見出し画像

解釈と宗教

認知機能の限界

 ヒトは、外界から感覚器官を通して情報を捉え、それをもとに内的に構築されたモデルとそのシミュレーション及びシミュレーション結果によって外界を把握する。これは、外界にあるすべての情報を統合して処理することが不可能な有限性を持っていることから、情報の効率的な圧縮と運用を行うシステムとして調整が行われた結果と言える。

擬人化

 つまり、内的に情報を捉えるときには、少なからず脚色が行われている。この脚色を行う機能のうち、(この表現自体が”それ”なのだけど)より人間的な、下層部分に「擬人化」がある。

擬○○化

 擬人化が言うところの「人」は、自分の経験が基礎になっているものと自分の知識が基礎になっているもの、と見ることができる。そして、その解像度の粗さが外界とのギャップを生み出し、それを補完するときに解釈が行われ、そこに物語性が生じる。

解釈

 世界を解釈したとき、そこにはギャップと理解が共存する。自分の思考上に限り正しい理解を行う行為が解釈とも表現できる。

宗教

 宗教(の知識的側面)は、太古から現代に至るまで、未解決問題に解釈を与えるシステムとして存在している。宇宙が誕生する前の世界はなにか、死後の世界がどのようであるか、あの人は何を思っているのか等、内的にシミュレーション結果が構築できないものがすべて駆逐されることは人間が有限性を持つ限りにおいて無いので、技術が進歩しても宗教は、少なくとも宗教性を帯びるものは、存在し続けるだろう。
 宗教にはもう一つの側面、実際的側面がある。包括的に表現すれば、体験を通して、外界と認知とのギャップに変化を起こす機能と言える。ここで重要なのは、「ギャップを減少させる」ではなく「ギャップに変化を起こす」という部分である。(結果的に)外界とのギャップを減少させるものもあれば、宗教の創始者が持つ、或いは確信したギャップに一致させることで、知識的側面との整合を図るものも存在する。

モデルとしての宗教

 現代ほど技術が発展していない時代から存在する伝統的宗教は、人間の何らかの側面についての的確さを持っている。新興宗教は、現代社会の何らかの側面についての的確さを持っている。的確だから素晴らしいとか良いとかそういう話ではなく、モデルとして有用な部分があるという意味において、自分は宗教を否定しない。

追補:一人の人間が経験あるいは思惟できる範囲と、一人の寿命を越えて残ることのできた思考体系とその伝達を目的とする記述や対話のどちらが広範であるか、というところから有用な部分を判断している。そこに偏向した解釈が含まれることには留意すべきだが、それは至極当然なものと言える。

解釈の漸減

 ここからは個人的な傾向性の話だけども。外界と認知とのギャップは少ないほうが解釈する負荷が減って平穏に暮らせそうなので、自分は解釈の機会を減らすようにしている。とはいえ、冒頭に書いたように外界と自分の間には、回避不可能なものとして解釈が挟まっている。であるなら、より的確な解釈が残るようにしていこうかなーって、そう思うのでした。おしまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?