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人が自らを変人だと感じるようになる過程について考えてみた

こんにちは。学部長の谷村です。

とあるインターネットメデイアの調査記事で、「自分は他人と比べて変わっていると思っている人の方が過半数である」と書かれていた。
同調圧力が強いとされる日本社会において、「自分は普通だ、凡人だ」と認識している人が多いのではと感じていたのでこの結果は意外だった。
このことは、人々が無理をして自らの変人さを押し隠していることの表れかもしれない。

記事では、自分自身を「変人」だと感じている人に対して「自分を他人とは違った特別な存在だと勘違いしている残念な人で、たいがいはたいしたことがない」というネガティブな論調だった。だが、必ずしもそうではないのではないだろうか。

自分自身を「変人」だと感じている人に話を聞いてみたところ、自身が変人だと感じるようになったのは、小学校や中学校などの義務教育の時期が多かった。また、学校生活の中で、周囲になじめない、息苦しさを感じた、という人が多かった。その中で、「自分は変なのではないだろうか」と悩んだり、「お前変なやつだな」と直接的に言われたりという経験をしていた。そして、その苦しさを乗り越える中で、変である自分をポジティブに解釈し、変人であることをアイデンティティとして感じるようになっていったようだった。

また、自分自身を「変人」だと感じていない人も、前述のエピソードを聞くうちに、自分自身が学生時代に周囲になじめず苦しんだ過去を思い出し、いまだに当時の苦しみを引きずっている自分は変人アイデンティティを獲得する途上にいるのかもしれないと感じていた。

一方で、自分を変人だと感じているものの、以前ほど意識する機会が少ないという方もいた。その方は、現在シェアハウスに住んでおり、入居者はみな個性豊かなメンバーとのこと。そしてお互いの変人さを楽しみ、リスペクトしているという。そんなメンバーと過ごすうちに、自分をそこまで強く変人だと意識することがなくなったと言っていた。

ここまでの話から考えたことは、変人自認は環境に大きく影響を受けるのではないかという仮説だ。変人だと自覚する課程において、周囲との関係が大きく影響していたように、その人が所属している集団においてマジョリティや平均・普通とされるものとの距離が離れれば離れるほど変人だと感じるのではないだろうか。そういった意味で変人とは相対的なものなのかもしれない。

また、相対的な作用によって変人自認を身につけ、そのアイデンティティが強化されることによって、周囲との比較に左右されない絶対的な変人自認を身につけるようになるのではと思う。前述のシェアハウスの例だが、それぞれが変人自認を持ちながらも、すでに絶対的な変人自認を確立させているため、相対的な変人自認を持つ人に必要な「周囲との差」が不要となるのだと思う。

図で示すと下記のようなイメージだ。2つのパターンを想定している。まずは図A。自らが所属するコミュニティの中での中心(マジョリティ・普通・平均)からの距離によって変人自認が生じる。この距離は当然ながら個人差がある。そして、相対的な変人自認が強化される中で、図Aの世界から抜け出て、図Bに移る。ここでは、中心と周縁という円上ではなく、個々人が点で捉えられている。それぞれが絶対的な変人自認を持っている。図Bの世界から図Aに戻るなど行き来するケースもあり得ると思う。

イメージ図A

イメージ図B

とまあここまで書いてきたがあくまで仮説の域を出ないので、アンケート調査などを行って今後裏付けを取っていけたらいいなあと思っている。

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