントを国民不在で展開する政治家たち。打ち手が思い付きでチグハグなコロナ対策。いつからこの国はこれほど劣化してしまったのだろうか。だが、ただ怒りを抱えているだけでは物事は前に進まない。その怒りをエネルギーに変え、より良い方向に向かうために自分に何ができるのだろうか。それは君、私の言葉をヒントに自分で考えることだな。そう、ギー・ドゥボールから問いかけられているようだ。

 あなたの中に「怒り」があるなら、ギー・ドゥボールの言葉は響くはずだ。

#スペクタクルの社会 #ギー・ドゥボール #シチュオアニスト・インターナショナル #五月革命



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