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「火男さんの一生」No.53

 
             53,
 ふと、吉信の脳裏に、青木がアホの一つ覚えに何度も繰り返した台詞が思い出された、
「鼻を抓まれても誰か判らないあの真っ暗闇の中で…」
この言葉が、実際、あの真っ暗闇の中で、しかも横に吉信が寝ている部屋で、誰にも気付かれずあの部屋に侵入し、寝ている由美子の口に、農薬を入れることが出来る者が一人、確実に居ることを示唆している。
 あの夜、そうや、俺は酒を飲んだ。普段は先ず飲まない。訳が有る、子供の頃、軽いてんかん症状が出て、その時医者に云われた、大人になっても酒は飲むな、と厳しく云われた。ましてこの薬を飲んだ時は絶対飲むな、副作用でひどい眠気に襲われ、体がふらついて立っていられなくなる、と警告されたことを子供心に身に染みて覚えている。
 だが、あの夜は、軽くだが飲んだ。鹿木が、宵の口に珍しく二人の部屋に訪ねて来た、土産物で貰った地酒がある、一口でも飲み、と置いていった。
それを由美子が寝る前に一口飲んだ、当時、二人には殆ど会話はなかった、物云えば互いを雌犬、畜生と罵り合った。だが、酒の酔いがあってか、由美子が云った、
「ごめん、な、あんた、うち、いつもあんたに文句ばっか、云うてる、自分でもほんま、嫌になってんね」
としおらしいことを云った、その言葉にほだされて、吉信も一口、飲んだ、一気に心地よく酔った、そのまま眠りに落ちた。
 鶏が、喉を絞められて鳴くような、ギエーと云う声で目が覚めた。漆黒の闇、辺りを見回した吉信は、強烈な、卵の腐ったような匂いに激しく咳込んだ。立ち上がって真上にぶら下がった電灯のスイッチを捻る。
 布団の上で、由美子が、やや厚手の浴衣から胸の両の乳房を丸出しに、脚の腿を、掛けた布団からはみ出して仰向けていた。目は大きく見開き、起きているのかと顔を覗き込むと、目は白目をむき、口の周りに、春先のたんぼの畔の蛙のような、真っ白な泡を溜めていた。
 口の周りに付いた泡から卵の腐ったような匂い、あの時、吉信はふと、これと同じ匂い、何処かで…確かに、何処かで。
 だが、吉信は気が動転し、事態は急を要した、こんな女、死ぬんなら勝手に死ねばいい、と思ったが、眠りにつく前の、由美子の云った一言が思い出された、
「ごめん、な、あんた、うち、いつもあんたに…自分でもほんま、嫌になってんね」
吉信は鹿木の部屋へ駈け込んで急を告げた。
 
 そうや、あの匂い、思い出した、
吉信は愛車スカイラインの後ろに子供二人を乗せ、海岸線に沿った国道を、左手に遠く、夕陽に染まった水平線を見ながら、唸りを上げて飛ばしていた。
 喉が渇いた、助手席に、出掛けに鹿木が渡してくれた、兵隊用の古めかしい水筒を置いてある、速度そのまま、手を伸ばし、水筒を掴み、両肘でハンドルを押さえ、水筒の栓を回し、飲み口を口に咥えた瞬間、腐った卵を撒き散らしたような強烈な匂いに顔を包まれ、一瞬、気を失い、次の瞬間、気が付けば車は宙を飛び、頭から磯の岩場に突っ込む寸前、だった…
 事故の衝撃で、そのこと全てを忘れてしまっていた、いや、自分は、あの時、子供の頃から偶に発症するてんかんの発作に襲われたものと思い込んでいた。
 今、はっきりと吉信は思い出した、あの水筒の水、口に入れた瞬間、気を失う程の悪臭に塗れたが、その時のあの匂いは、由美子の口に溢れた泡の匂いと同じ、ものだった。鹿木があの水筒に農薬を入れ、それを俺に飲ませようとした…
 
 あの、水筒、あの後どうなった?そうや、思い出した、俺は宙に浮いた車から、道端のコンクリートブロックにぶつかった衝撃でドアが壊れて開いていたか、俺は車から放り出された。俺は、岩の間の潮だまりに落ちた、その上に、吉信の頭の真上に車が落ちて来る、だが車は岩と岩に挟まれ、俺の頭にぶつかる寸でのところで止まった。
 俺は岩の間から這い出した、ふと汐に、水筒が浮かんで漂っていた、古めかしい水筒、俺は何気に、その水筒を掴んで、岩の凹みに押し込んだ、何故そんなことしたのか判らない。
 ここまで考えて、一つの結論が見えてくる、あの鹿木、事故に見せかけて俺や、末の富子は偶々体の具合が悪くなって命拾いをしたが、定信の娘三人を殺そうとした、それに由美子に毒を飲ませて殺し、由美子殺しを俺の仕業のように仕組んだ…?
 そうや、あの水筒見つければ、鹿木が俺を殺そうとしたことが証明出来る。いや、この俺だけではない、由美子にも、同じ毒飲ませて殺したんはあの鹿木やと証明出来る。
 そうや、吉信は更に思い出した、由美子が毒飲まされて死んだ前の日、鹿木は何を思ったか、誰かの貰いものだと云って酒を持って来た、あんなこと初めてのことだった。あれは、酒に弱い俺を眠らせて、その間に由美子に農薬を飲ませる為に持って来た…
 青木が並べて、これが証拠や、観念せえ、と見せた証拠品、雨靴も、牛乳瓶も、それに鹿木なら、俺が注射器を何処に棄てていたのか知っている筈、その証拠品をわざわざ、由美子の墓のすぐ近くに穴掘って埋めて、あの鹿木、誰にも見つけやすいように細工したんや。
 一事が万事、全てが鹿木の仕業に繋がって来る…
 

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