トリック・アートの気まぐれなつぶやき~歴史を斜めに読み解く 其の⑦豊臣秀吉の本当の偉さとは?

今回は戦国の三英傑の豊臣秀吉と徳川家康について2回に分けてみていきたいと思います。
さて、本能寺後の「山崎の戦い、賤ケ岳の戦い」でライバルを倒し、天下人としての地位を万全にした秀吉ですが、彼の偉さとしてトリックアートは以下のことを挙げたいと考えます。

①「おね」→「北の万所」を正妻として娶っていたこと。女性の社会参加と地位向上の礎。
②征夷大将軍への就任をあっさりあきらめて、天皇の臣下 順位第一位である関白職に就いたこと。一種のプロレリアート革命の先駆。
③刀狩令に並行して関白命で「惣無事令」を全国に発給したこと。これで国内から内戦・私闘は消滅し200年以上続いた戦国乱世時代から平和国家時代へ移行を促した。
④海上に「海賊禁止令」(停止令)を関白命で発給したこと。500年以上続い

倭寇の終焉につながる。
⑤日本史上初の本格貨幣鋳造である「天正大判」を発行したこと。貨幣経済の発生。
⑥「太閤検地」を全国で実施し、経済価値としての「土地石高」の概念を把握・統制したこと。GDPの見えるかになった。
⑦勇気をもって、「伴天連追放令」を発給したこと。東洋人の人身売買の廃止・奴隷解放につながった。


以上の7つを挙げたいと思います。
反対に彼の負の側面としては
①晩年の極端な淀君・秀頼愛護偏重のあまり、貴重な譜代大名や身内親族の冷遇・粛清を断行したこと。結果的に羽柴・豊臣家の滅亡を早めることになった。
②果てしない征服欲での無謀な「朝鮮の役」「民帝国への侵攻」を強行したこと。ただし悪だけとは言えない側面あり。
の2点でしょう。
だだし、②については、秀吉の私欲・征服欲というよりは、彼の「明へのあこがれ」が要因と考えます。
つまり、中国4000年の長い歴史の中で、農民・貧民層から帝王になったものはたった二人しかおりません。それは漢帝国創始者・高祖「劉邦」と明帝国創始者・太祖「洪武帝」だけです。このうち厳密にいうと劉邦は貧民・農民層というより「任侠の人」なので、明らかに「貧農」であるのは洪武帝のみということになります。このことで、正に貧民層出身の秀吉は若くより、「洪武帝」に親しみというよりあこがれを持っており天下人として日本統一を成しえた時、洪武帝を超えたいとの想いに傾き、そのために明を制服して明全国に秀吉が「惣無事令」を引き、明国内から内戦を無くすことで洪武帝へのトリビュートを昇華したいと考えた結果であると考えます。同時に元国を中原から駆逐した明に報いる(つまりは元寇によって日本を凌辱した元への復讐を達成する)ことになります。結果的に当時の明皇帝が、
幸いにして洪武帝や永楽帝のような器量がなく、日本への「明寇」を招かずにすみましたが、一歩間違えば大変な事態に発展しかねない、危険で無謀な渡海侵攻になり、同時に豊臣政権の財政崩壊・人心の退廃につながり、無益な戦であったとは思います。


さて順番に細かく見てゆきましょう。
①については、現代の高台寺の大変な人気を見てもあきらかなように、おね→「北政所」への現代女性のトリビュートがいかに大きいかお分かりでしょう。500年の年月を経ても彼女の生き様の輝きは変わらず、全ての女性に社会参加の勇気と自信を与え続けている、日本の戦国が生んだ本当に偉大な女性人権家であることは異論はないでしょう。勿論、当人は自分がそのような存在であることは,全く自覚も意識もしてないし、後世からそのような評価を受けうようとは全く想いもよらなかったでしょう。その彼女を正妻として見初めた秀吉もまた大いに評価されてしかるべしと思います。
あの織田信長から一家臣武将の妻への丁寧で気遣いのある、有名な手紙を書かせるほどのデキル女性は日本史上存在したでしょうか?その評価は日本人にとどまらず、あのイエズス会の宣教師ルイス・フロイスも本国への報告の中で、
「関白殿下夫人の女王である、彼女は,異教の神を信じる異教徒(仏教徒)ではあるが、大変な人格者で、彼女に頼めば大抵のことは叶えられる。また異国人や宣教師に対しても分け隔てなく食事を与え、保護し敬愛と慈悲を持って接してくださる。」と特に日本の異教徒大名への辛辣な評価とは全く別の高評価をしている。また聚楽第行幸時の彼女の丁寧な接待に非常な感銘を受けた後陽成天皇から女性として破格の「従一位 北政所 豊臣吉子」の官位を与えられております。(秀吉の実母である大政所なかも、秀吉の関白就任時に従一位の官位を得ております)また余談として、彼女の通称「北政所」(最初は「従三位 北政所」)は関白就任者の正妻に与えられる称号で、歴史上、彼女以外に何人も存在したはずですが、余りに「おね」=北政所のイメージが大きすぎて「北政所」と言えば彼女のことをさす所謂「言霊」として定着しております。その煽りを食った形となったのが、以前お話した、山崎の戦いの直前、秀吉と池田恒興との間で交わされた縁組の羽柴秀次を婿養子として迎えた恒興の息女ですが、後に夫秀次が秀吉から、関白職を禅譲されたことで、関白正妻=「北政所」を称する権利を有しますが、余りにおねの存在が大きく、遂に終生名乗ることかなわず、しかたなく代わりに「若政所」で通した、という顛末があります。


②については
さすがに、プロレリアート革命とは大げさでしょうが、勿論その当時こういう思想
自体存在せず、世界を見ても、19世紀のマルクス・エンゲルス理論の確立まで待たなくてはなりませんが、最下層貧農出身である彼が下層武家から一気に、実質支配者層であった,高・中級公家衆・各武家大名衆・寺社支配衆を飛び越して、それらの頂点に立った、天正十三年は一種の階層逆転が出現したのは事実です。

織田家一家臣の羽柴秀吉が柴田勝家を「越前北ノ庄城」で「お市の方」ともども葬った後、徳川家康との小牧・長久手の戦いを、織田信雄との単独講和により一時の収拾を見て、実質上「天下人」となって、九州中四国以外の尾張から越前以西をほぼ手中にした段階で、自身は当初征夷大将軍就任を所望したようですが、三職就任の必要条件である、源・平・藤・橘の出自を満たしていないことで、前征夷大将軍である、足利義昭の養子になることで、解決しようとしますが、あっさり義昭から拒否されて、窮しますが、朝廷より右大臣就任ならば・・・と提案受けましたが、これをあっさり「縁起が悪い」と蹴ります。つまり信長が前右大臣で死去したからでしょうか。、実質の天下人である秀吉にふさわしい官位をと朝廷内も大混乱したようですが、結果的には以外や以外、「関白就任」となります。

これは「太閤」近衛前久が秀吉を一旦自身の養子として受け入れて羽柴秀吉から藤原秀吉となったことで実現します。これには当時の藤原氏内の氏長者をめぐる抗争があったことが彼に幸いします。これを秀吉が快諾し「関白秀吉」が誕生します。その後に新たな「豊臣」という姓も下賜されます。結果的に秀吉が願った「関白」につくことが叶いました。研究者によっては、彼がやむなく関白に甘んじた。という主張もありますが、トリックアートは、関白を望んだのは、彼自身と考えます。


征夷大将軍は確かに武家の棟梁であり、トップですが、関白職は公家・武家・寺社のトップであり、天皇の次席であり、代行でもあります。ここに大きい意味があります。


つまり関白命に逆らうことは、すなわち、天皇・朝廷に逆らうのと同等であり、即「逆族」「朝敵」となることを意味します。この「朝敵」という言霊を秀吉は最大限に活用したかったと思います。それが次の③④以下に関わってきます。


③④について
まず刀狩令ですが、これは秀吉に限ったものではなく、古くは釜倉執権の北条泰時
らや、織田信長・島津氏なども領内で施行しており、決して珍しいものではありません。つまりは、領地農工民・寺社勢力の武装解除を名目とした半戦闘員のワグネル化とでもいえましょうか。この時代、農耕民は殆どが半農半兵であり、上杉氏や武田氏はじめ多数の戦国大名はこの問題に常に悩まされておりました。つまりは年中・年柄自由に出兵戦闘できるわけではなく種まき・田植え・草取・収穫・刈り取り等、農重要イヴェント時には兵を引き上げるか、戦闘中止しての帰農が必須条件でありました。たとえ、あと一歩で落城寸前の戦いでも放棄せざるをえなかったのです。それにいち早く対応し手をうったのが織田信長です。従来からの権威・伝統・慣習を極端に嫌う冷酷なまでの現実主義者であった彼は,職業としての専門戦闘員化を自分の軍団に適用することによって自らの理想・目標である「天下布武」を達成しようと考えます。結果半農・半兵であった自国領内の農工民層を年中戦える専門軍人として鍛え・育成・編成します。各個人の戦闘能力は他の浅井・朝倉軍団や武田軍団よりは劣っていたかもしれませんが、軍団としては彼らを圧倒していくことになります。たちまち全国の四分の一の領地を獲得して天下人として君臨することができました。信長の刀狩りのねらいは、強固な鉄鋼船の建造目的であろうという研究者もおられますが、やはりワグネル化説を私はとります。それに引き換え秀吉の刀狩りは「惣無事令」とセットにして、彼の平和主義=「この日本から戦争を無くす」という理想・大目標に沿ったものであります。これは長年の戦国の争乱により一番みじめで、被害を被ってきた農民貧民層出身の彼だからこそ実感としてあたためてきた夢・理想でした。
④は言い換えれば「海上版惣無事令」とでもいえましょうか。朝鮮海峡~日本海・瀬戸内海・日本周辺海域に長年蔓延っていた海賊・略奪集団の武装放棄と私闘禁止命令です。
この頃の海賊に関しては、失業武士・一向宗一揆衆・漁業・ガードマン的な輸送業民も混在していましたので、武装解除の上、帰寺・帰水産業・帰輸送業するか、豊臣政権内に家臣団として大人しく属するかの2者択一を迫りました。このあたりの極めて柔軟なソフトランディング的手法がいかにも秀吉らしい無益無謀な殺戮を嫌う長所であります。逆らうもの全て皆殺しの信長の手法とは一線を画すものでしょう。このソフトランディング手法のおかげで、平安末期から長年に渡り朝鮮半島・九州の沿岸漁業民はじめ日本海を横断する輸送・貿易交通を苦しめてきたあの足利義満でさえ成しえなかった、倭寇集団が完全消滅したことは重大な果報であります。
⑤については、貨幣経済の誕生とまでとは申せませんが、長年、中国製の悪質な流通鋳造銭しか知らなかった、日本人にとって、高品質の本格的な自国貨幣鋳造は画期的ではありました。でもあくまで、この天正大判は秀吉の派手好みとリンクして、大きすぎて、流通貨幣としてよりも、臣従臣下への下賜目的、敵対大名への内応調略用等のいわゆる宝飾用・デモンストレーション目的として鋳造したに過ぎません。本格的貨幣流通実現は次世代の徳川家康まで待たなくてはいけませんでした。 

⑥は古く律令制以来の墾田私有地・公有地・荘園と非常に複雑で混沌としていた国内の土地所有権・価値基準を明確化・規格統一化を初めて法令によって統制した画期的な出来事です。これによって、全国大名達の領地国力・民力(GDP)兵力が初めて中央で把握出来、それに応じての兵力負担量(およそ1万石当たり300人程度)・納税量が全国一率で公平統一規格化できました。後の徳川幕府の大名支配に非常に役立ったと思われます。

⑦は全ての来日布教ゆき
イエズス会牧師達がそうであったとは申せませんが、コロンブスの新大陸発見より100年(ちなみに北米大陸を最初に発見したのは彼ではなく、これより数世紀前に北欧ヴァイキングのはぐれ一派が既に発見・到達・移住しております。)が経過し、おりしも大航海時代の真っただ中であり、既にグーテンベルグ達の活版印刷技術が発明確立され本格的な産業革命到来前夜でもあったこの日本戦国末期時代は欧州列強各国支配層からの旺盛な奴隷・召使い・下働き調達要求に答える必要もあったと思われます。特に従順・寡黙・勤勉で小柄ではあるもののテキパキと動ける日本・朝鮮の子女達は誤解を承知で申せば特にプレミアム需要度高く商品価値も高かったと思われます。それゆえ特に彼らは東アジアにキリスト教布教と称して大量に押し寄せて来訪していたのでしょうか?勿論莫大な貿易利益獲得目的もあったと思われますが、布教の点で申せば昔より期待された景教の布教発展が唐時代をピークに徐々に衰退しており、さらにマニ教・イスラム教・仏教等と複雑に合体・習合を繰り返して元の形とは全く乖離しておりこれ以上の布教発展は望めない状況が、さらに彼らを布教活動から人身漁りへと駆り立てたものと思われます。そのような子女達の人身売買・人あさりを立場上看過出来なくなった秀吉が発給したのが「伴天連追放令」であり、決してキリスト教弾圧・圧迫ではありません。あくまで人道上の目的であったのでした。
                     この項終わり


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