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「火男さんの一生」No.50

            50,
上村吉信は強情に否定し続ける。その上村吉信の顔が日に日に腫れぼったくなっていく。村山は、青木が毎夜、上村吉信を地下の留置場から連れ出し、夜明け近くまで、執拗に取り調べていることを承知していた。
上村の顔を見る限り、顔に痣や殴られて唇が切れたり、内出血の痕は観られない。だが机を挟んで対面する時、上村はほぼ意識朦朧とし、沈黙がほんの数十秒も続けば、座ったまま眠りに落ち、横に居る青木に耳元で怒やしつけられ、椅子を蹴とばされて漸く、目を開ける。
青木は、警察の違法取り調べを糾弾する最近の世論に配慮して、殴る蹴るなど表面的な暴力を使わず、痕跡が残らぬよう指を捩じったり、指や脚の関節を逆にひねったり、気絶する直前まで首を絞めたりして、上村吉信の体を痛め付け、自供を迫る。だが、上村吉信は頑なに犯行を認めようとしない。
早々に身柄を送検しなければならず、その期限が愈々迫る。だが、上村は犯行を否定する。上村の指を切り落とし、その指先に朱肉を付けて、供述書に捺しつけたい衝動に駆られるが、これだけ強情な上村を送検しても、世論の非難を掻き立てるような物騒な物、持ち込んで来やがってと、却って村山が非難を浴びかねない。
拷問は瞬時的には効果がある、とくに一般人にはその効果は大きい。だが常に、殴る殴られるの世界に生きる男にはその効果は薄い。しかし、戦前から日本には伝統的に、優れた拷問術を持つ。中でも、眠らせない、ことが最大に効果を発揮する。上村吉信の様子にその効果ははっきりと表れている、
村山は青木に助言した、
「絶対に、一睡もさせるな」
 
 
 その朝、定時の取り調べに、警官二人に抱えあげられて取調室に連れて来られた上村吉信は、村山と机を挟んで座らされるなり、首が折れるように頭をがくっと机に打ち付け、そのままうつ伏せて、大鼾をかき始めた。青木が上村吉信の片方の耳を掴んで捩じ上げ、その耳元で、青木は
「起きろ」
と怒鳴りつけた。
 漸く重い瞼を開けた上村、村山の顔を見て、にやりと、横に逸れた口を開けて微笑んだ、ように見えた、いつもよりその口が横に引き攣っているように村山には見えた。そのまま吉村は、こんにゃくのようにぐにゃりと机から床に崩れ落ちた。大鼾は止まない。
 青木が、胸倉を掴んで起こそうとした時、上村の体がてんかん症状のように痙攣し、遂に硬直して動かなくなった。仰向けた顔は、横に逸れた口が更に耳の所まで引き攣り、目は白目をむいて、上村は意識を失っていた。
 村山は、床に仰向けた上村吉信の顔を見下ろしながら思った、いっそのこと、このまま死んでくれた方が村山には余程好都合だった。
村山が未だ新人の頃、戦中、戦後の十数年間、取り調べの最中に、村山の目の前で、いきなりに心臓発作を起こしてそのまま息を引き取った容疑者、被疑者は何人かはいる。何れも先輩刑事達から連日連夜、激しく拷問を受け、強情にも決して犯行を認めようとしない男達程、この症状に襲われた、男達は、心臓発作、脳出血で廃人となるか、棺桶に入れて送り出されて行った。
男達の死体には、男達の最後の様子が記録された文書が添付されていた、被疑者は、愈々否定出来ない真実を、そしてそれを証する決定的な証拠を突きつけられ、遂に精魂尽き果てて観念し、自供書に自ら拇印を捺して、全ての犯行を認めた、と。
戦後、時代は変わった、法律も変わった、だがこの手法は未だに、取り調べ警官の常套手段として全国津々浦々、何処の警察署でも重宝されている。
被疑者の急死の理由など何とでもつけられる、遺体に添付された供述書が、新刑訴法施行以降でも、余程世間の注目を浴びた事件以外で、裁判所から突っ返された例はただの一度もない。
ただし、これは全て被疑者の死亡が医師の診断により確実となった場合、でのみこのやり方は有効である。上村吉信の場合は、どうか?床に倒れたまま、ピクリとも動かない、意識も無い、だが脈はまだ微かにある。
青木は村山の顔を見た、村山は顔を背けた、青木は、にやりと笑い、上村吉信を床に寝かせたまま放置して二人は取調室に鍵を掛けて出て行った。
1時間後、2時間後、二人は様子を窺いに来た、微かにだが上村吉信の呼吸音は聞こえる。気のせいか、顔に血の気が戻ってきたように少し赤味を帯びている。
村山は、やはり内心では新刑訴法を畏れていた。昔なら、被疑者が死ぬまで、横で一杯飲みながら待つことも出来た。だが新刑訴法は、被疑者への暴行を厳しく禁じており、それでも昔気質の刑事達は好き放題、やりたい放題に被疑者を痛め付けて自供を得た。だが被疑者は、付き添いの弁護士に唆されて、公判開始早々裁判長に向かって、自供は激しい暴力を受けて無理やり供述させられたものだと泣いて訴え、その涙声に新聞記者が飛びつき、担当警官は「冤罪」だと、それこそペンの暴力に晒され、本人は勿論、無垢の家族全員、世間から白い目に晒されて遂にはどこかへ逃げて行く、そんなニュースを時に聞く。 
こんなご時勢に、村山には元から全身全霊で抗う勇気はない、全て我が身の保全、家族の安全、そして我が将来の確保が最優先である。
留置所に収監した被疑者の健康保持は、警察の責務であると新法は厳しく規定し、被収監者の医療、健康保持に警察は責任を負うべしと新法は定めている。
村山は、夜中になって苦渋の決断した、救急車を呼ぶことにした。青木が、机の上の朱肉を取り、村山に向かい、指を押し付ける真似をして見せた、村山は暫く考えていたが、苦虫噛んだような顔をして首を振った。
上村吉信は救急車で町の診療所に担ぎ込まれ、山代医師の診断を受けて、上村吉信はそのまま入院することになった。裁判所は上村吉信に対する拘留執行の停止を決定した。
 

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