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「火男さんの一生」No.56

           56,
 あれから、十数年、初めの頃こそ、公判結果、有罪無罪の判決に気を揉んでいた鹿木だったが、懲役刑判決が下されて以後、特にこの数年は、何かの折にふと、当時のことをちらと想い出す程度で、普段は、県会議員として、また定信から受け継いだ事業の一つ製材業も漸く軌道に乗り、扱い品も増えて、今流行りの建材センターにして、十数人の社員を雇い入れ、また個人的には議員事務所に2人の秘書も常駐させる程になっていた。町会議員、そして県議会議員へと、鹿木の立候補は、地元の人たちから、旧領主への想いと応援を受けて予想外に大賞することが出来た。次の国政選挙に、との話も持ち上がっている。
 
 鹿木は、封筒を持ったまま、墓地の辺りまで魂が抜けた人のように歩いて来て、小さな林を抜けて木の間から目の前に広がる湾の景色を眺めた。
しかし、鹿木の目には、湾内の、海原に点在して浮かぶ小島の景色、行き交う小さな漁船もまるで何も見えていなかった。
(吉信が、未だ生きていた…)
そのことに鹿木の頭の中は占められて、他に何も考えられなくなっていた。
(吉信が、生きていた…)
吉信は警察に拘留され、取り調べ中に脳梗塞を起こして意識不明となり、病院に担ぎ込まれた。死には至らなかったが、体を動かす機能を全て失い、廃人状態となっていたが、懸命の治療で多少でも意志を表現できるようになったとして吉信は退院、そしてそのまま身柄は送検され、由美子殺しを本人が認めて、そのまま収監された。
 一時期、吉信の脳梗塞発症は警察の違法な取り調べが原因とされ、新聞を賑わせていたが、本人の退院、また本人自ら調書に署名したと証明されて、取り調べた側には何のお咎めもなかった。
 何よりも鹿木は、吉信の自供を知って安堵した。そして、時に入院中の吉信を見舞いに行った町の診療所の山代医師に訊けば、あの症状では、まして多少てんかん症も患う吉信が、過酷な刑務所生活で次にひきつけを起こした時には命は持つまいとの診断を聞いて、鹿木は安心し切っていた。
 以来、何の音沙汰もなく十数年が過ぎ、鹿木は吉信の死を信じ切っていたのだった。だが、その吉信から突然の手紙…
 
 鹿木の手は震えて止まなかった。吉信は、鹿木に会いたい、と云う、合って謝りたいと云う。十数年前の、吉信の顔を思い出す、あの、やくざ者特有の、ひとを蔑むあの目が思い出される。あの、人ではないあの目が、たった十数年の刑務所暮らしで矯正されるとは思えない。
 会いたい、会って謝りたい、そんな言葉を鹿木は信じる気には到底なれなかった…何か、意図がある。絶対何か意図がある…それは何か…?
 吉信が、鹿木に会いたい理由は、謝りたい、からでは決してない、吉信が鹿木に会いたい理由はたった一つ…
 その理由を吉信は、二人にしか判らぬ言葉で、鹿木に自分が今何を考えているかを伝えて来た。
俳号「水筒の水」、まさにそれだった。
鹿木は証拠品を揃え、それにたっぷりと匂い付けし、それらをひとまとめにして警察の目につき易い場所に埋めた。警察は、餌の匂いにつられた犬のように、穴に隠した証拠品を掘り当てて、全てそれら証拠品が吉信の犯行を裏付けて遂に吉信を逮捕した。
 だが、吉信は頑なに否認していた。当然だった。あの夜、由美子に農薬を飲ませて殺したのはこの俺だった。本当はその場で二人を一気に殺してしまいたかった。だが、そんなことをすれば、島の、一つ屋根の下で暮らすのは他に鹿木しかいない、真っ先に鹿木が疑われるのは目に見えている。
 鹿木が当初樹てた計画は、初めに、吉信と定信の娘三人を事故を偽装して殺し、残った由美子をその後で殺す、ことだった。だが、吉信が、奇跡的にあの事故で死ななかったことで鹿木の計画は修正を余儀なくされた。
 由美子を殺し、吉信をその犯人に仕立てることにした、鹿木の係わりを絶対誰にも疑われてはならなかった。
 そして警察は鹿木の思惑通り、吉信に狙いを定め、鹿木が用意した証拠品に操られて、遂に吉信を逮捕した。そしておまけに、吉信に加えた拷問で、吉信は脳梗塞を発症、体も動かせぬ、ものも云えない廃人となって、鹿木を安堵、させた。
 だが、あれから十数年経って、予想もしなかった難儀が鹿木に降りかかってきた、吉信が未だ生きていた、そして鹿木に会いたいと手紙を書いてよこしてきた、のだ。しかも、その手紙の最後に、
(俳句を始めた、すっかりハメられたと伝え、その号を「水筒の水」とした)
と教えてきた。
「水筒の水」、この一言で吉信は、(何もかも)俺には判っていると鹿木に伝え、そしてわざわざそこだけカタカナで、ハメられた、とまで書いている。
(なにもかも)
とは、全ては鹿木の仕業であり、
(ハメられた)
とは、全ては鹿木が仕組み、俺は鹿木に嵌められた、そのことを水筒の中に残った水が俺の無実を証明してくれる、その水筒を俺は隠し持っていると鹿木に伝えている…

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