「カッコーの巣の上で」から”自由”を考える

元々、ある人に紹介されていた映画。
それ以降も、いわゆる名作選に必ず入っているため、いつか観たいと思っていた。なかなかタイミング取れなかったが、21年度最初の映画として選んだ。

以下、ネタバレありますので、要注意 


ストーリーとしては、精神病院に閉じ込められた1人の男が、先に精神病院で無気力になっている男たちを巻き込んで、ヤンチャをしながら自由を求めて闘っていく。
しかし、結局最後にはロボトミー手術で廃人化されてしまったというもの。


”自由”とは何なのか。

いつでも、やりたいときにやりたいことができることが”自由”なのか。
それとも、責任を持って規律に従って行く中で、得られるものが”自由”なのか。

我々は、教育によって後者で教えられる。
そのために、この映画でも規律でなんとかしようとする婦長に対して、敵役ながら同情してしまう。

誰かにとっての”自由”が、他の人にとって”自由”でない場合に、どちらを認めるのかは、法や条例などで決められるべきだから。


今、我々が対面している新型コロナも、正しく同じだろう。
感染者数を抑えるために何とか抑制したい行政と、そろそろ抑圧に耐えかねて自分だけならと発散してしまう民衆。
もちろん、前者が正しいのは間違いないが、自分自身を顧みても後者を完全に否定することはできない。

たった1つの答えは、お互いに相手を理解しようと努力すること。
行政は”統計”で表される数値だと思って抑制策を考えてはいけないし、民衆も”法律・条例”といった非人間的なものではなく、それを定めているのはやはり人だということ。

そのためには、正しい情報が必要だし、それ以上に対話が必要ではないだろうか。

アドラー心理学によると、人は「共同体へ貢献していること=自らの価値を実感」するのだという。
そんな価値を多くの人が自分自身に感じられることで、”自粛”とか”発散”とか無く、お互いに協力して今の危機を乗り切っていけないだろうか。

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