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変人と許容範囲について

こんにちは。
学部長の谷村です。
「殺人犯って変人に該当しますか?」という質問があり、非常に本質的な議論だと感じました。
そこで、今回は変人と許容範囲について考えました。


多様性やダイバーシティの尊重が叫ばれる昨今。「みんな違ってみんないい」という金子みすゞさんの詩の一節がよく引用される。
そんな中で、変人が暮らしやすい社会づくりは多様性の尊重の最たるものだと考えている。

変人学部では、すべての人が変人としての可能性を持っていると考えている。
世間でも、人々の持つ多様性について理解を深める目的で、様々なワークショップやセミナーなどが開催されている。その中では、例えば同じ日本人どうしでも、地域や世代によって多様な文化や価値観があることを知り、その違いに楽しむ内容のものも少なくない。このように、それぞれ育った環境に影響を受けながら多様な文化や価値観を持つ変人として人格形成していく。
そのそれぞれの変人性をなにかに邪魔されることなく発揮でき、それが尊重される社会になると、大変おもしろく、幸福度が高い社会になりそうな気がする。

だが、変人がそれぞれの個性を遺憾なく発揮した場合に、トラブルや問題は起きないのだろうか?
例えば、あなたの隣人が、「毎日深夜2時になると5分間にわたって叫び続ける」という習慣を持つ人だったとする。
そのせいであなたが夜なかなか眠れかったとすると、「みんな違ってみんないい」なんて言っている余裕はないだろう。
もっと極端な例を言うと、「未就学児を残忍な方法で殺害すること」を趣味とする人がいたとして、そのような人に対しても、「みんな違ってみんないい」と思える方はさすがにいないのではないだろうか。

どうも変人といっても許容範囲があるようだ。そしてきっとそれは人によって範囲は変わりうるだろう。

なぜ許せないのか?許せないものの背景を探ると、大きく3つのパターンがありそうだ。

一つ目は、直接自身が被害を受ける(可能性がある)もの。さきほどの例の夜間に奇声を発する隣人や、「遅刻をしても問題ない」という価値観を持った人がいたとして、あなたに不眠症状が出たり、不測のスケジュール変更が発生した場合が当てはまるだろう。

二つ目は、直接の被害はないが、心理的安全性を害される(可能性がある)もの。さきほどの殺人犯の例や、「電車には上半身裸で乗車するべきだ」という異なる道徳的価値観を持つ人がいたとして、自らが殺害されたり、上半身裸で乗車を強要されたわけではないが、これに対して許せないと感じる例が当てはまるだろう。
直接の被害がないにも関わらず、自分の正義や価値観などを否定する行為を行う人が自分の認知範囲に存在することが心理的安全性を害するので、それを必死になって否定しようとすることがその感情の背景なのではないだろうか。

三つ目は嫉妬からくるもの。例えば今年の緊急事態宣言が発令されていた期間において、外食をしていた人がSNSで炎上したケースがあった。これは、二つ目の心理的安全性に対する危害が背景となっている人もいるかと思うが、一方で「自分は我慢しているのにあいつだけずるい」といった嫉妬を背景として「許せない」という気持ちを持った人も少なくないだろう。これは同様に、列への割り込み者への抗議など、様々なケースが想定される。

これら3つを考えたときに、実は絶対的に悪人な変人はいないことに気づく。これらの背景は人によっては許せないが、人によっては許せるという大変相対的なものだ。「え、殺人犯も?」と思うかもしれないが、戦争中に敵国の軍人を殺した人は英雄になる。自分が恨んでいる人を殺してくれたとしたら利害関係にある人にとっては喜ばしいことかもしれない。
そのため、殺人犯であっても、変人であるというのが最初の質問への回答になる。変人学部では、人が持つ変人としての習性に対しての価値判断をあえて放棄している。なぜなら、繰り返しになるが、価値判断は相対的なものになってしまうからだ。

では変人がともに生きる社会は成り立たないのか?
ここでポイントになることは、ともに生きることは相手に共感することではないということだと思う。
共に生きるために相手を理解し共感しないといけないと思い込んでいる方が意外と多いような気がする。
でも、極端に言うと、凶悪殺人犯の価値観を理解し共感することはなかなか難しい。
大切なのは、相手の存在を否定せず、相手がなぜそのような行為をしたのか、そのような考えに至ったのかを考えてみるという姿勢だと思う。あくまで考えてみるだけ。理解したり共感したりする必要はない。
そもそも自分以外の他人の考えを完全に理解したり共感したりすることは不可能だ。
だが、考えてみることが、暴力や単なる非難の応酬ではなく、言葉による議論によってその違いの間を埋める取り組みが始まると思う。

私たち変人学部では変人に対して価値判断をしない。いい変人とか、悪い変人とかはいないというスタンスだ。
その場合、ある人にとって許容範囲外となる変人についてどう考えたらいいのか?
もちろん価値判断をしないことが犯罪を許容するという意味ではない。議論によって何を許容しないのか、なぜ許容しないのか、そしてそれに対してどうルールを作っていくのかも常に問われ続けなければならないことだと思う。
では、コミュニケーションをとることができない人はどうなのか?まだ事理弁識能力のない赤ちゃんなどはどうなるのか?など、まだまだここから出てくる論点は数多くありそうだ。
ぜひみなさんも一緒に考えていただけたら嬉しい。

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