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物事の奥義「理外の理」

誰だって夢を描くし、誰だって活躍したい。

しかし、なぜ多くの人が、
夢を夢で終わらせてしまうのか。

それは知ることと行うことが
「分離」してしまうから。

知識はあるのに行動に至らない。
そして、結局は残念な生涯で終わってしまう。

本人の意志と努力によって
道が開かれるはずなのに

」と「こう」が分離して
残念な生涯で終わってしまうことが少なくない。

こうは合一なり❗️

即ち知ることと行うことは一つである

学んだらやってみよ
知ったら活かしてみよ、と

「知行合一」の思想(陽明学)を唱えたのは、

中国明代の思想家・王陽明。

知ったからには行う、
行ってこそ知は完成するという

行動哲学」であり、

我が国の志士たちにも
大きな影響を与えた。

この知と行の合一ということが道であって、
大脳思考手足筋肉とが同時に発達して、

ついに体全体で把握したものが、

極意、神髄、コツであり
「物事の奥義」であり、

「理外の理」
である。

「奥義は語ろうとして語れるものではない。また考えてわかるものでもなければ、説明されて把握できるものでもない。書きあらわすことのできない「理外の理」なのである。この理外の理をつかまえることが悟りであり、奥義に達することである。」

沖正弘『ヨガ行法と哲学』

体全体で考え体全体で行うことが
奥義に達するただ一つの道なのである。

奥義とは、芸能や武芸における
「奥深いところにある極意」のこと。

奥義の「義」には
「筋を通す」という意味があるから、

ある道を一筋に進んで行ったときに
到達する境地が奥義ということになる。

しかし、それは体験や経験を経ることで
把握されていくものであるが故に、

なかなか語ろうとしても語れず、
頭で考えてもみても分からず、

言葉で説明したところで、
すぐに把握出来るものではない。

文字で書き表すことの出来ない「理外の理」

即ち普通の常識では説明不能な道理であり、
まさに不立文字にして言語道断の密教である。

現代の「言語道断」とは、
言葉に表せないほどあまりにひどいこと。

その語源は仏教用語で、
言葉に表せないほどあまりに尊い境地。

仕事であれ何事であれ、
究めた者しか到達できない境地がある。

「それでは、この「理外の理」をつかまえるにはどうしたらよいかというと、つかまえようと思ってもつかまえられるものではないのである。ただひたすらに行じてみる以外に道はない。

だが、ただ行じるだけではいけない。なぜならば、それでは盲動に終わるからである。眼を閉じて歩けばころぶだけである。眼をあけてひたすら歩くうちに、いつの間にか到達してしまったところ、そこが奥義なのである。」

沖正弘『ヨガ行法と哲学』

「理外の理」に到達するには、

ひたすらに学び、
ひたすらに行じなければならない。

そして、この場合
まず第一に必要なことは

無心で行じ、学び続けることである。

御託を並べるだけでは、少しも近付けない。

だから、学んだら、
それを実際にやってみる。

知ったら、それを活かしてみる。

それも一度や二度ではなく、
繰り返し何度も行う。

学びながら実践し、
実践しながら学びを深める。

そうして毎日修練するうちに
「動ける体」がつくられていく。

まさに習慣化による体得だ。

「真我開発」とは、
体感・体得・体現である。

それは科学的に観れば、
脳の神経細胞がシナプス結合し、

思考と動作が円滑に
行われようになった状態であり、

思考動作が合一となっている。

そこに、
体験・経験を積み重ねた者にしか分からず、

言葉や文字で表すことの出来ない
「理外の理」があるのだ。

「苦労したり、行きづまりにもがいたり、それを打開しようと努力したりしている間におのずから、できあがっていくものが自信である。この自信のもとに更にひたすら進む時、理論や技術を超えた『何か』が見えてくる。

この『何か』こそが全ての道の奥に通じているものであり、これを宇宙の真理という。この『何か』はすべての道の奥に共通して存在しているもの。だからこそ、一道の達人は他道の達人と通じるものがあるのである。

どの道の達人であれ、みな共通して「吾の胸中何物もなく、求める心もない、ただ敬い、ただ受け、ただよろこび、ただ行い、ただまかせるのみ」という。ただ、ただの心、ただの生き方、これがヨガの極意である。

この『何か』をつかまえた者同志は、語らずとも通じるものをもっている。これが真の一如の世界、和合の世界である。この世界では性別も老若も言語の相違もなんらの障りとはならない。この真の和合に達するところに、人間と生まれた者同志としての喜びがあるのである。

沖正弘『ヨガ行法と哲学』

とにかく、ひたすらに学び、
ひたすらに行じなければならない。

実践に際しては、
格好良くやろう、上手くやろうとせず、
力まず無心で取り組むことが心得となる。

そうすれば、
何事も実際に体験しながら
コツを掴もうとする習慣が身に付く。

また、まだ体験していない事や
体験不可能な事に関しても、

これまでの似た近い経験に置き換えながら、
体全体で感じ、体全体で考えようとする

積極的な自分に進化しているはず!

ともかく、
全身をくぐらせた言葉を発しないことには、
誰にも届かない。

朴訥な人でも言葉に重みがあり
心に響くのは体験が深いから。

体験談が説得力を持つ理由も、ここにある。

だからこそ、
学びと体験を積み重ね、

借り物の言葉ではない、
自分の言葉で語ろう
❗️

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