私の時間は他人の湯水ではない

一緒に居て心地良いと感じる友達の共通項として
【とにかく他人に期待していない】
があって

こういった友達は、私が成功しようと失敗しようと1ミリも関係性が崩れない
だから私は安心して好きな事ができる

明確に『全ての人間は例外なく他人』と認識できていて
自分の意見は、自分の視点は、当然友達なら共有出来てるでしょ?なんてエゴは存在していない


私はある程度、他人の思考を察する能力は持ち合わせていて
(この人は今こう言って欲しいんだろうな)と感じたら「要はこういうこと?」とすぐに言ってしまう

脳みそがせっかちなので
数式の途中で答えがわかっているのに
全ての数式を黒板に書き終えるまで回答出来ない状況はとにかくストレスで

例えば、相手が正しい数式を書けない人だとしても
所作や性格や過去の会話情報から、なんとなく当たりをつけて答える事ができるし
その回答が不正解だとしても、トライ&エラーで数式を書き出す前に正解を出してしまう


結果的に私は恐らく『察してちゃん製造機』になっているのです

『他人に気持ちを伝える』という相手のプロセスを
私の傾聴能力がぶっ飛ばしてしまっているのです


そうして気付けば相手は私に対して
「こう言われたら嬉しい」から
「こう言え」と求めるようになる

私のせっかち脳は
相手の承認欲求を埋める為の道具に成り下がる
そうなった相手はもう二度と私自身に目は向けない


私は色んな人と話すのが好きで
それは一人一人思考パターンが違うからで、
どんな話をしていても真新しくて面白く感じるからで

ただ察してちゃんに関しては
どの人も思考パターンが同じなので、新しい発見はもう無い

察してちゃんと喋る時
私の脳は傾聴にスタミナを奪われているので
私にとって重要な『自分の思考』は後回しになる

つまるところ得るものが無い

相手にとっても私の存在は成長に繋がらない
はずなのに
そうなった相手は私のプライベートを奪いながら察してクイズを出してくる

私が居れば簡単に自己肯定を満たせるから
見返りなんか無いので、ただの脳と時間の無償提供


私は創作がしたい
そうじゃない時間は新しい情報をインプットしたい

私の近くの友達は、私の存在を『他人』として認識してくれる
私が自分自身のご機嫌を自分で取れる事を理解しているので、ちゃんと自身の視点から出た言葉を私にくれる
私が『ヨイショ言葉』をすぐ見抜く事を知っているので、意味も無く褒めたりしない
(私は褒められたい時「今褒められたいので『●●が出来てすごいね!』と言ってください!はいドン!」と言う)

だから忖度無しに友達に褒められた時、なによりも嬉しく感じる
他人に期待していないからこそ、言葉に裏が無くて私の脳は何のフィルターも通さず言葉を受け取る事ができるのです


察してちゃんは私を『理解者』と思っている
違うのです
察してクイズが始まった瞬間、出題者よりも先に『本質的に言われたい台詞』を導き出して発音する情報処理マシンになるだけ
その答えは共感する所があるから導けた訳でも何でもない
ただの傾聴能力


自分のメンタルケアを無償で他人に押し付ける思想のある人は私にとっては害

私は誰の思想も否定はしないし
客観的に歪んでいようとも、その人自身の世界はその人自身のものであって
害をなさない限りは他人がとやかく言うものでは無いと思ってる

だからその人の視点の話を聞く時は、その人の視点になって聞く

勘違いしないで欲しいのは
私はその人の世界の住人では無い
観覧者であって理解者では無い

私には私の視点の世界があるから
他人に依存されて自分の世界を放置するのは嫌

一緒に居て心地良い友達は
自分の世界に私を引き摺り込もうとして来ない
役名を与えて来ない
理想を押し付けて来ない
自分の自由も他人の自由も当然の権利と受け入れている


私は創作がしたい
それを理解して、心地良い距離感から「やってんね〜」と言ってくれる友達が好き
全ての人がそれくらいの心の余裕を持てれば良いのに

どうにも自分では埋められない心の穴がある人は私に関わらない方が良いと思う
私と喋っていても埋まった気になるだけ
本質から改善される事は無い
だって私も『他人に期待していない人』だから

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